すんけい ぶろぐ

雑感や書評など

山本周五郎「ながい坂 (下)」

2006-03-27 08:55:04 | 書評
つまりは江戸時代版「プロジェクトX」なんですよ


山本周五郎「ながい坂 (下)」を読み終わりました。
単純に面白かったです。

最後のオチである「成り上がりの主人公」と、そのライバルである「旧権力の御曹司」との合流(「和解」または「融合」、「統一」)というのも、中高生のころだったら「はぁ?」と思ったでしょうが、こうして年を取ってみると、分からないでも。


しかし、この構図「実務家の成り上がり」と「お飾りの権威」って、どこかで見たような?
…………なんのことはない、天皇制のことなんだろうね。

SFは異世界を描きながら、得てして現実を色濃く反映しているように、この作品も時代劇(つまりは異世界)ではあるけれども、高度経済成長の日本がベースになって成立している物語なんだよなぁ。


「人間は環境や遺伝子で自らの運命が決まるわけではなく、自分の努力次第では、出世することもできる」という主人公の生き様は、団塊世代の美しいサラリーマン像なんだろうなぁ。

でも「努力万歳、出世万歳」となっていますが、それによっては「必ずしも金銭的に報われるわけじゃないよ~」と書いてあるところが、日本的。

さらに、事が成就したにもかかわらず、その瞬間に虚脱感に襲われるシーンなんて、外国人には理解し難いものがあるだろうなぁ。
 主水正はまた例の、理由のわからない苦悶におそわれることを感じ、独りになると庭へ出ていった。御新政改廃は、巨大な壁を突きやぶり、周到に固められた地盤を、転覆させることであった。それには非常な危険と困難がともなう筈であった。主水正としては一滴の血も流してはならないということを、念入りにみんなに伝えた。決して騒ぎを起こすなとも。――けれども、計画がこのように事なく終ってみると、ほっとするよりもむしろ、張り詰めた気力の喪失と、避けようのない肉体的な虚脱感にまでとらわれたのである。――昏くなってゆく庭を、いつものようにくぬぎ林までいった主水正は、腰掛へ腰をおろすなり、両手で頭を抱え、暫くのあいだ身動きもしなかった。
「改廃、転覆」と彼は呟いた、「こんなことでなにかが解決するだろうか、御新政は慥かに悪政であった、しかし六条一味には六条一味の考えがあり、主張があったにちがいない、人間のすることに正邪はあるが、人間そのものにそなわった正邪に変りはない、われわれのしたことが本当に善であり、かれらの立場が悪であるということができるだろうか」
 そのとき予感したとおり、苦悶の発作が始まった。これは精神的なものか、それとも肉体的なものか、こんどはつきとめてやるぞと、けんめいに注意力を集中してみたが、いまにも胸の潰れそうな、その烈しい発作には勝つことができず、彼は両手で胸を掴み、膏汗をながして大きく喘ぎながら、叫び声を出すまいとするだけで精いっぱいだった。
「さあ、いくらでも苦しめろ」と主水玉はふるえ声で呟いた、「この発作がなんであるかは知らないが、改廃のおさまりを見るまで、おれは死ぬことはできない、どんなに苦しくともおれは死にはしないぞ」
 苦悶の発作はこのまえよりひどかった。胸の圧迫はたとえようもなく強烈で、呼吸も満足にはできず、吐く息、吸う息のために、全身の力をこめなければならなかった。彼は腰掛から立ち、くぬぎ林の中へはいって、その一本にしがみついた。そのため梢から、枯葉がはらはらと散り落ち、そのうち二枚の黄色くちぢれた葉が、主水正の髪の毛に止まったが、彼はそんなことにはまったく気がつかなかった。
山本周五郎「ながい坂 (下)」441~443頁 新潮文庫
「人間のすることに正邪はあるが、人間そのものにそなわった正邪に変りはない」なんて世界で、他人を排してまで大事を断行しようとすれば、その「後ろ盾」を、どこに求めるか?
……………天皇(権威)を担ぎ出してくるしかないんでしょうな。


他にも中央資本(外資)による地域経済の破壊とか、現在でも通用するネタも多数アリ。
単純に物語としても楽しめましたが、現在への寓話しても、まだまだ力のある作品だと思います。


ながい坂 (下巻)

新潮社

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ちょっと古い話題

2006-03-25 08:53:14 | 雑感
好対照と近似


左右があまりに好対照で面白かったので、のっけてみました。

右は褒めて、左は貶して。
スタンス次第で、毀誉褒貶など、どうにでもなるという、好例です。

一方で、慶応病院の話が、両方に載っています。
親族が、たれこんだな?

保阪正康「あの戦争は何だったのか」

2006-03-22 08:52:22 | 書評
あの戦争は「アメリカに責任がある!」と言うのはいいが、日中戦争は、どうなる? 「事変」と定義して逃げるのか?


久しぶりに歴史関係の本でも読むかと手に取った「あの戦争は何だったのか」。

第二次世界大戦の日本を振り返るという本です。

けっこう面白かったです。
が、けっこう前に読んで、感想を書かないまま放っておいたので、内容を、けっこう忘れた。

あぁ年をとるって…………。


そんなわけで、ちょっと読み返しながら、感想を書いております。

敗戦直後は、三年八ケ月もの太平洋戦争が続いたこともあり、「ああいう苦しみは嫌だ。もう二度と戦争は嫌だ」という感情が拭い去れぬ時間帯があった。ただそれが十年経ち、二十年経ち、今に至るも、戦争はそうした反省色の濃い、形骸化した感情論だけで語られているのである。
 また一方では、このあまりにも一元化した歴史観が反動となって、今度は「新しい歴史教科書をつくる会」のような人たちが現れ、「大東亜戦争を自虐的に捉えるべきじゃない」などと言い出している。しかしこれも、同じように感情論でしか歴史を見ていない、「平和と民主圭義」で戦争を語る者たちとコインの裏表のように感じる。
保阪正康「あの戦争は何だったのか」6頁 新潮新書
著者のスタンスは、まずまず中立だと思います。

全体としては「誰に責任があるのか?」という感じ。

で、誰が問題だったの?
天皇なの、政治家なの、軍部なの?
軍部にしても、陸軍? 海軍? 大本営?

で、著者は、「海軍」にスポットライトを当てます。
一般には「陸軍に引っ張られて戦争に突っ走った」というイメージがあるのですが、本書では、いくつかの例を挙げて、「海軍」の責任を浮き彫りにしていきます。

例えば、有名な「ABCD包囲陣」による石油の禁輸措置。

大東亜戦争肯定派が、「こんなひどいことをされたんだから、アメリカと戦争をしたのは、当たり前だ!」という論拠に必ず挙げるものです。

 実は、本当に太平洋戦争開戦に熱心だったのは、海軍だったということである。
(中略)
 昭和十五年十二月、及川が古志郎海相の下、海軍内に軍令、軍政の垣根を外して横断的に集まれる、「海軍国防政策委員会」というものが作られた。会は四つに分けられており、「第一委員会」が政策、戦争指導の方針を、「第二委員会」は軍備、「第三委員会」は国民指導、「第四委員会」は情報を担当するとされた。以後、海軍内での政策決定は、この「海軍国防政策委員会」が牛耳っていくことになる。中でも「第一委員会」が絶大な力を持つようになっていった。
 この「第一委員会」のリーダーーの役を担っていたのが、石川と富岡の二人であった。「第一委員会」が、巧妙に対米美戦に持っていくよう画策していたのである。
 「第一委員会」が巧妙に戦争に先導していった一つの例として「石油神話」がある。
 首相に就いた東條が、企両院に命じて行わせた必要物資の調査では、海軍省も軍全部もその正確な数字を教えなかった。むろんここには陸軍と海軍の対立もあったが、そのために「項目再検討会議」では具体的な論議ができなかった。巧妙な罠を什掛けていたのである。
 この会議での調査報告では、その当の石油の備蓄量は、「二年も持たない」との結論であった。結局、それが、直接の開戦の理由となった。
 しかし、実は、日本には石油はあったのた。
 実際に私は、陸軍省軍務課にいたある人物から、こんな証言を聞いた。
「企両院のこの時の調査は、実にいい加減なものたったんです。陸軍もそうでしたが、特に海軍側は備蓄量の正確な数字を企両院に教えなかった。海軍の第一委員会が〝教える必要はない〟の一点張りで、企両院は仕方なく、大雑把なデータから数字を割り出し、計算して出した結果なのです」
 企画院という組織は独立した一官庁であったが、大蔵省、商工省など各省庁機関から派遣された者が寄り集まってできた機関であった。陸軍省、海軍省からも派遣されており、彼らの申告した根拠のない数字に基づいてデータが出されていた。
 先の人物は、さらに面白い話をしてくれた。
「開戦前、アメリカに輸入を止められてしまい、石油がなく〝ジリ貧〟だというのは、一般国民でも知っていることでした。それでそんなに石油がないのならと、ある民間貿易会社が海外で石油合弁会社を設立するというプロジェクトが起こったんです。普通だったら、喜ぶ話ですが、軍は圧力をがけて意図的に潰してしまいました」
 つまり、「石油がない」という舞台設定をしないと、戦争開始の正当化はできない。特に海軍は船を動がすことができなくなってしまう、というのが大義名分としてあった。それをうまく利用したのである。石油の備蓄量が、実際にどれだけあるがなど、いったい何人が正確に把握していただろうが。
 開戦に至るには、実はそうした裏のシナリオが隠されていたのだ。
 そのシナリオを書いたのが、「第一委員会」だったのである。
(中略)
 歴史の教科許にも書かれている「ABCD包囲陣」なるものがある。アメリカ、イギリス、中国、オランダによって、日本は輸入経路を閉ざされてしまい、石油がなくて佳句方なく南部仏印に進出したということになっている。しかし、これも「第一委員会」が作り上げた偽りの理由付けにすぎなかったのだ。
(中略)
 東條の秘書官だった赤松はこうも言っていた。
「あの戦争は、陸軍だけが悪者になっているね。しかも東條さんはその中でも悪人中の悪人という始末だ。だが、僕ら陸軍の軍人には大いに異論がある。あの戦争を始めたのは海軍さんだよ……」
 太平洋戦争開戦について、最初に責任を問われるべきなのは、本当は海軍だったのである。
保阪正康「あの戦争は何だったのか」87~93頁 新潮新書
「ほぉ~、なるほどなぁ」とは思いました。
が、「で、実際には、いくらくらいの備蓄があったのか、調べなかったの?」という疑問はわきました。これがないと、「海軍の開戦黒幕説」の論拠としては弱くなるなぁ。
データが残ってなくても、ある程度の推測はできるんじゃないかな?
推論すら載せなかったのは、論拠が崩れるからなのかなぁ? ……………と邪推。

それは置いておいて。


ともかく「海軍の責任」に注目しているのは、面白かったです(当然、陸軍無罪と言っているわけではありません)。

ただ本書は「敗戦の責任が誰か?」という立場であり、「戦争の責任が誰か?」と言及することはありません。(軍部の玉砕戦法を批判しても、兵士の住民虐殺とかには触れておりません)
それが、気になる人は、気になるかもしれません。

逆に「お涙ちょうだい的な人道論を排していて読み易い」と思う方もいるのかな?


あの戦争は何だったのか―大人のための歴史教科書

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堀井雄二「ドラゴンクエストI」

2006-03-21 08:59:01 | その他の評価
惰性ってやつですな


忙しい、忙しいと思いつつ、SH902iになってから、けっこうゲームしているな。
よくないね。
とは思いつつ、「ドラクエII」をクリアーした余勢で、そのまま「ドラクエI」をやりました。(公式サイト)

うーん、「ドラクエII」がようけいできておったんで、今さら「ドラクエI」をやっても、アレだなぁ。
なんか物足りなん。

つまらんわけでもないけど。

ゲーム自体は快適。苛立つような箇所はなし(ルーラで最初の城にしか行けないのが、ちょっとムカつくが)。
ゲームバランスは、「ドラクエII」と同じように、ちょっと簡単になっているかもしれません。

が、レベルが一つ上がると、途端に戦闘が楽になる、微妙なさじ加減は健在。
さすがだね。


他、携帯ゲームの感想。
光栄「Mobile太閤立志伝」「太閤立志伝III」も途中で進まなくなって、止めたんだよなぁ………………
堀井雄二「ドラゴンクエストII」「III」は、やっぱ無理か?

ドラクエ8の感想。
堀井雄二「ドラゴンクエストVIII」想像力が権力を奪う

シグマA.P.Oシステム販売「UVK4HSV 切替の達人2 USB・VGA切替セット」

2006-03-20 08:33:47 | その他の評価
これも自費で購入


会社で使っているのは、VAIOのVGN-E91です。
ビジネスでVAIOノートというのも、どうかと思いますが、私物だから仕方がない。

そんで、プリンタつないで、マウスつないで、テンキーをつないで…………という調子なので、USBが埋まる埋まる。
USBメモリなんか挿しちゃうと、もう空きなどない。


「ハブが欲しいな」と思いつつ、一方でUSB切り替え機も欲しかったする。
なんでかと言いますと、社内にLANが不完全なため、三台あるパソコンのうち、二台しかつながっていないため。
新参のうちのVAIOだけ、村八分にされているので、情報のやり取りがめんどい。

USBメモリでデータのやり取りをしているのだが、一々抜き差しするのがめんどい。
かと言って、LANを完全にすると、今度はセキュリティー対策がめんどい。

と言う、もろもろの事情を考慮した結果、購入したのが、「UVK4HSV 切替の達人2 USB・VGA切替セット」というもの。(詳細は、こちら)
これにUSBメモリをぶっ挿して、情報を共有しようという安直な発想。


ディスプレイの切り替えまで望んでいなかったのですが、たんなる切り替え機でも五千円前後するので、数百円でディスプレイも切り替えられるのなら、まぁそれもよござんしょ、という感じで、購入。

なんで、ディスプレイの切り替えについては、まだ使っておりません。


そんでもって、感想。

USB切り替え機としては普通なんじゃないですかね?
XPと2000で使っていますが、ドライバーも必要ないらしく、すんなり動作しております。

値段的には三千円くらいだと、もっと買い易いのですが、まっ、それは仕方ないか。
USB2.0だし。


UVK4HSV 切替の達人2 USB・VGA切替セット

シグマA.P.Oシステム販売

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藤井智比佐「決算書読解力の基本が身につく100の極意」

2006-03-19 08:58:15 | 書評
テレビでデイトレーダーが登場して「いくらいくら儲かりました」と自慢しているが、「今は、のぼり調子だから、そりゃ儲かるだろう」と突っこむのは、そりゃひがみですよ。分かってますよ。


会計の勉強をしなくてはいけない。
資格はいらないけれども、実務で必要。

と言うわけで、以下の本を読んできました。

山田真哉「<女子大生会計士の事件簿>世界一やさしい会計の本です」
行列のできる会計事務所
山田真哉/高野洋「女子大生会計士の事件簿 公認会計士萌ちゃん (1)」会計士ですら漫画になるんだなぁ。題材にならないものは、あるのだろうか?
山田真哉「女子大生会計士の事件簿〈DX.1〉ベンチャーの王子様」会計の勉強もしないといけないんだけど、それで最初に手にした本がこれとは…………

もちろん、こんな本が役に立つはずもなく。
で、ちゃんとした入門書を読もうと、「図解入門ビジネス 決算書読解力の基本が身につく100の極意―ケーススタディでよくわかる財務諸表の常識と仕組み」を手にしました。

 本書は決算書に強くなりたいビジネスパーソンや投資家を対象としています。
藤井智比佐「図解入門ビジネス 決算書読解力の基本が身につく100の極意―ケーススタディでよくわかる財務諸表の常識と仕組み」3頁 秀和システム
と書かれてある通りの本です。

簡略的に網羅しているのは分かるのですが、「ポイント87 グループ経営に不可欠な連結財務諸表の仕組みを理解する」なんて項目は、私には死ぬまで必要がなさそうです。

本書のメインの対象は、素人個人投資家なんでしょうね。

上記の三冊の本で、「会計の勉強をしている」と言ったら、「あぁこの人も疲れているんだなぁ」と思われるでしょうが、こっちの本なら、大丈夫じゃないでしょうか?


図解入門ビジネス 決算書読解力の基本が身につく100の極意―ケーススタディでよくわかる財務諸表の常識と仕組み

秀和システム

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小島秀夫「METALGEAR2 -SOLID SNAKE-」

2006-03-18 08:29:21 | その他の評価
1990年製


このゲームが発売されたときは、僕は中学生だったなぁ。
友達がこのゲームを持っていて、彼がプレイしている画面を、なんとなーく眺めていたことを、ぼんやりと覚えています。

しかし、僕もMSX2+を持っていたのに、なんで借りてやらなかったんだろう?
アクションゲームが苦手だったから、面倒臭がったのだろうか?

しかし、中学のときなんて、腐るほど暇だったのに。
とりあえず、借りればよかったんじゃないか?


まぁそんな、とりとめもないことを思い出しました。


初代「メタルギア」に比べると、キャラクターの細かい動きの巧さ、国際情勢を背景としたストーリーの奥深さ、敵キャラの視界を広げて理不尽でなくゲーム性を高くするなど、格段の進歩が見られます。

これが三年の月日なんだなぁ。

ちなみに、この年、スーパーファミコンが発売されています。
またコナミは、このゲームを機にMSXから撤退したそうです。

まぁ無理すれば、時代のターニングポイントだった年なんでしょうね。(ありがちなコメントだな)

以降、ゲームと言えば「スーパーファミコン」がメインとなり、さらには対象年齢も十代を中心。
そりゃ、国際情勢を背景としたゲームなんか、出るはずもなく。

結局、「メタルギア」の復活は、「PSというポリゴン機が必要だった」というよりは、十代後半から二十代にかけての、「大人なユーザーが必要だった」てなところなんだろうなぁ。(ありがちなコメントだな)


メタルギアの感想たち。
小島秀夫「METALGEAR」1987年製

小島秀夫「METALGEAR SOLID 3 -SUBSISTENCE-」
そうさ、コナミの術中に見事にはまったのさ!
小島秀夫「METALGEAR SOLID 3 -SNAKE EATER-」隠密行動中


METAL GEAR SOLID 3 SUBSISTENCE(初回生産版)

コナミ

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山本周五郎「ながい坂 (上)」

2006-03-17 08:45:53 | 書評
人は誰も自分しか理解することのできない、ながい坂を上っているもんです


人に勧められるのが苦手。
おもしろくなかったときに、どう対処すればいいのか、考えちゃってねぇ…………。


なんですが、山本周五郎「ながい坂」を貸されてしまい、読む破目に。

ちなみに山本周五郎は、触れたことなし。

分厚いけど、貸されてしまった以上は読まんといけんし、さらにつまらなかったら、これを読み終えるのは、つらいのぉ…………。

と非常に後ろ向きな気分で読み始めたのですが…………、世の中にはまだまだ未読の面白い本はあるねぇ。

どういう面白さかと言いますと「モンテクリスト伯」的。

復讐劇というわけではなく、主人公が万難を排して、自らの意思で道を切り開いていく姿を描くという点が似ております。

特に小難しい思想や議論があるわけでもなく、小さなイベント盛りだくさんで、物語は進んでいきます。
一見なんでもない出来事が、徐々に一本の糸に収束していく様は、小気味良く、小説の王道。
やっぱ、基本がしっかりしていると、いいね。


で、ストーリーですが、平侍の主人公が徐々に、出世していくというもの。
が、その出世街道を邪魔しようとする旧態以前の藩内の権力者が登場し、さらには、その権力者も恐れる、藩の最高秘密が、物語の随所でチラつきます。

その「藩の最高秘密」が、ゆっくりと解きほぐされていくのも、物語の面白みの一つとなっています。

主人公は、ちょっと生真面目で融通が効かないところがあるけれども、素朴な正義感を持っている性格となっています。

そうなんで「出世物語」ですが、主人公の立身出世が鼻につくことはないのですが、…………逆に、その「素朴な正義感」に、「はて?」と思うことも。

主人公の最大の庇護者となる藩の大名(昌治)は、山上億良の「貧窮問答」を読んだ後に、主人公に、こう語りかけます。
 おれは同じことを自分の領内で見た。ひそかに見廻りを繰返したのはそのためで、平安無事と信じられている領内の、到るところに、貧困と病苦と悲惨な生活があるのを知った。二度めの国入りには主水に供をさせなかったから、たぶん実際のことは知
らないだろう。だが百姓でも町人でも、大多分はぎりぎりいっぱいのくらしをしているし、病気にかかっても医者はおろか、売薬さえ買えない者が少なくないのだ。
 ――俗に東照公は、百姓は死なぬ程度に生かしておけ、と云われたそうだ、と昌治はさらに云った。もちろん根拠のない俗説だろうが、家康公の言葉の真偽には関係なく、死なぬ程度に生きている者たちがいかに多いかということを、自分で見廻ってみ
て初めて知った、どうしてそんなことがあり得るのか、農民は郡奉行、町民は町奉行によって、それぞれ保護をされ看視されている筈だ、にもかかわらず、こういう生活かみすごしにされるのはなぜか。
山本周五郎「ながい坂 (上)」311~312頁 新潮文庫
もちろん、主人公も、この考えには賛同していると思っていただいて問題ないでしょう。

うーん、大名はもちろん、一般の武士も、こんな人道的な考えを持っていたのかなぁ~?

主人公側の人道主義が、あまりに現代的です。
そこが、ちょっと気になりますが、まぁ「それはそれ」ということで目をつぶった方が、物語を楽しむ秘訣でしょうね。


ながい坂 (上巻)

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富野由悠季「ZガンダムIII -星の鼓動は愛-」

2006-03-15 08:45:54 | 映画評
サラの声が、また変わったな。なんで?


「ZガンダムIII -星の鼓動は愛-」を、ちゃんと地元で見ました。(公式サイトは、こちら)

前二作と比較したら、一番、面白かったです。


とにかく戦闘、戦闘、戦闘で。
旧作の使い回しもありつつも、新作も多数。

「今の技術なら、モビルスーツ戦を、ここまで表現できるじゃー」
という感じで、お腹いっぱい高いクオリティーでカミーユたちの活躍が拝めます。


「拝めます」というと、ハマーン=榊原良子も、充分に「拝めます」。

高飛車に昔の男(シャア)に戻ってこいと命令する様は、「萌えぇ~」というわけではないですが、ほれぼれするものがあります。


最後は噂通り、ハッピーエンド。

うーん、テレビ版のラストは嫌いじゃないんで、ちょっと違和感が残るなぁ。
好き好きだろうけどね。


後、ファーストキャラや声がちょくちょく登場して、それにニヤリとできるようになっています。

が、せっかく「A New Translation」なんて言ってるんだから、アムロを宇宙に上げてシャアと一緒に戦わせるくらいのサービスがあっても、ええんじゃないかな? と思わないでも。


他の前二作の感想。
富野由悠季「Zガンダム -星を継ぐ者-」「PATLABOR 3」よりは、人がいた
富野由悠季「ZガンダムⅡ -恋人たち-」放浪編 その二

芹沢一也「ホラーハウス社会」

2006-03-14 08:51:08 | 書評
サクっと読める本でした


社会全体が「保守化」「右傾化」しているというのは、よく言われること。

その傾向を象徴するのが、犯罪への厳罰化。

特に槍玉に挙げられるのが、少年と精神障害者の犯罪(次点で交通事故か?)。


本書の芹沢一也「ホラーハウス社会」では、この潮流の変化を、過去と現在の状況を活用して語っています。

少年犯罪については、犯罪に対する社会のスタンスを、著者はこのように定義しています。
 そもそもメディアを騒がすような事件は、実はきわめて特殊な出来事である。決してその時代に多発しているものではない。だが、そうした犯罪が広く関心を呼ぶならば、そのとき社会はそこに自らの姿を映し出そうとしているのだ。それは、このような犯罪を生み出した社会とは、一体どのような社会なのかという自問である。
 こうした意味において、時代に選ばれた犯罪は鏡のごときものとなる。とはいえ、この鏡はあくまで、社会が自分の好みに合わせてつくりだされる。必要なのは、自分がそう映ってほしいと願う姿を、はっきりと映し出してくれる鏡なのだ。
芹沢一也「ホラーハウス社会 ―法を犯した「少年」と「異常者」たち」76頁 講談社プラスアルファ新書
「決してその時代に多発しているものではない」のは、テレビ以外のメディアでは、けっこう指摘されていることなんですけどね。
著者は、他にもこんな定義をしております。
 世に騒がれる犯罪と社会との間には、こうしたひとつの共犯関係がある。
 犯罪の真実があって、それを社会が受け入れるわけではない。社会が事件を素材にして、自画像のような犯罪作品をつくりあげ、そこに自らの姿を「再確認」する。共犯関係とはこうした意味だ。
 そして、犯罪に映し出された姿をみて、ときに社会は己を反省する。自らを変えようとすることもある。あたかも、鏡に向かって化粧をするかのようにだ。
芹沢一也「ホラーハウス社会 ―法を犯した「少年」と「異常者」たち」77頁 講談社プラスアルファ新書

この前提をもとに、「永山則夫事件」と「酒鬼薔薇事件」を比較します。

「永山則夫事件」
 たとえば、永山則夫の事件。
 それは客観的にみれば、利己的で何ら同情の余地のない犯罪だったが、当時の論者たちはこの凶悪犯罪を語るなかで、社会の矛盾や悲惨な貧困を敵に仕立てあげ、その上うな矛盾の噴出や貧困の犠牲として永山事件をつくりあげた。
芹沢一也「ホラーハウス社会 ―法を犯した「少年」と「異常者」たち」75頁 講談社プラスアルファ新書
永山則夫については、こちらを、どうぞ。
「確かに、環境によって人は変われるんだ! その環境を提示できない社会こそが、本当の問題だ!」という「作品化」には、うってつけの事件ですな。

「酒鬼薔薇事件」
 費やされた膨大な言葉にもかかわらず、確たる手応えは得られないでいたなかで、少年たちの犯罪は不可解なものだとする感覚が広まっていく。そこにはそもそも、人が理解できるような動機などないのではないか、とする疑問がもちあがる。
 そして、「動機なき犯罪」という言葉がつぶやかれはじめた。動機なき犯罪、それは作品化の不可能な犯罪であり、文字通り理解不能な犯罪のことだ。
 そのような犯罪者として、少年たちは精神医学の手に委ねられていった。もはや理解できないのならば、それは「異常」でしかないだろうというわけだ。そして、「性的サディズム」や「アスペルガー症候群」「行為障害」などといった異常性のレッテルを貼られ、社会から精神医学の世界に追いやられたのだ。
 現在、少年事件について声を大にして語るのは精神科医だちとなっていることも、そんな理解への諦めを表している。そこで語られるのは、もはや悲惨な境遇といったものではなく、少年がいかに異常かということだ。
 こうして、あくなき理解への欲望が、皮肉なことに、異常だとして少年の拒絶へと行き着いた。酒鬼薔薇事件以降、一連の異様な少年犯罪によって、社会は作品化への欲望を掻き立てられながらも、結局は少年をまったく不可解なものとして、不気味な存在に仕立て上げていったのである。
芹沢一也「ホラーハウス社会 ―法を犯した「少年」と「異常者」たち」83頁 講談社プラスアルファ新書
酒鬼薔薇事件については、こちらを、どうぞ。

著者は、この社会の転換に、メディアが事件の主役を加害者から被害者に移したことを契機の一つにしています(この転換の原因は、少年法の不備があるわけですが、その引用はメンドイので割愛)。
 この記事は、妻を失った男性の諦めと怒りで締められている。
「どうしてこうなったか知っても女房の命は戻ってこない。聞いても気が治まるどころか、よけい治まらないかもしれない。それでも残された家族は、カヤの外に置かれることが一番腹立だしいんです」

 かつてとは打って変わって、これらの文章における主人公は、理不尽な経験を背負わされた被害者である。少年法の壁によって何も知ることができない、蚊帳の外におかれた被害者のやり場のない怒りと諦めが、否応なしに涜むものの共感を誘う。
 そのような被害者の思いを背景にして、少年による無思慮な犯罪の凶悪性がくっきりと浮かび上がる。少年の内面に感情移入することは決してできない。秘密のベールに閉ざされた少年については、読者もまた何も知ることはできないのだ。それゆえ、ただ残酷で不条理な犯行のみが印象づけられる結果となる。
 ここで読者は、事件の真相に近づけない被害者の困惑を共有するしか道はない。あるいは、そうした不条理に対する怒りと諦めをともにするほかはない。このような語られ方にあって、読者の感情が移入されるのは、かつての加害者とは違って被害者のほうなのである。
 こうした語りとともに、入びとから少年への共感が消えていったのだ。そして、少年は無力で受動的な存在ではなくなり、恐るべき加害者の顔をもって立ち現れるようになった。
 かつて、この時期ほど、少年犯罪に人びとの注目が集まったことはなかった。
 そうしたなか、論者たちの作品化、被害者たちの異議申し立て、そしてメディアでの語り方、すべての流れが少年犯罪への想像力を枯渇させながら、少年を共感すべき主人公の座から引き摺り下ろしていったのだ。
芹沢一也「ホラーハウス社会 ―法を犯した「少年」と「異常者」たち」90~91頁 講談社プラスアルファ新書

「まぁなるほどなぁ」といった感想を持ちました。


僕個人としての意見としては、特に独創的な意見でもないのですが、やっぱり「死」が社会から遠のいてしまっているのかなぁ…………と思います。

半世紀前までの社会でありますと、日本という社会には、戦争は数十年にいっぺん起こるものだし、不治の病などそこらへんに散見されていたし、権力者の理不尽な横暴は当たり前だし、絶対的な貧困というものは珍しいものではなく、……………つまり、「悲劇」が現実に不即不離で存在していたんですよね。

が、終戦から50年以上経ってしまった現在。
厳密には、「戦争」も「不治の病」も「権力者の横暴」も「貧困」も解決はされていない。
でも、それが現実に不即不離で存在という大げさなものでなくなっているのも事実。
ほとんどのものが、現実の「悲劇」ではなく、物語の「悲劇」と化してしまっている。

そういう社会において、「死」というものが、過大視されてしまう傾向にあるのかなぁ~と漠然と感じます。

結果、神聖化された「死」が大手を振るい、絶対的な論拠として鎮座しているような気がします。


全体としては、「自分の都合の良い事例ばっかり意図的に集めてない?」と言いたくなる箇所もないわけではないですが(そもそも「論」や「主張」など、「自分の都合の良い事例」を集めなくては成り立たないものだろうけどね)、まずまず納得できるものとなっていました。

社会の保守傾向と少年犯罪に興味のある方であれば、読んで損はないと思います。


ホラーハウス社会―法を犯した「少年」と「異常者」たち

講談社

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