SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

インランド・エンパイア23

2009年12月28日 | Weblog

>僕が言いたいのはそこなんです。象徴界が部分的に成立して、なんとなくガタピシしながら動くなんてことは、ラカンは想定していないでしょう。(『不過視なものの世界』34ページより東浩紀の発言を抜粋)

『不過視なものの世界』の東浩紀と斉藤環の対談でリンチの話はごく僅かだが、しかしこの対談の全体にリンチが響いている、というか、逆にこの対談の内容が後のリンチの映画に全面化しているというか、とにかくリンチを理解するうえではすこぶる参考になるのだった。私は数ヶ月間シド・バレット状態で何もしなかったのだが(爆)、YouTubeで再び『インランド・エンパイア』のエンディングを何気に眺めていて、そこで驚くべきものを発見したのだった。時間にして僅か数秒だが、このことは決定的である。リンチはこのエンディングで件の「雨傘」を実際に我々に見せているのである。ニッキーが安心しきった表情で見上げているのは、金色に輝くモスクの雨傘状の天井なのだが、注目すべきは、その見せ方なのだ。リンチはこの雨傘の全体を見せずに、部分的に、しかもカメラを揺らしながら見せている。上の東浩紀の発言とおり、雨傘(象徴界)が部分的に成立して、なんとなくガタピシしながら動いている、ということが実際に示されているのだ。そしてさらに驚くべきことに、この部分的な雨傘に反応するかのように、木こりの男のかぶっているニットの帽子の先がピンと立っているのである。つまり触覚(もうひとつのエプロン)が、大きな非=物語(萌え要素のデータベース)にガチに反応しているのだ......。ちなみに女たちのデタラメな踊り方や、木こりの男が示す「切断」の意味は以下のとおりである。70年代のデリダのテクストのある特徴について東浩紀が語っている。

>人間の責任の範囲は、基本的に物理的な条件で制限されている。デリダふうにいえば「エクリチュール」の問題です。エクリチュールには限界がある。なぜなら物質だから。これは口頭の会話でも同じです。しゃべり続けると疲れる。しゃべれなくなるから話題を変える。あるいは解散する。そうやってコミュニケーションは続いていく。限界があるからこそ無限に続く。これは矛盾でもなんでもなくて、具体的にそうなんですよ。僕はデリダの哲学をそういうふうに受け取っている。(『波状言論S改』237ページより抜粋)

 そしてこのエンディングの最初には妙にケバい女が登場するが、どう見ても女装した男であり、しかも片足が義足である。萌え要素が「着脱可能」であるということを東浩紀が強調していた事を思い出すのだった。(続く)