SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

大きな非物語の崩壊

2010年01月03日 | Weblog
 新年早々から「神の性的不器用」だの「マテリアル・カタストロフィ」だの何かえらくハードなものを背負い込んでしまっている当方なわけだが(爆)、日本アート界のこれ以上の「ヌルさの累乗化」(@池田剛介)を止めるためにも、このままハードに突っ走っていきたい。昔から批評の世界は人数が少ないのだ。ひとりひとりが特攻隊になるしかない。
 ところで「マテリアル・カタストロフィ」というのは「大きな非物語の崩壊」のことである。東浩紀は『動物化するポストモダン』で「大きな物語の崩壊」については書いたが、その後の「大きな非物語の崩壊」については書くことをためらった。さすがの東も、大きな非物語(データベース)の崩壊による動物化した世界の滅亡というシナリオまでは、怖くて書くことができなかったのである。しかしニーチェは、すでに「動物化の限界」について書いていた。はっきりと「最終的には滅亡する」と予言しているのだ。

>すべての行動には忘却が属している。それは、すべての有機体の生命に、光ばかりではなく闇も属しているのと同じである。1 人の人間が徹頭徹尾歴史的にのみ感覚しようとするなら、それは、眠らないでいることを強いられた人間、または、ただ反芻するだけで、しかもたえず反芻を繰り返すことだけで生きるように強いられた動物に似てるであろう。それゆえ、―― 動物が示しているように、ほとんど思い出を持たずに生きることは可能であり、それどころか幸福に生きることすら可能である。しかし、忘れることなく生きるということは、まったく不可能である。あるいは、私のテーマについてさらに簡単に説明すれば、―― 不眠や反芻や歴史的感覚には、ある一定の限度があって、この限度に達すると、人間であれ民族であれあるいは文化であれ、生命あるものは、傷つけられ、最終的には滅亡する、ということになる。(清水真木著『ニーチェにおける雨傘の問題』より引用)