すんけい ぶろぐ

雑感や書評など

開高健「日本三文オペラ」

2005-02-28 05:34:11 | 書評
先進国の人間が、後進国に行って感動しているのは、どうも苦手


以前
、梁石日「夜を賭けて」を読了したので、そのつながりで開高健「日本三文オペラ」を手にしてみました。

物語は「夜を賭けて」の第一部と同じで、大阪の兵器廠跡で鉄屑を盗もうとする朝鮮人と、警察との戦いが描かれています。
これは現実にあった事件です。当時、反権力の姿勢を鮮明にした彼らのことは、アメリカ原住民のインディアンになぞらえて、「アパッチ族」と言われてたようです。

この警察と朝鮮人の抗争は、作家の創作意欲を刺激するものだったらしく、開高健や梁石日の他にも、小松左京の「日本アパッチ族」があります。こちらも、機会があったら読んでみたいです。

「夜を賭けて」と同じストーリーと書きましたが、大きな違いがあります。それは「夜を賭けて」の主人公が在日朝鮮人であるのに対して、「日本三文オペラ」は日本人であるということです。


もしもそのとき誰かがそこにいたら、たちまちこの男を三つの現行犯と一つの予防措置考慮で告発することができるのである。しかしもしその誰かが哲学者であって、およそ地球上に存在するものはいっさいが有用であり効率をもつものであるという理論を証明しようと考え、その理論の成立をさまたげるいっさいのものを排除しようという情熱をもっていたら、この男の行為と、その薄暗い眼に起き上がってきたある表情を見て、いささか手荒いが生産的な実践者の誕生を知って、ちょっぴりたのもしい気持になったことだろう。(開高健「日本三文オペラ」41頁 新潮文庫)

冒頭の「そのとき」というのは、「屑鉄を盗んでいるとき」です。


両作品とも、屑鉄を拾い、奪い、盗むことを描くことで、社会的な弱者やあぶれ者たちの善悪を超えた、勇ましい生き様を活写しております。「夜を賭けて」では、それが在日朝鮮人と中心にしているのですが、「日本三文オペラ」では、特に限定はされいません。日本人もいれば、朝鮮人もいます。

そのせいなのか、なんとなく開高健の視点が、ぼけているような気がします。て言うか、無責任、覗き見趣味に堕している、…………か?

つまりは、引用文の「哲学者」というのが、まさしく開高健なんですよ。

文庫の解説を読みますと、作者の開高健自身が、アパッチ族と起居を共にしたこともあったらしいです。
一緒に暮らすことで、
「この浅ましいまでの率直な生き方こそ、人間の生の開花だ!」
と感動している作者の姿が見えるんですが、当事者からすると、余計なお世話じゃないのかな~?
それが、どうしても小説の行間から臭ってくるような気します。


ちょっときつい評価になってますが、同じ開高健の作品で、「輝ける闇」は文句がなく楽しめたので、辛い採点になってしまいました。

「輝ける闇」は、作者がベトナム戦争に従軍した体験を小説形式で述べているんですが、こっちは傍観者の適当さや悲哀、諦念が、しっかりと書かれています。

それと比べちゃうと、「日本三文オペラ」は、読んでいると「なんか高い視点だね」という反感が出ないでもないです。
日本人が書いたのだから、日本人の視点になってしまい、日本人の小説になってしまうのは、しょーがないことなんでしょうけど。


まぁ、以上のことは、どちらかといいますと、あらさがしに類するものです。
個人的には、「夜を賭けて」と併せて読んでみることをお勧めします。


日本三文オペラ

新潮社

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中沢新一「カイエ・ソバージュⅠ 人類最古の哲学」

2005-02-27 17:05:02 | 書評
副題が思いつかんな…………


得てして口述筆記の形態は、非常に読み易くなるものです。この「人類最古の哲学」も、講義をまとめたもので、平易でテンポよく読ませてくれます。

本書では、世界中に広く存在する様々な神話から共通の要素を抜き出して、そこから人間の有り様や思考方法を説明してくれます。
「不死の存在であった人間が、自らの失態で有限の存在に転落してしまった」というパターンの神話が世界中にあるそうです。アダムとイブも、このパターンですな。

著者が言うには、中石器時代に核となる物語(神話)が存在していて、それが人間の生活圏の拡大と一緒に世界各地に広まりつつ、土着化していったらしいです。
その過程で土地の色を出しながらも、「不死から転落」というモチーフは残ったのだとすると、その拘泥は「いつかはまた不死になることができるかもしれない」という希望なんでしょうか? それとも、「もう二度と不死に戻ることはできない」という絶望なんでしょうか?
……………てなエラソウなことを考えさせてくれると同時に、「男性の豆」(もちろん二つある、アレですよ、アレ)と「女性の豆」(もちろん一つだけの、アレですよ、アレ)についての卑猥な話題などもありまして、なかなか楽しませてくれます。

でも、単なる神話の解説だけに留まらず、そこから現代社会についても語れています。

神話の素材は五感がとらえる現実ですし、創造の材料となっていたのは、現実の社会構造や環境や自然の生態のことです。神話はそうした具体的な現実から完全に離れてしまわないところで、いわば「つかず離れず」の関係でつくられ、また語られていたものです。
 ところが宗教は、現実の対応物をみいだせないところでも、抽象的な思考力や幻想の能力によって、観念の王国をつくりあげることができます。これはたぶん「国家」などという、具体的な人間関係の中にはどこにもみいだせないものを、具体的な社会の上位につくりだそうとした、観念の運動と連動して生まれたものでしょうが、こういう宗教の中に神話が取り込まれるようになると、神話そのものの性質が変化を起こしてしまいます。神話がバーチャルな思考の領域に移されたようになります。そうすると、神話は現実との弁証法的関係を失ってしまうようになります。 (中沢新一「カイエ・ソバージュⅠ 人類最古の哲学」200頁 講談社選書メチエ)

まぁ、こういう「国家」や「宗教」という概念をマイナスのもとして扱うのは、日本人的だなぁ~と思います(僕自身も、そういう傾向はありますけど)。著者としては、マイナスとして扱っているつもりはないのかもしれませんが、他の概念ではこういう言い回しはしないような気がします。

で、この引用した文章の前には、現在の日本では、アニメや漫画、ゲーム(要するには、オタクメディア)で安易に神話を使うが、それは現実から乖離しているもので、本来の神話的機能が抜け落ちている、というバーチャル世界に対するお約束の警鐘が鳴らされています。

言わんと欲することは分からんでもないです。が、小さいころからバーチャルな世界に常々触って育つと、毒されることよりも(それもあるでしょうが)、嗅ぎ分ける能力が発達するんじゃないのかぁ?

さて、どうでしょう?


ともかく、神話の魅力については、よく理解させてくれる本です。
神話に興味のない方も、楽しめるのでは?


人類最古の哲学―カイエ・ソバージュ〈1〉

講談社

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ヴィンチェンゾ・ナタリ「CUBE」

2005-02-26 15:51:14 | 映画評
こんな一点物で、続編をつくっちゃったんだなぁ


「CUBE」を見ました。

見事な「一点突破、全面展開」です。

唐突に部屋(CUBE)の集合体に閉じこめられた男女が、知恵を出し合って脱出しようとする物語。

「近未来の話で、軍や政府が"人間の限界を調べる"とか言って、巨大なCUBEの集合体をつくって、一般人を拉致して閉じ込めた」てな設定を想像していたら、あにはからんや現代の話。しかも、CUBEの集合体をつくった理由は公共事業。理由は特になし。人間を閉じこめたのは、つくった以上は動かさないと駄目だから。


潔いです。
CUBEから脱出するために、登場人物たちが苦悩したり、疑心暗鬼に陥ったり、反目し合うところに物語の面白みがあるのであって、そのための設定なんか、まぁ、どうでもいいってことですな。


一応、登場人物の一人であるワースが、なんとなく意味を持っているようには思われます。
彼は厭世主義者で、仲間の手伝いはするけども、脱出に対しては積極的ではありません(特に最初の方)。
さらには、出口を前にして、「外の世界には、なにもおもしろいものはない」などと言って、出ようともしません。

実は、彼はCUBEの製作者の一人です。
つまりは、この人間を酷薄に扱うCUBE自体が、彼の内面世界の象徴とも言える…………かなぁ?

彼自身は外観を担当しただけであり、さらに、全体がなにを意味するかはほとんど知らなかった、となっています。どうも、そこまで深読みするのは、我ながらやり過ぎなの感を否めません。


しかし、数学の話が、脱出の肝なんですが、さっぱり分からんです。
でも、まぁ、緊迫したシチュエーションは、まずまず楽しめるのでは?


CUBE キューブ

ポニーキャニオン

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宮崎駿「ハウルの動く城」

2005-02-25 17:14:18 | 映画評
やっぱり愛だ、ということですね


「ハウルの動く城」を見てまいりました。

前回の失敗に懲りて、今回は子供が集まらないような映画館を選びました。


「木村拓哉の声優は失敗だ!」という評判以外は、なんの前情報もなく見てきました。(個人的には、悪くなかったですよ)
恋愛ものだったんですね。意外でした。


映画は、呪いで老婆になってしまったソフィーと、魔法使いのハウルを軸をにして話は進んでいきます。
物語の背景に戦争があり、ハウルが戦争を憎んでいる点は、「紅の豚」を思い起こさせます。


でも、ポルコ・ロッソは力強かった一方で、権力から逃避する以外には、のん気に暮らしているという感じでしたが、ハウルは軟弱ですが、最後には雄々しく立ち向かっていきます。
この立ち向かっていく対象は、ハウルのお師匠さんに当たるサリマンという魔法使いになるんですが、完璧な敵(悪役)としては描かれていないところに、この時代に物語をつくることの難しさを見たような気がします。
「天空の城ラピュタ」のムスカがなつかしい………。


権力の象徴としてのサリマンなんですが、ハウルの力はもともと彼女から得ているわけで、単純に反サリマンにはならないんですね。物語当初のハウルの髪の色が、サリマンの小姓たちと同じなのは、彼女の影響下にあるからなのでしょう。
ハウルは自由の為に逃亡しているけれども、その有力な手段である「動く城」は、根本的にはサリマンに根ざしている。しかも、ネタバレになりますが、映画の最後で「城」を動かしているカルシファーは、実はサリマンによって剥離したハウルの心であることが明かされます。(流れ星のシーンを、僕はサリマンによって仕組まれたようにとらえたんですが、それは強引な解釈か?)

つまり、力自体はサリマンに依拠しおり、本当に自由になろうとすれば、力を失わなくてはならない。

「でも、いいじゃんか。自由になれるなら」とも考えられるのですが、おそらくはハウルの幼少期は孤独であったと推察されます。(花畑に残された小屋は、両親のものではなく、おじからもらったものという設定が、ハウルの幼少期の状況を暗示しています)
そこで手に入れてしまった力を、彼自身の決断で失うことはできない。それは、サリマンと一人では対峙できないことからも分かります。

そんなわけで、心のないまま力を使い続ければ、魔王となってしまう可能性すらあるのに、彼は自由の為に戦い続けるわけです。


で、登場するのが、ソフィーです。彼女自身は、望んでいない帽子店の経営を、ただ父の遺産であるからという理由で守っています。つまり、自由がない。
そんなわけで、自由に生きている(戦っている)ハウルに憧れるわけですな。だから、ハウル(自由)を本当に求めているときは、呪いがかかっていても彼女は若返った姿になるんでしょう。

ソフィーと暮らすことで、ハウルには「家族」ができます。
ソフィーが来る前から、ハウルにはマルクルという弟子がいました。が、「城」の内部の乱雑さやマルクルの食事のしつけがなっていない姿を見れば、正常に「家族」の機能を果たしてなかったことが分かります。
ソフィーという中心が生まれたことで、ようやく「家族」なのです。
それは、登場人物たちのコメントからも分かります。
ハウル「我が家族はややこしい者ばかりだな」
とか、
マルクル「僕ら、家族?」
ソフィー「そう家族よ」
こうしてハウルにあったであろう孤独が、ソフィーによって癒されることになります。だからソフィーのせいで、ハウルの髪は変色するんでしょう。

が、かつては内実がなかった自由に意味をこめられたことで、自由への戦いは、より凄惨なものとなっていきます。

このままでは、心を失ってしまうと危機感を抱いたソフィーは、ついにハウルの力である「城」を封印します。そして、カルシファー(心)をハウルに戻すことで、めでたしめでたし、です。


でも、カルシファーは、なんで死ななかったの? という疑問は、どうしても残ります。

素直(安直)な考え方をすれば、「生まれ変わった」ということでしょう。
最初のカルシファーがハウルの心の剥離だったとすれば、最後のカルシファーは、ハウルとソフィーから剥離したもの、ということでしょうか? つまりは、子供といったところ。


と、思いつくままに書いてみましたが、どんなもんでしょうか?


紅の豚

ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント

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天空の城ラピュタ

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ジェームズ・マンゴールド「17歳のカルテ」

2005-02-24 17:09:43 | 映画評
現実はしょっぺぇーなぁ


知り合いが精神病院に入院したので、見舞いに行ったことがあります。

なかなか得がたい体験をさせてもらいました。


知人の病室は、閉鎖病棟にありました。

最初に、病院の受付で「自分の名前・住所」、「相手の名前・関係・病棟」、「見舞いの時間」を用紙に記入して提出します。
すると、係りの人が「こういう人が、今から行きます」と病棟に連絡してくれます。こうして許可をもらっておいてから、ようやく病室に向かえます。

その病院ではナースセンター経由でなければ、患者の病棟には入れないようになってました。ナースセンターでは本当なら荷物検査を受けなくていけなかったようですが、そこらへんは、なあなあでした。

ナースセンターからは、患者たちがテレビに集まっている姿が見れます。
その中の一人の老女が立ち上がって、僕をじっと見ています。
ちょっと緊張です。

看護師に患者の名前を述べると、もう連絡が入ってますから、病棟への扉を直ぐに開けてもらえます。
病棟に入ると、背後の扉は直ぐに施錠されます。

さすが、入院する際には家裁に書類を必要とする場所です。自由なんかないんだなぁ~と、感慨深いものがあります。

で、廊下に出た僕を、老女が、やはり見ています。おかしな格好をしているとか、奇態な身振り手振りをするわけではなく、どこにでもいそうな入院患者といった風体です。が、表情がありません。能面のような無表情といった感じです。

わざわざアクシデントを自分から招こうなどとは思ってませんから、知人の病室に急ごうとした瞬間です。
老女が叫びます。

「たかしぃー」

「!」です。周りを見回します。僕しかいません。僕は、「たかし」ではありません。

「いや、違います、違います」
と手を振って否定しながら、病室に逃げ込みました。


………「たかし」に見えたんだろうなぁ。


そんな気分を思い出せてくれた「17歳のカルテ」です。

素行不良の少女が精神病院に入院し、そこで自分を探していく、という話。

主人公は境界性人格障害ということになっています。
ただ、うまくつくられているのは、単なる精神病患者の問題におさまらないところです。

物語は60年代末で、その時代を反映したニュース映像が何度も差し込まれます。当初は、単純に時代背景の説明や観客のノスタルジーを喚起するための小道具なのかと思っていました。が、観ているうちに、その映像が入院患者たちにとって「外部」であることに気がつかされます。

世界情勢が激変する「外部」に対して、独特のルールを維持している病院「内部」。
その「内部」の支配者であり、主人公のパートナーであるリサは、裏表が存在せず善悪を超越しています。

時に、リサの行動は英雄的なのですが、最後には「外部」では生きることの許されない脆弱さを主人公によって露にされます。

「内部」には裏表がない。「外部」には建前と本音がある。

一見すると、「内部」は美しいように思われますが、現実には一人の人間も救うことができない。
最初は現実の世界である「外部」の汚さに嫌気が差して病院「内部」に閉じこもることになった主人公ですが、最後には「外部」で生きていくことを決心します。

その流れというのは、精神病患者の立ち直りというだけではなく、そのまんま青春の苦悩・挫折から復活・和解という王道の過程ともかぶっているわけです。


そんなわけなんで、精神病に興味がなくても、十分に共感できる内容となっていると思います。
なかなか残酷な映画ですが、お勧めです。


17歳のカルテ コレクターズ・エディション

ソニー・ピクチャーズエンタテインメント

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モーム「月と六ペンス」

2005-02-23 17:56:01 | 書評
自分と環境


相変わらず無職です。
四月からは、働こうと思っています。


「だがね、君、全然ほかの人間を無視して生きるなんて、そんなことができるもんかね?」彼に言うというよりは、むしろ僕自身に言って聞かせた質問だった。「生きている以上、やっぱり一から十まで他人の世話になってると思うな。自分一人で、しかもただ自分のためだけに生きようなんて、君、途方もない話だよ。たとえばだよ、遅かれ早かれ、君だって病気にもなれば、老衰することだってある、そうすればやはり元の群れへ這い戻ってくるわけさ。君の心にだって、慰めや共感を求めるときはあるだろう、そんなときに、君、恥ずかしいとは思わないかい? 君のやろうということは、不可能事だよ。遅かれ早かれ、君の中の人間が、やはり人と人との共通な絆を求める日があると思うんだ」(モーム「月と六ペンス」242頁 新潮文庫)

唐突に絵画に目覚めたストリックランドが、家族も仕事も地位も、全てを捨てて、芸術活動に没頭するというお話。

引用した箇所は、物語の狂言回しとなる人物が、ストリックランドの傍若無人振りに苦言を呈した際の言葉。
しかし、その予言とは裏腹に、ストリックランドには「人と人との共通な絆を求める日」は来ないで、自分のつくりだした美に完結してまま死んでいくんですけどね。


悪魔と契約したかのような、または神に全てを任せたかのような、ストリックランドの過酷で迷惑な人生には、三人の女性がかかわります。

[ロンドン]ミセス・ストリックランド
目覚める前までのストリックランドと一緒に平凡に暮らしていた女性。
旦那の出奔を一時は許そうとしたが、その理由が女ではないことを知り、彼との完全な決別を決意する。
つまり旦那が得ようとしているものが、もはや社会的に報われるものではないことを本能的に理解する。

[パリ]ブランシュ
通俗的ではあるが人の良い画家を旦那としていた。当初は、ストリックランドを毛嫌いしていたが、その野生的な魅力に心を奪われてしまう。
ミセス・ストリックランドとは逆で、ストリックランドの破滅に魅了され、それを支配しようとあがく。最後は自殺。

[タヒチ]アタ
現地住民。ストリックランドのあるがままを受け入れようとする。ストリックランドの発病後も、献身的に尽くす。


こうやって並べると、男にかなり都合の良い女性が、最後に来てくれましたね。

要は近代的社会の枠に収まりきらない男が、[ロンドン]から旅立ち、[パリ]で試練を得て、[タヒチ]において安住の地を発見する、というところでしょうか?

カッテナハナシダネ。


ストリックランドは[タヒチ]で自らの才能を開花させ、後に絶賛される多くの絵画を残します。
しかし、その評価は[タヒチ]ではなく、[ロンドン]や[パリ]で行われます。
[ロンドン]や[パリ]に安住することができなかったのに、[タヒチ]での成果がフィードバックされるのは、単に皮肉というか、近代社会の強欲さをあらわしているというか。

これはこれで、カッテナハナシダネ。


イギリス流の「ウイットとユーモア」にあふれた文章や警句は鼻につくこともあるかもしれませんが、それさえ気にならなければ、楽しめるのでは?

中谷陽二「精神鑑定の事件史」

2005-02-22 18:50:08 | 書評
自分と他人の違いって、なんでしょう?

むごい事件が起きると、テレビ文化人から意見百出で、そうやって騒いでいるうちに新しい事件が起きて、うやむやになるのが落ちです。
所詮、大事件といっても「他人」のもの。熱心に入れこむ方が、おかしいのでしょうけど。

この映画からヒンクリーが受け取ったメッセージは「どれほど恐ろしい暴力でも報われる」ということであり、彼は自分が映画のスプリクトを演じているかのうように感じたのである (中谷陽二「精神鑑定の事件史」 48頁 中公新書)
今回引用した箇所は、別に印象深かった言葉というわけでもないんですがね。
ちなみちヒンクリーというのは、アメリカのレーガン大統領暗殺犯のことで、映画というのは「タクシードライバー」です。

映画や小説、漫画といった物語に影響を受けて、主人公と同じような服装をしたり、言葉を吐いたり、行動をしてみたりといったことは、まぁ誰でもすることじゃないでしょうか?
ただ、いくら影響を受けるにしても、自然と適法におさまるものです。
いくら「モンテクリスト伯」に感銘を受けても、殺人まで犯して、自らの屈辱を晴らそうとは思わないでしょう。(そもそも普通の人生で、相手を殺さなくてはいけないほどの屈辱を味わうようなことがないか………)

その健常者(と言われている人間)ならば自然と身に着けている「枠」というものがなくなっているから、精神病なんだろうけど。

しかし、その「枠」って、どのあたりで外れちゃうんでしょうね?
それが分かれば、世間から犯罪はなくなるんでしょうが。


ともかく、有名な「ビリー・ミリガン」や、「八墓村」のモデルになった「津山事件」、ロシアの皇太子を襲撃した「津田事件」、哲学者の「アルチュセールの殺人事件」など、下世話なレベルで十分に興味深い事件が解説されています。

日本で今後も起こるであろう猟奇的な事件への予習として、最適な本ではないでしょうか。


精神鑑定の事件史―犯罪は何を語るか

中央公論社

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堀井雄二「ドラゴンクエストVIII」

2005-02-21 06:54:19 | その他の評価
想像力が権力を奪う


僕らの前後の世代は、鳥山明のドラゴンボールが全盛の時代です。
その影響力が、無意識にまで達してしまった事例を二つ。



[CASE 1] –かめはめ波–

僕より数歳上の方に聞いた事例。
体験者の高校時代は非常にやんちゃな時代でして、高校も自体もそれ相応の学校だったそうです。

これだけでは、どんな高校か想像し難いと思いますので、補足させてもらいますと「白ラン」を着ている方がいらっしゃったそうです。「白ラン」というのは、「魁!!クロマティ高校」で北斗が着ているヤツです。
北斗のキャラクターからも分かると思いますが、不良のトップが着るもの(らしい)です。
ただし、北斗の上昇志向が時代錯誤であり、周囲から浮いているのが白ランによって強調されているのと同じで、その体験者の時代でも、既に勘違いした不良が着るものだったらしいですが。

その体験者が、いつものように定刻(自分時間)に登校していると、先輩が校舎の外壁にもたれかかっていたそうです。先輩は、すっかり出来上がっております。どのように出来上がっているのかと言いますと、ゲロではなく、涎を垂らしているような状態です。もちろん、目の焦点は合っていません。おそらくは塗装に使うものを、塗装以外の用途で使ったと思われます。

で、体験者と先輩は、もともと反目し合っておりました。体験者の方は、基本的に平和主義者なので、先輩の真ん前を通り過ぎようとしましたが、呼び止められてしまいました。
「おい」
「なんすか?」
「おまえ、生意気なんだよ」
「そうすか?」
という感じで売り言葉に買い言葉が続きます。そうこうしていくうちに、ボルテージが上がってしまう先輩。ついに立ち上がります。
「頭きた! ちょっと、そこに立っていろよ」
「はぁ?」
「かー、めー、はー、めー」
腰を低くして、両手を上下に合わせ、例のポーズです。もちろん、体験者は「?」です。
「波!」
そして、大笑いする先輩。「は、は、は、燃えてる。燃えている!」とご満悦の様子。そして、去り際には、
「生意気やってるから、こういう目にあうんだからな」
と捨て台詞だったそうです。




[CASE 2] –元気玉–

こちらは、僕よりも数歳下から事例。

この体験者も、やんちゃな高校時代を過ごしておりました。

仲間数人と、パーティーを開いた際のことです。
もちろん、まだ高校生ですからお酒なんて御法度です。遵法主義者の彼らは、違うものを飲むことで盛り上がっておりました。
しかし若者ばかりですから、テンションの上昇とともに、議論が熱くなってしまいます。そして、一人の若者が切れました。
「くそっ」
と立ち上がったと思うと、両手を天にかかげました。
「地球のみんな、おらに元気を分けてくれ」
とまで言ったのかどうかは、定かではないのですが、周囲の仲間たちは、
「おい、おい、止めてくれよ」
「おれたちが、悪かったよ」
「やばい、やばいって」
と涙声で訴え、さらには大きくなっていく元気玉を避けるべく、床に伏せたそうです。
「誰が止めるか、お前らが悪いんだからな」

体験者自身は下戸だったのか、まだ飲みなれていないのか、それとも彼の目が節穴だったのか、元気玉は見えなかった、とのこと。
両手をかかげて息巻く主人公と、その必殺技に怯える脇役たちの中で、その体験者は、自分の役柄を見きわめきれず、かなりの居心地が悪かったらしいです。




二人の体験者は、全く面識がないのですが、同じような結論に至ってました。
「あれは、やばい」


そんな、鳥山明がキャラクターデザインを手がけている「ドラゴンクエストVIII」

スクウェアが関わっておりますので、無駄に映画的にされてしまうのではないかという危惧を多くの人間が持っていたようですが、結果的には「3Dでもドラクエだった」という好意的な意見でまとまったようです。

確かに、鳥山明がつくりあげた外観に、堀井雄二が魂をこめたキャラクターの動きは、秀逸でした。「ぱふぱふ」やら「ハッスルダンス」を見ても、ラサール石井があてた「こち亀」の両さんの声を初めて聞いたときのような違和感もなく、「これだったのか」と素直に納得できました。


しかし、そう考えると、あの「かに歩き」で冒険心を満たしていた頃は、なんと遠のいたことか。

今回は特に、紅一点の仲間であるゼシカのポリゴンっぷりが、見事でした。どのように見事だったのかと言いますと、Googleでゼシカと検索してみると分かります。エロばかりです。

昔のドラクエもエッチかったのですが、きわどいコスチュームに着替えたところで、フィールド上に表示されるキャラクターのドット絵が変化する程度。だからどうした? です。

唯一、MSX版のドラクエ2でグラフィックが表示されましたが。

グラフィックよりも、むしろシチュエーションに燃えられたのでしょうね。想像力って偉大だなぁ~。


まぁ、そんな感じです。薬を使わなくても、どっぷりドラクエにひたれる作品になっております。


ドラゴンクエストVIII 空と海と大地と呪われし姫君

スクウェア・エニックス

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野村総一郎「うつ病をなおす」

2005-02-20 19:12:25 | 書評
インパクトのある単語を繰り返すだけで、実際には詳細な説明を行わないというので、小泉首相が盛んに批判されていたことがありました(今も、時折、同じように批判されていますが)。
そんな首相の態度は、「ワンフレーズ・ポリティックス」と呼ばれておりました。

テレビに出ている多くの人間が、この「ワンフレーズ・ポリティックス」という単語を盛んに口にするものですから、うんざりした記憶があります。

最初に考えて人は、えらいですけどね。
何度も聞かされていると、その批判自体がワンフレーズだよなぁ、と………。


ちなみに最近うつ病が日本で増加していることは、日本社会全体が旧来のルールを見失いつつあることと関係しているかもしれない。つまり、重みづけができず自己決定能力の低さゆえに社会のルールに頼る傾向の強いうつ病者が、判断基準を失って、うつ病者の増加を生んでいる可能性がある。(野村総一郎「うつ病をなおす」198頁 講談社現代新書)

肌では、僕も権威の失墜や常識の流動化を感じるんですが、そういった意見は、どうも安易に使われ過ぎているような気も。(後は、「時代の閉塞感」とか「管理社会の行き過ぎ」なんかも、よく使われますな)
そもそも資本主義社会は、打ち立てられたシステムを絶えず倒して進んでいくことで成立する体制だからなぁ。

まっ、本の内容とは全然関係ない感想ですけど。


本書では、非常に分かり易く、うつ病の解説がされています。
うつ病に興味のある方は、ぜひ。(うつ病に興味のない方は、まったく用無しだと思います)


うつ病をなおす

講談社

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人生はクソったれだ

2005-02-19 20:39:44 | 雑感
ある程度まともに育った奴なら、うすうす 気づくはずだ。
オレ達のほとんど八割にロクな将来はねえと。

愛する友達。
甲子園めざした野球部のマサヤ。彼女を守って隣の高校のヤツをブン殴ったヒロシ。
麻雀ばっかやってたアマツにサイトウ。青春の疾走りをやめなかった美術部の先輩ら。
そして魂をわけあった、世界でだれよりも美しい女達。
会社に入ればみんな同じ。みんなおなじだ。
遅かれ早かれ、今のオレのように苦痛を感じることを放棄したり、
考える気力を奪われるまでいてこまされていくんだろう。
夢を希望をって、どいつもこいつもお気楽に歌ってくれるな。
そりゃ伝票整理したり、ワープロ打ったりコピーとったりするのが、夢だった奴はいないよ。(安達哲「さくらの唄」)


友達が、少ない人間です。突然の訪問客など、ありません。ですから、アパートのチャイムが鳴っても出ません。
電話も同様です。まして平日の電話など、親以外にかけてくる人間はいません。
水曜日の昼間に携帯が鳴ったときも、無視です。後で着信を確認すると、友人からでした。

この友人というのは、同年齢の女性です。


学校で知り合ったのですが、以降は互いにバラバラになってしまい、たまに電話をするような間柄。

数年前、「ディズニーシーで遊びたい」と彼女が言うので散々もめたことがありました。
僕は東京に住んでいるので、泊まる必要はありません。彼女はホテルを予約しなくてはいけません。しかし一人で泊まると高い。特にディズニーランド周辺では。
なので、僕の方から、
「二人部屋にしたら?」
と提案しました。
「一緒に泊まるの?」
「そう。金なら払うよ」
「でも、一緒に泊まったら、エッチするでしょ?」
「うん。エッチするね」
「いや」
あっさり断れました。
もう大人なのですから、「恋愛は恋愛、エッチはエッチ」と考えて欲しかったのですが、うまくいきませんでした。


そんなエッチなしの、文字通りの友人です。
ここ数年は、三十路前に相手を見つけようと焦り、つい最近になってめでたく結婚しました。


当初の目標は、働きたくなし楽もしたい、だから「金持ちと結婚する」という、非常に分かりやすいものでした。
その野望を達成するため、金持ち専門の結婚相談所に登録を画策します。費用は二十万円。もちろん、女性の側が払うのです。

一応友人なので、アドバイスしました。
「普通さ。金持ちだと、それだけで女性が集まってくるじゃない? それにもかかわらず、女性が一方的に大金を払わなくてはいけないような、そんな相談所に登録している男性って、なんか、おかしくないか?」
それに対する、彼女の反応。
「だって、忙しくて出会いの場がないから、そういうのに登録する人もいるでしょ?」
「いや。それなら、普通の相談所でいいだろ?」
「いいの! ちょっとくらい遊ばれるのは、覚悟しているから」
…………最早語るまい。

しかし、結局、登録しませんでした。両親に諭されたそうです。
本人はかなり乗り気で、お金を用意するという段階まで進みました。その振込みを母に依頼したところ、少額とは言えない金額を訝られ、支払い内容を質されたわけです。そこで正直に語る我が友。そして驚く父と母。
当然のことながら、僕と同じ主旨で説教されたそうです。

そんなわけで内心の不満を抱えつつも、大人しく無料の結婚相談所に登録し、ねるとんパーティーに参加、ついには公務員の旦那を手に入れました。
初期の計画では「金持ちを見つけて、サロンを開く」ということでした。公務員の給料では、その野望を達成することはできませんでしたが、十分に飯を食わせてもらえるということで大喜びで退社し、専業主婦になりました。


で、水曜の昼に電話が来たということなのです。

木曜日の夜に、僕から電話を入れると、
「明日のお昼に、電話できる?」
と言われます。まだ新婚ですからね。夜は忙しいのでしょう。僕は無職です。平日の昼間でも、まったく問題ありません。
「何時ごろ?」
「ドラマが二時に終わるから、それ以降なら、何時でも良いよ」
とのこと。昼ドラに熱中する主婦。幸せとは、なんと平凡なことか。


翌日の三時ごろに、電話を入れました。いつものように近況を語り合い、ふと、彼女が家計の足しにアルバイトを始めようとしていたことを思い出しました。
「そういえば、アルバイトは、どうするつもり?」
「やらないつもり」
………また、出たな。というのが、僕の偽らざる感想。もとより仕事が嫌いで寿退社したような女です。またバカにしてやろうと、無職の僕は、
「ホォー、いいですな。専業主婦は」
と言ったのですが、直ぐに返されました。
「病気が出てきたみたいで」


彼女の父親が、不治の病であることは知っていました。ただ遺伝性ではないということなので、「治らない病気を患った家族がいるのは、大変だろうなぁ」と無責任に同情する程度で、さして気にとめておりませんでした。

が、彼女が詳細を省いて説明していたのか、それとも自身も今まで知らなかったのか、かなり少ない事例ですが、遺伝するのだそうです。

「いろいろ聞いてみたら、おじいさんも、わけの分からない病気で死んでいるのよ。当時では、なんの病気かすら分からなかったみたいで。多分、お父さんの病気とおじいさんの病気は、同じだと思う」

ただし、病院に行って検査は受けたが、まだ結果は出ていない。
それを聞いて、危うく、
「じゃ、まだ分からないじゃん」
と言いそうになるが、どうにか飲みこみました。自分の父親が、既に罹っている病気。彼女にもそれなりの知識があり、単なる勘違いではないだろう。ただ気休めのためだけに、そんなことを言って、どうなるのか………。


眠れなくて、生まれて初めて睡眠薬を使っている、とのこと。
あまりに深刻なことなので、旦那にも、まだ話すことができない。
そんなわけで、昼間に電話してきたらしい。

「ドラマとか見ても、面白くない。登場人物が悩んでいたりするでしょ? でも、いくら悩んでも、死ぬわけじゃないのよ」
「本当は聞いちゃいけないことなのかもしれないけど、寿命って、どうなるの?」
「平均で三年から五年」

もちろん、平均に過ぎない。実際に、彼女のお父さんは発病してから十年弱経過しているが、病気の進行は遅い。寝たきりということもない。三十年以上生存している人もいるようだ。

だが平均である。長命な患者がいる一方で、短命な患者もいるわけだ。
「早い人だと、数ヶ月で亡くなるのよね」


「ともかく、なるようにしかならないんだし、あんまり考えすぎないことだね」
と言ってみたものの、自分でも白々しいと思う。嘘でも希望あふれる言葉をかけてあげることが必要なのかもしれない。それは分かっているつもりだ。だが、そんな言葉を、僕は根本的に持っていない。


まったく人生はクソったれだな。