SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

言うまでもない事

2006年04月16日 | Weblog
>むしろ「自分」という凡庸なる存在を常に相対化し「個性」なるものをズタズタに引き裂いていくのが歴史であるはずだ。その圧倒的な情報の厚みの前で「自分」の「個性」なんて消し飛んでしまう、言うまでもない事だ。

 いったい何が「言うまでもない事」なのだろうか。この信じがたい発言は「童話/日記」の池田孔介氏によるものである。ここで彼は「絶対主義」に対する「相対主義」の優位を単純に唱えているだけなのだが、なにしろ問題なのは彼の発言にはアイロニー(逆説)が無いことだ。そもそも絶対的なレベル(交換不可能性)と相対的なレベル(交換可能性)は「逆説」を介して否定的に繋がっているのであり、それらを切り離すことはできない。そこで「自分」や「個性」は相対化の果てに「消し飛んでしまう」のではなく、逆にその条件(単独性)が残余として現れるのである。それこそ言うまでもない事だ。

古谷利裕の幸福な夢

2006年04月16日 | Weblog
 06/04/14(金)の偽日記で古谷利裕は、何故かキャスターのついたドラム缶にへばりつくように抱きついて、ずっと先まで田んぼや畑がひろがる平坦な場所を、何かをやり遂げた後のような安堵感と、これから何かが始まるような予感とが入り交じった、あり得ないほど幸福な感情で満たされながら進んでいる、という夢を見たのだという。いったいどうしたらこんな奇妙な夢を見ることができるのだろうか。彼の説明では、身体の状態やその気分が反映されているというのだが、「キャスターのついたドラム缶にへばりつくように抱きついて進んでいる」というのはどういう状況なのだろうか? なんとも不思議な夢である。