「誤状況論(文学環境論集L 498ページ)」で見せた東浩紀の「批評空間」へのすさまじい粘着ぶりは、しかし実は浅田彰や柄谷行人へのある「信頼」に負っている。それは、彼らだけは決してボケたりしないだろう、いつまでもしっかりとした知識人でいてくれるだろう、という信頼だ。しかし彼らも人間なのだから、そんな信頼はまったく根拠のないものだ。アルツハイマー病の浅田彰や、老人性痴呆症の柄谷行人など想像もつかないが、生身の人間である以上ありうるのである。東浩紀は、そんな恐怖――もはや郵便的不安を超えた途方もない恐怖――にひそかに怯えながら、いままで批評をやってきたのである。しかしゼロアカの道場生たちは、道場主の東浩紀が、たとえばとつぜん深刻な失語症を患ってずっと黙ったままになるなんて想像したことないだろう。そんな別れがやってくるなんて夢にも思ったことないだろう。しかし批評というのは、たぶんそのような「さようなら」を意識することから始まるのではないだろうか。道場主がいなくなるときに、とくに「私は人間だ」と語る東浩紀が消えていくときに、あるいは明日、おそかれはやかれ、もはや存在しなくなるときに.........。