すんけい ぶろぐ

雑感や書評など

スン・チョウ「きれいなおかあさん」

2005-03-08 14:11:05 | 映画評
区別と差別


トイレが男性と女性で分かれているのは、区別でしょうか? 差別でしょうか?
ジェットコースターで背丈が低いと乗れないのは、区別でしょうか? 差別でしょうか?
女性が土俵に上がれないのは、区別でしょうか? 差別でしょうか?
天皇家に苗字がないのは、区別でしょうか? 差別でしょうか?
タバコは二十歳からなのは、区別でしょうか? 差別でしょうか?
銭湯で入れ墨の方がお断りなのは、区別でしょうか? 差別でしょうか?


以前テレビを見ていますと、障害のある子供(具体的な障害は忘れました)が、教育委員会か知事か文部省だったかに、「普通の学校に入学させて下さい」とお願いをしておりました。
個人的には「本人の希望というよりは、親が言わせているのかなぁ~」と斜めに見ておりました。

親にしてみれば普通の子供と同じ生活を体験させたいのでしょうが、障害がある以上は特殊な教育が必要でしょうし、う~む、痛し痒し。


で、「きれいなおかあさん」

中国の映画です。
夫と離婚した母が、難聴の障害を持った子供を普通の学校に入学させようと奮闘する物語です。まぁ人情もんです。「至福のとき」にも障害者が登場しておりましたが、あっちほど暗くはありません。


正直なところ、お母さんの努力の意味がよく分からなくて、「?」というマークを頭に乗っけたまま映画を見ておりました。
工場の昇進話を蹴って、敢えて不安定な職に就き、どうにか息子に教育を施す時間を確保します。しかし、お母さんが、なんでそこまでして聾学校を避けて普通の小学校に入学させたいのか、その説明が弱いんですよ。
一応「聾学校の生徒の障害は色々だけれども、自分の息子は難聴以外に欠点はないから、普通の学校で勉強させたい」ということらしいのですが、その聾学校の実状が出てこないから、見ている方は、どうにもお母さんの抱いている危機感を共有したり、同情することができない。

回想シーンで聾学校をちょこっと出すだけでも、いいのになぁ~と思っておりました。

が、結局、最後のシーンで、主人公の母が息子の障害を認める勇気がなくて、無理して普通に扱おうとしていたことが明かされます。
でも、小学校の入学は諦めないんですけどね。


まぁ王道人情ものなので、お好きな方には、たまらないのでは?


きれいなおかあさん

ハピネット・ピクチャーズ

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村上春樹「海辺のカフカ 下巻」

2005-03-07 18:50:50 | 書評
「海辺のカフカ」でナカタさんが恐れる知事は時期的にも石原先生のことだよなぁ。エッセイで微妙に揶揄していることもあるし、石原先生と言えば戦争大好きだし、ナカタさんは戦争嫌いだし。


上巻からの続きです。下巻も読み終わりました。


どのエッセイだか忘れたが、村上春樹が仕事の依頼をされた際に「都会的な小説をお願いします」と言われて、
「都会的な小説ってなんだ?」
と記述していたのを覚えています。

確かに「都会的な小説」という言葉の定義が怪しいですが、まぁ、感覚的には理解できます。「人間関係が希薄」という感じでしょうか?
村上春樹の小説の中では、登場人物は地域性に属することなく、個人の記憶だけに依拠した悲しみを抱いて、一人で痛みに耐えている。友人や恋人との邂逅によって、その痛みはより深まったり、癒されたりする。

しかし、その物語の進展にかかわる関係性に血縁が登場することは、稀ではなかったでしょうか? それが、「都会的」な印象を与える一因でもあったように思われます。


「アフターダーク」以外の長編小説は、だいたい読んでおります。が、全部を完全に覚えているわけではないです。ので、断言はできないのですが、これまで村上春樹の長編小説で、主人公の家族が重要な要素になることはなかったのでは?

「ねじまき鳥クロニクル」では、主人公の妻の「クミコ」に対して、その兄である「綿谷ノボル」が近親相姦の願望を抱いていることが描かれていました。
しかし作中において多くは語られておらず、読んだ当時は「綿谷ノボル」の「悪」を強調する小道具として、安易に持ち出した印象が否めず、「安っぽいな」と思っておりました。

しかし、以降に発売された「神の子どもたちはみな踊る」では、短編ではありますが主人公が母に対して近親相姦の願望を抱いている作品があります。
正直なところ、近親相姦をテーマにするなんて村上春樹らしくないなぁ~と思っていました。


で、「海辺のカフカ」は、どっぷりと「家族」を重要なモチーフとして書かれております。

村上春樹の小説は、毎回「都会的」の他にも「性」も重要なモチーフとなっています。これに「家族」が加わった結果、「近親相姦」となるわけです。普通なら「家族」をテーマにしても「近親相姦」とはならないのでしょうが、村上春樹にとっての「性」は、そこまで求めてしまう苛烈なものなんだなぁと、「海辺のカフカ」を読んで思わされました。

これまで村上春樹が注意深く「家族」というもの主人公から排除した作品を成立させてきた理由の一端が、垣間見える気がします。(別に、村上春樹に近親相姦の願望があると言いたいわけではありません)


「大島さん、ほんとうにありのままに言って、僕は自分という現実の入れものがぜんぜん好きじゃないんだ。生まれてからただの一度も好きになったことがない。むしろ僕はそれをずっと憎んできた。この僕の顔や、僕の両手や、僕の血や、僕の遺伝子や……とにかく、僕が両親から譲り受けたものすべてが呪わしく思えるんだ。できたらこんなものからすっかり抜けだしてしまいたいと思う。家を出ていくみたいにね」
 大島さんは僕の顔を眺め、それから微笑む。「君は立派に鍛えあげられた肉体を持っている。誰から譲り受けたものであれ、顔だってなかなかハンサムだ。まあハンサムというにはいささか個性的すぎるかもしれないけれど、ぜんぜん悪くない。少なくとも僕は好きだ。頭もちゃんと回転している。おちんちんだって素敵だ。僕にもそういうものがひとつあればいいのにと思う。これから先、少なくない数の女の子が君に夢中になるはずだ。そういう現実の入れ物のいったいどこが不満なのか僕にはわからないけどね」
 僕は赤くなる。
 大島さんは言う、「まあいいや。きっとそういう問題でもないんだろうね。でもね、僕だってこの自分という現実の入れ物が決して気に入っているわけじゃない。当たり前の話だ。どう考えたってまともとはいえない代物だものね。便利か不便かという文脈でいえば、はっきりいってひどく不便だ。しかしそれにもかかわらず僕は内心こう考えている。外殻と本質を逆に考えれば――つまり外殻を本質だと考え、本質を外殻だと考えるようにすれば――僕らの存在の意味みたいなものはひょっとしてもっとわかりやすくなるんじゃないかってね」(村上春樹「海辺のカフカ 下巻」82頁~83頁 新潮文庫)


さて、村上春樹のイメージである「都会的」というのは、「本質」なんでしょうか? 「外殻」なんでしょうか?


海辺のカフカ〈下〉

新潮社

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神の子どもたちはみな踊る

新潮社

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ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編

新潮社

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ねじまき鳥クロニクル〈第2部〉予言する鳥編

新潮社

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ねじまき鳥クロニクル〈第3部〉鳥刺し男編

新潮社

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懸田克躬「病的性格」

2005-03-06 13:20:02 | 書評
クレオパトラの鼻がもう少し低かったら歴史が変わっていたように、ケリーの顔がもう少し短かったら………


かなり前の話で、かなりうろ覚え。
ブッシュ(父)大統領が来日した際に、日本の平均的な家庭を紹介するというので、えらく小奇麗な格好をした夫婦の一軒家を訪ねたことがありました。多分、都内だったと思うのですが、とても「平均的な家庭」とは言えない広さの一軒家だったのを覚えています。(ニュースキャスターにも、つっこまれてました)

ええかっこしようとしているんだか、何なんだか………。

なにが平均? というのは、けっこう怪しいもの。
所詮、数字だからね。扱う数字を選べば、自分の望んだ結果を導き出すことも、できます。

まして人間の性格なんて、どうやって平均を考え出すのやら。


病的性格または精神病質という概念は実践的な概念であり、異常性格のうちで、その異常性のために自分が悩み、または第三者(シュナイダーは社会が悩むという表現を使っている)が悩まされるものであると一応約束されている。したがって、病的性格の判定には、まず、性格の異常が認められること、次いで、そのためにみずから、あるいは他人が悩んでいるという二段の操作を必要とするのである。(懸田克躬「病的性格」24頁 中公新書)

「慎重」と「臆病」、「勇敢」と「猪突」、「豪華」と「過美」、「溺愛」と「過保護」等等、過ぎたるは及ばざるが如しですが、まぁ、そのさじ加減は難しいものです。

本書では、極端なところ、その性格が「邪魔か? 邪魔ではないか?」と、ずっぱりと功利的な基準で判断しております。
分かり易い基準です。

しかし、ちょっと古い本なので、摂食障害の「過食/拒食」を「巨食/無食欲」と表現しています。初版が1965年となっていますので、仕方ないのでしょうけど。

内容は古いですが、非常に網羅的です。さすがに今まで版を重ねているだけあります。そのため、ちょっと専門的です。軽い気持ちで手にすると、ちょっと面食らうかもしれません。

入門書としては最適ですので、なにかに入門したい方には、よろしいのでは?

横山光輝「長征」

2005-03-05 16:53:11 | 書評
今の総書記は、影が薄いよなぁ


実家には、父親の趣味で横山光輝の「三国志」が、最後の十巻だけありました(全巻そろってないところが、我が父らしくテキトウです)。諸葛亮と司馬懿が死闘を繰り広げているところです。
その後「三国志演義」も読んでみたのですが、しかし絵として刷りこまれている三国志は、横山光輝の「三国志」です。(「蒼天航路」は未読です)

ちなみに他の横山光輝作品はほとんど読んだこともありません。
そんなわけで、横山光輝と言うと三国志で、三国志と言えば横山光輝といった感じです。

で、最近、なにげなく寄った本屋で発見したのが、この「長征」です。
長征がなにかと言いますと、帝国軍に虐げられていた共和主義者がドライアイスの船で脱出し、人類が生存可能な惑星を見つけるまでの過程のことです。………………嘘です。

本当は、西安事件による第二次国共合作が成立する前に起こった事件です。中国共産党が国民党の包囲網を破り、新たな根拠地を探すために始めた行軍を「長征」と呼んでおります。その困難さは、「長征」の最後に、こんなふうに表現されております。

長征の所要日数は
三百七十一日。
歩いた距離、一万二千キロ、
四百十数個連隊の敵を殲滅し、
五十余りの大中県城を占領し、
大雪山をふくむ十八の高山を
越え、十七の大河を渡り、
七つの強固な封鎖線を破り、
六つの著名な要害を突破した。

この試練を生きぬいた紅軍は、
その団結力と強じんな
精神力において、世界でも
最強の軍隊を作り上げ、
革命に対する自信を
ゆるぎないものにした。

今日の中国の背景は、
この長征の試練によって
作られたものである。
(横山光輝「長征 (下巻)」 230頁 講談社漫画文庫)


有名な出来事ですけど。まさか、漫画化されているとは。日本の漫画文化の翼の広さに多少唖然とさせられました。初掲載が1973年となっていますから、時代もあったんでしょうけど。
まだ文革の最中ですね。だから、毛沢東は無条件に有能・善人に描かれております。


内容は、横山光輝の絵で舞台は中国ですから、いくら登場人物たちが近代的な武器を持ち、服装をしていても、僕には三国志です。やはり三国志です。

高島俊男の「中国の大盗賊・完全版」で、「中華人民共和国なんて言っているけど、結局、毛沢東王朝なんだよ」と主張していました。
この「長征」では国民党を悪役にして、毛沢東を善玉にしているんですが(中国共産党が善玉ではありません)、横山光輝の絵を見ていると、
「あぁ、国共の争いも三国志と同じなんだなぁ」
と、思ってしまいます。

現権力者の正統性に関して、歴史をつかって証明するなんてことも、もろ「中国史」ですなぁ。


まぁ、そんな作品です。「史記」「三国志」とは、また違った風景の横山光輝作品に触れてみたい方には、よろしいのではないでしょうか?


長征 (上巻)

講談社

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長征 (下巻)

講談社

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村上春樹「海辺のカフカ 上巻」

2005-03-04 22:02:49 | 書評
三つ子の魂なんとやら


高校のときです。
あんまりクラスにも馴染めず、特定の仲の良い友人とだけ付き合っておりました。

特に三年になると、クラスにはMしか友人がおりませんで、振り返ってみると「ホモか?」というくらい、一緒に居たように思います。

そんなわけで、ある同級生が、
「おれ、未だにすんけいとMの区別がつかないぜ」
と大声で言われる始末。

そんで、社会人になった今も友人は少ないです。

環境がちょっと変わったくらいでは、そうそう生き方は変わりませんな。


で、村上春樹の「海辺のカフカ」です。
文庫になったので、手にしてみました。
現在、上巻だけ読了。今回の感想は、途中経過になります。


話は、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」と同じで、別系統の物語が交互に進みます。

一つは、ある事件をきっかけに記憶や複雑な思考能力を失いつつ、猫探しを仕事にしている老人の話。
もう一つは、こんな感じ。
15歳の誕生日がやってきたとき、僕は家を出て遠くの知らない街に行き、小さな図書館の片隅で暮らすようになった。
 なんだかおとぎ話みたいに聞こえるかもしれない。でもそれはおとぎ話じゃない。どんな意味あいにおいても。
(村上春樹「海辺のカフカ 上巻」12頁~13頁 新潮文庫)
どちらかと言いますと、こちらの物語の方がメインになります。主人公の名前も、題名にも使われているカフカですし。

で、このカフカ少年。学校では、孤立しています。友人はおりません。
まっ、つまり、村上春樹の小説に出てくる、典型的な「孤独でありながら、孤独を享受している」というキャラクターです。

にもかかわらず、「家を出て遠くの知らない街に行」くと、なんだか色んな人間が、多くを語ることなく彼の窮状を理解してくれて、さらに手助けしてくれます。しかも、ある一線を踏み越えるような田舎のおばちゃん的な不躾な援助は、絶対にしません。押し付けることはなく、ただカフカ少年が踏み外さないような環境を、優しく構築してくれます。

学校で好かれないような人間が、いわんや他の環境において、こんなに好かれるであろうか? いや、ない。

まぁ、このおとぎ話のような展開をムカつく人間には、村上春樹の作品は読めないでしょうけどね。


個人的には、ムカつかないこともないのですが、やはり、日本屈指の小説家の筆さばきを、感心しつつ、面白く読ませてもらっています。

何が正しいのか正しくないのか、私にはもうわからなくなっていました。私の見ている風景がほんとうに正しいものなのか、私の目にしている色彩が本当に正しいものなのか、私の耳にしている鳥たちの声がほんとうに正しいものなのかどうか……。そして私は森の奥で、ひとりぼっちで、混乱し、子宮から多くの血を流し続けていました。私は怒り、怯え、恥の中に沈んでいました。私は泣きました。声を上げずに静かに静かに泣いていました。(村上春樹「海辺のカフカ 上巻」210頁~211頁 新潮文庫)
こんなシーンも、普通に読んじゃいそうですけど、実際には、非常にシンボリックです。
「ノルウェイの森」の最後に、交差点という岐路に立っている主人公が「僕はどこにいるんだ?」と自問するシーン(うろ覚え)がありますが、それとモロにかぶってますね。

「ノルウェイの森」では、「直子」と「緑」という二人の女性がそれぞれ「死に引きずられていく人間」と「死に立ち向かっていく人間」として描かれ、主人公はどちらも選べないというシーンで落ちます。

で、「海辺のカフカ 上巻」の、この引用したシーンでは、「森」と「血」が描かれています。つまり、「緑」と「赤」です。
覚えてます? 「ノルウェイの森」の表紙ですね。

対応表にしますと、こうなります。
「海辺のカフカ」での文中「ノルウェイの森」での登場人物象徴するもの
直子

つまり、「私は森の奥で、ひとりぼっちで、混乱し、子宮から多くの血を流し続け」るというシーンは死(血)が生(森)に内包されているわけでして、「ノルウェイの森」での有名な言葉、
死は生の対極としてではなく、その一部として存在する。
のまんまなんですな。

故に、この「私」の「ひとりぼっちで、混乱し」ている様は、単に生理が始まってパニくってるわけではなく、「生」と「死」の世界にはさまれた人間の「怒り、怯え、恥」を表現しているわけです。


相変わらず、村上春樹です。一筋縄ではいきません。


他にも、いろんなギミックを入れこんでいるんだろうなぁ。どこまで理解できるのやら。(カラスと呼ばれる少年も、他の作品で出ているのかな?)


ともかく、下巻にいきます。

海辺のカフカ (上)

新潮社

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ノルウェイの森 上

講談社

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ノルウェイの森 下

講談社

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陳凱歌「北京ヴァイオリン」

2005-03-03 03:34:10 | 映画評
Googleで探せない情報がありますと、自分の記憶の方を疑ってしまいます


「クロコダイル・ダンディー」という映画があったのを覚えているでしょうか?
野生児の主人公が、都会で起こすお約束のコメディーです。

この映画のモデルになった人は、敷地問題でもめて、警官に射殺されたという記憶があるのですが、ソースを探せませんでした。
僕の妄想でしょうか?


「北京ヴァイオリン」も、ぶっちゃけて言ってしまうと、そんな「おのぼり」に中国映画お得意の「人情」をからめたものです。


先日NHKで、「シルクロード」を振り返るといった特番が放送されおり、そこで「この映像に映っている人間を探そう!」というコーナーがありました。
それで、田舎に戻っていた機関車の整備士を都会に呼び戻していましたが、彼はわざわざ中山服(人民服)を新調して来ました。中山服というは、あの小平が着ていたヤツ
今、北京や上海のニュース映像を見ても、誰も着ていないことから分かるように、かなりの田舎でないと通用しないです。(日本だと、モンペといった感じでしょうか?)
で、集まったかつての同僚たちが歌っていたのは、毛沢東を讃えるもの。

日本と違って、地方と都会の違いが、まだまだあからさまに存在する中国だからこそ、こういう映画が成り立つんでしょうなぁ。


お涙頂戴が嫌いでなければ、適度に楽しめるのでは?


北京ヴァイオリン 特別プレミアム版

ジェネオン エンタテインメント

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大原健士郎「うつ病の時代」

2005-03-02 13:40:45 | 書評
「うつ病」の本も、これで三冊目か


個人サイトの更新が減る理由、一番は「ネタ切れ」だそうです。

同感です。

このブログは、基本的に「読んだもの」と「見たもの」の感想を述べているので、本人のやる気があれば「ネタ切れ」は防げます。
が、当初は感想の前に個人的な出来事などを付記する「前振り」があったのですが、もう書くことがなくなってきました。


というわけで、いきなり感想。
「うつ病の時代」というタイトル通りの本です。

心中(しんじゅう)とは、もともとは心中(しんちゅう)、つまり、心の中とか、真心とかを意味する言葉である。親が自殺をするに当たって、子供を殺す行為が心中という言葉によって美化され、合理化されて、世間の人々の同情を集めるようになったものである。この親子心中を口で批判することは、比較的容易である。しかし、実際にケースに接すると、われわれ日本人は、どうしても同情的な態度をとる傾向がある。(大原健士郎「うつ病の時代」74頁~75頁 講談社現代新書)


ただ他の本と変わっているのは、「情死」や「親子心中」といったものまで、取り上げている点です。
うつ病が自殺と密接な関係にある(同書54頁)
という前提から「情死」や「親子心中」も自殺の亜型であり、うつ病の影響が見られると述べられています。

さらに「親子心中」という実際の事件を聞くと、引用文のように日本人の母親は同情するそうです。しかし、アメリカの母親であると批判するといった例などを挙げて、随所に日欧米の文化の違いなどを論じておるところも、本書の独特な点です。


こんな感じで、「うつ病にまつわる話」が載っているので、第三者として「うつ病」について知りたいときには、おもしろいかもしれません。
が、当事者や患者の家族や知人として「うつ病」と接しなくてはいけないような人には、ちょっと物足りないかも。

後、初版が1981年なんで、内容が微妙に古いね。

こんな感じです。


うつ病の時代

講談社

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井波律子「奇人と異才の中国史」

2005-03-01 11:08:18 | 書評
三国志だけが、中国史ではない


陳舜臣「小説十八史略」を読んで以来、中国史は好きです。

これのおかげで、高校の世界史では、中国地域に限っては勉強が必要ありませんでした。
ありがとうございました。


で、久しぶりに軽く中国史関連の本が欲しくて手にしたのが、「奇人と異才の中国史」です。

本書では古代から近代までの歴史上の人物五十六人を、簡潔に紹介しております。
思想家の孔子、英雄の曹操、詩人の李白といった正史的な人物から、講釈師の柳敬亭、蔵書家の毛晋という野史的な民間人まで拾い上げています。


こちらは、岩波新書から出ております。
なんとなく思ったことなんですが、こういう形式の本が成り立つのは、「日本史」以外では「中国史」だけではないでしょうか?
探せば「奇人と異才のイタリア史」とか「奇人と異才のインド史」とか「奇人と異才のモルディブ史」もあるのかもしれませんが、それが岩波というメジャーな出版社で、新書という一般向けの形式で出版されることは、ないのでは?

日本人にとっての中国史は、「日本史に内包している」とまでは言えなくても、「日本史と併走している」という意識があるんでしょうなぁ。


隠忍して苟しくも活き、糞土の中に幽せられて辞せざる所以の者は、私心に尽くさざる所有り、鄙陋にして世を没し、文彩の後世に表れざるを恨めばなり。(井波律子「奇人と異才の中国史」24頁 岩波新書)

で、引用した文章は、司馬遷が死刑ではなく宮刑という辱めを選んだことについて、自分で説明しているくだりです。

今回は、歴史の父である司馬遷に敬意を表して、という感じです。


「奇人と異才の中国史」の方ですが、一人の人物について3頁~4頁程度で簡単に説明しているので、サクサク読めます。
内容も平易ですので、ちょっと中国に触れたいという時には、かっこうの本では?


奇人と異才の中国史

岩波書店

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