SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

インランド・エンパイア7

2009年03月02日 | Weblog
>虚構の仮説によって明かされた認識は、仮説が解釈される以前すでに、否定性のあらゆる力をもって存在していた認識であることが判明する。知に至ることは不可能だという認識は、知に至ろうとする認識の行為に先立つのだ。この構造は円環的なものである。未来を決定する、未来に関する仮説は、未来に先立ち、したがって過去に属する、歴史的で具体的な現実と一致する。無限の退行のなかで、未来は過去へと変えられる。ブランショはその退行を〈反芻(ルサスマン)〉と呼び、マラルメは、嵐が生のあらゆるしるしを破壊したあとの、はてしない無意味な海のざわめき、「なにか下方のざわめき」(『骰子一擲』)と呼ぶ。(ポール・ド・マン「マラルメを読むブランショ」ユリイカのマラルメ特集号より抜粋)

 ただでさえ難解なリンチの映画にマラルメの謎を重ねてどうするのかは知らないが、マラルメを通して『インランド・エンパイア』を観ることで少なからず分かってくることもあるだろう。上のド・マンの文章からは、やはりそういう理由で『インランド・エンパイア』にも「海洋」のイメージが混ざっているのだということが分かる、というか予想される、というか妄想される。ところで『インランド・エンパイア』には最後のほうに突然「子供」が登場するが、マラルメの『骰子一擲』にも謎の「子供の影」が登場しているという。訳者の秋山澄夫氏によれば、病気で亡くした長男アナトールなのかもしれないということだ。

>〈かの岸のデモン〉という箇所は、直訳すれば〈未来の過去のデモン〉であり、デモンという語を反対の形容詞で挟んでいるのである。〈そのあどけない影〉の〈その〉は、〈老いたる者の〉であり、〈あどけない影〉(未来への希望を託された新しい生命である子供の影)は〈デモン〉の分身は同格であろう。中期以後の重要な作品にしばしば〈子供〉が現れるようになるのだが、われわれの恣意よる交換によって、子供を〈つくり〉得るということが、なにか〈創造〉への驚異と希望とを示唆したのではないだろうか。愛児アナトールの無意識的再生がなされていたということも考えられないことではない。〈狂気〉については、カント『判断力批判』のなかに、〈原理に従って夢み理知によって狂う〉という禅語めいた文句がある。(思潮社刊『骰子一擲』の解説より)