すんけい ぶろぐ

雑感や書評など

陳凱歌「キリング・ミー・ソフトリー」

2005-01-31 19:03:02 | 映画評
白人さんの大きな手で頭を撫でて欲しい


海外で活躍していると、「箔がついた」とばかりに評価が上がるのは、スポーツ然り、小説然り、アート然り、映画然り、俳優然り。

でも、そのときの海外は「欧米」、特に「米」です。
台湾や韓国で活躍しても、あまり話題になりません

村上春樹は極東(北朝鮮は?)でも大人気らしいけど、いつも記事になるのは欧米で評価されたことばかりだよなぁ。
こんな記事もあるけど、基本的な視点としては「中国でも日本の文学が評価された、わぁーい」ではなくて、「中国もようやく村上春樹(日本の文学)が理解できるような環境に進歩したか、フムフム」といったふうに明らかに上から見下しております。


話は変わりますが、陳凱歌の「キリング・ミー・ソフトリー」です。

主人公の女性はキャリアウーマンで、登山家の男と唐突な恋に落ちます。二人は直ぐに結婚し、一緒に暮らし始めるのですが、しかし彼の周辺にある異常な事件に主人公は徐々に疑問を抱き始め………、というミステリー。

前半はキャリアウーマンと登山家との恋の進展が官能的(ライトSM)に描かれ、後半は登山家への疑いが不気味な色合いを帯びて浮かび上がる、という寸法です。


陳凱歌のハリウッド進出作なのですが、まったく中国人らしさなんかありません。
中国人臭さを売りにしたくなかったのか、そういう脚本を会社が彼に提示したのか分かりませんが、映画の登場人物も景色も音楽も、なんもかも普通のハリウッド映画です。

至極全うな文法でつくられている一方、異常な色づかいでインパクトを残してくれるようなこともありませんので、良くも悪くも期待は裏切られません。

前半はけっこうエッチなので、恋人同士の前哨戦にでも使って下さい。


キリング・ミー・ソフトリー

アミューズソフトエンタテインメント

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熊木徹夫「精神科医になる」

2005-01-30 08:52:29 | 書評
ゲッツ!


ブームが来て、ブームが去る。
家屋と家屋の隙間に、コスモ星丸の立て看板を見つけたときは、なぜか足早に立ち去ったものです。


熊木徹夫「精神科医になる」なんですが、僕はなぜこの本を買ってしまったのだろう。

タイトルそのまんまの本です。臨床の現場から得た知識だけではなく、言語学者のソシュールまで援用して、精神科医としての心得や診療方法について書かれております。精神科医療から離れることなく色んな問題が論じられておりまして、著者の仕事バカ振りが想像できる内容となっております。

ですが、精神科医を目指していない人間には、なんとも感想の書きようのない本でございます。


治療者と患者という二者関係は、その治療経過がはかばかしくなく迷走状態に陥ると、煮詰まって双方とも身動きが取れなくなってしまう。このような膠着をほどくのはいつも、シリアスな二人を斜め上から眺めている<誰か>である。この<誰か>は、いささかの諧謔を弄しながら、治療の場を相対化する手助けをしてくれる。力尽きそうな私の後ろを押してくれる。後で振り返って、治療がうまく運んだと思えるケースでは、たいていこの<誰か>が舞台の隅をかすめる程度に、しかも絶妙なタイミングで登場してきているのが分かる。(熊木徹夫「精神科医になる」158~159頁 中公新書)

なんとなく感想がつけれそうだったのが、引用した文章です。

この<誰か>とか、なんとなく推測できると思いますが、治療者であり治療者でなく、患者であり患者でなく、人間であり人間でなく、神であり神でなくというものです。
非常に理論的な人柄と思われる著者ですが、それでもこういう神秘的な考え方をするんですな。ユングの影響でしょうか? それとも人間の心理をあつかう職業だと、やはり同じような境地になるのでしょうか?

これが限界。


精神科医を目指す人には、一つの指針を示してくれる本なのでは?


精神科医になる―患者を“わかる”ということ

中央公論新社

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北野武「みんな~やってるか!」

2005-01-29 09:30:22 | 映画評
たけしの挑戦状


「たけしの挑戦状」というファミコンのゲームがあります(アマゾンで買えるのね)。
いまさら説明をするのもおこがましいので、詳しく知りたい方はGoogleで調べてみて下さい。
ビートたけしが即興で考えた設定やミニゲームを強引に詰めこんで、まったく統合する気のないという、完璧なゲームシステムを備えていた、とだけ言っておきます。

ともかく、その斬新なシステムが、ようやく現在になり、数多の角度から多層的に評価されております。発売当時の評価については気にしないで下さい。天才に時代が追いつくには、時間が必要なのです。


で、「みんな~やってるか!」です。
映画です。製作は1994年ですね。だいたい10年前です。失われた10年の真っ最中です。この時期に、この企画を通したバンダイ(で、いいのかな?)の英断に敬意を表します。

どんな物語なのかは聞かないで下さい。「たけしの挑戦状」にストーリーを求めるようなもので、それは野暮です。

この映画の要は、システムです。
ビートたけしが現場でひらめいた程度のコントを適当に盛りこんで、強引に話が進みます。元ネタにされた作品が怒り出すのではないかというレベルのパロディーも満載で、これが劇場で公開されていたことに驚きを禁じ得ません。

川崎球場に巨大なウンコが詰めこまれる場面などは、以後、二度とこれに類する映像が商業映画において再現されることはないに違いにありません。

しかも、海外の映画祭にも出品したんですね(それ自体がネタなんでしょうけど)。


コマネチ!


みんな~やってるか!

バンダイビジュアル

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メル・ギブソン「パッション」

2005-01-28 07:00:45 | 映画評
はみだし映画情熱系


最初に「パッション」というタイトルを見たとき、「情熱?」と思っていましたが、ヤフーとかで調べたら、

十字架の苦しみ → 強い感情 → 情熱

という感じで出来たものらしく、「受難」の方がもとの意味に近いそうです。というわけで、「passion play」は「キリスト受難劇」であって、「情熱的なプレイ」ではないそうです。勉強になりますね。

映画はキリストが捕縛されて、磔刑になり、奇跡の復活を遂げるまでを丁寧につくっておりまして、丁寧にグロです。もうこれでもか、というくらいにグロです。キリスト受難の厳しさを強調することで、神の偉大さを表現したかったのでしょうが、グロです。もうグログロです。

今年のクリスマスに、小さなお子様や、最愛の恋人と一緒に見ることをお勧めします。


パッション

東宝

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舞城王太郎「煙か土か食い物」

2005-01-27 07:23:20 | 書評
神として生きる


「舞城王太郎」という名前は、最近よく聞きます。「煙か土か食い物」が文庫になっていたので、手にとってみました。

「文体が独特で人を選ぶ」と言われておりますが、悪文ということはないんじゃないかな。スピード感を意識したもので、読みやすかったです。ただ、個性の強い独白調なので、やっぱり抵抗のある人は多いかも。

生きていても虚しいわ。どんな偉いもんになってもどんなたくさんお金儲けても、人間死んだら煙か土か食い物や。火に焼かれて煙になるか、地に埋められて土んなるか、下手したらケモノに食べられてまうんやで(舞城王太郎「煙か土か食い物」162頁 講談社文庫)

引用したのは、臨終間際の祖母の言葉です。
この虚無への誘いが主人公の四郎を苦しめ、そこから逃れるために、アメリカに渡って医者になります。つまりは人命を扱うという「神」になることで、自らを一段上に持ち上げ、下界の虚無から逃避するんですな。しかし、結局は「逃避」でしかないので、いずれは対決が避けられません。
その対決は、兄の二郎とすることになります。二郎もまた虚無から逃れるために「神」となり、異常者を操作して殺人を犯させます。つまりは「人を救う神」と「人を殺す神」との対決です。

もちろん罪は罪だが罪というものは許されなくてはいけなし罰なら誰にとっても十分に当たっていると言えるんじゃないのか?孤独と苦痛と不信と無感覚。これ以上の罰を与えるには証拠が不足しているし時間が経ちすぎている。(同書332頁)

で、その対決を経ることで、四郎は「許す」ことを得るわけですな。


サービス精神が旺盛なせいか、全体的にちょっと軽い印象が残ってしまうかもしれませんが、基本はミステリーなので、文体にアレルギーがなければ楽しめるのでは?


煙か土か食い物

講談社

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フランソワ・オゾン「スイミング・プール」

2005-01-26 17:04:56 | 映画評
黄色人種が金髪に染めているのを見て、白色人種はどう思うんだろう?


なんか久しぶりにパツキンの裸が見たくて、「ガール・ネクスト・ドア」と競った結果、「スイミング・プール」を見てました。


中年になろうという堅物の女性小説家と、大人になりきれない奔放な女性が、一緒の家に偶然暮らすことになりまして、お約束通り諍いを繰り返すという話。

で、徐々に二人は溝を詰めていくんですが、その途中で殺人事件が起きます。別にこれがメインというわけではないので、ジャンルとしてはサスペンスとは言えません。
惜し気もなく、若い方も年寄りも裸を披露してくれます。綺麗ではありますが劣情を満足してくれるようなものではありません(そんなこったろうとは思ってましたけど)。エッチシーンもありますが、あくまで「諍い」の原因として語られるだけで、恋愛ものには発展しません。
子供のいない中年女性と、母親のいない若い女性の交流であります。しかし、フランス映画ですから、分かり易い心温まるヒューマンドラマなどには仕上がっていません。


最初は互いの「女」の部分に反発し合っており、小説家は憎しみのあまり、その不道徳な面を強調した(と思われる)作品を書きつづっていく。だが、少女の失われた母の話を聞くことで、二人は徐々に近づいていく。こうして、小説家は「母」になり、若い女性は「娘」の役割が成り立つ。が、「娘」は「母」が自分のもとにした小説を書いていることを知ってしまう。「娘」は、それに反発しつつも、その物語に貢献するために、人を殺してしまう。「母」は、その殺人を許し、隠蔽工作をも施し、そして「娘」から提供された母の物語を織りこんだ小説を完成させる。
小説は小説家にとってはもちろん「子供」ですし、「娘」にとっては本当の母が再現されたものです。つまり、この「スイミング・プール」は母なる海(プール)から小説(「母」にとっては「子供」、「娘」にとっては「母」)が生まれてくる物語なんですね。

………と屁理屈を並べてみましたが、どうでしょう? 納得できました? 納得できたとしたら、騙されてますよ(しかも無職の人間に)。

つまりは、解釈を作品から得ようとするよりも、作品に解釈を投影する作品です。そういう作業に抵抗のない方は、楽しめるのでは?


スイミング・プール 無修正版

東北新社

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ポン・ジュノ「殺人の追憶」

2005-01-25 15:25:12 | 映画評
バンザーイ!………なしよ


定石通りに作品をつくると、なんだかんだで、適当なレベルのものが出来上がるものです。
しかし、完全に定石通りにしてしまうと、往々にしてありきたりの陳腐なものに堕してしまいます。
で、どうにか定石を、一つ二つずらしてやろうとするのですが、むしろ「なんだ、こりゃ?」という結果に陥ることもあります。下手をすると、その一つ二つの定石破りが作品全体の敗因にすらなってしまうことあります。


「殺人の追憶」ですが、タイトルから想像できる通り、サスペンスです。
韓国の田舎で起こった殺人事件を巡って、「土着の腕力に訴える刑事」と「ソウルから来たスマートな刑事」が、最初は反目し合いながらも、最終的には互いに感化されて協力して捜査に当たっていく、という物語。

これだけ書いてしまうと、「腕力型」と「知能型」の組み合わせで、「いかにも」な感じがします。
が、ネタバレになりますが、最後の土壇場で、サスペンスでありながら、「犯人が特定できない」という定石破りを敢行してくれます。
「犯人が捕まらない」「犯人を捕まえることができない」くらいならパターンとしてありそうですが、「犯人が特定できない」まま終わってしまうとは。

知恵遅れの犯行目撃者が、刑事たちに容疑者の写真を見せられて、自分の悲惨な過去とオーバーラップしてしまい、パニックに陥るというシーンがあります。無理に解釈すれば、これが真犯人を推測させるのですが。


現実の事件を基にしていて、さらに犯人は捕まってないそうです。ですから、犯人逮捕というラストにはできなかったのでしょうけど。
しかし、深い余韻を残してくれるラストでした(モヤモヤも残りますけど)。

骨太なサスペンスを求めている方には、うってつけだと思われます(高村薫なんか、大絶賛しそうです)。


殺人の追憶

アミューズソフトエンタテインメント

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張芸謀「至福のとき」

2005-01-24 01:25:38 | 映画評
大団円では終わらせない


結論から言いますと、この映画「至福のとき」、かなりざっくりとした終わり方です。原作(「至福のとき―莫言中短編集」)があるようですから、それを忠実に再現したのかもしれませんが、映画だけでは、このざっくりさが納得できないものがありました。


ストーリーは、盲目の少女と無職の中年男性との交流という、人情物です。
最初は自分のために嘘をついていた男ですが、そのうちに少女を喜ばせたいばかりに彼女を騙していく。当初は生硬な態度だった少女も、次第に男性に心を開き、彼の嘘を知りながらも、わざと騙された振りをする。

こういうパターン自体は、ニセ黄門くらいに、ありがちな展開です。
最後には、少女は自立すべく、中年の男性に感謝しつつ、その庇護から抜け出していきます。と書いてしまうと、こちらもありがちなオチですが、この自立があまりに痛々しくて、手放しでハッピーエンドとは言えないものがあります。

ハッピーエンドにしてしまうと、どうしても現実離れしてしまい、「そんなに、うまくいくかいな」と思ってしまう一方で、こうも突き放されてしまうと、複雑な読後感ならぬ鑑賞後感が残ってしまいます。


うむ、張芸謀という感じです。恋愛以外で切ない気分になりたいときにお勧めです。


至福のとき

20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン

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波多野誼余夫・稲垣佳世子「無気力の心理学」

2005-01-23 06:30:55 | 書評
「現在の教育をぬるい」とテレビで慨嘆している人を見ると、「あんたはそんなに真面目に勉強したの?」と揶揄したくなるのは、僕だけだろうか?


もともと管理・詰め込め教育への反省から生まれたはずの「ゆとり教育」
バブル期以前には、
 「詰め込み教育のため、独創的な才能が育たない」
 「夜の九時まで電車で塾に通っているのは、とても子供らしいとは言えずおかしい」
 「今の管理教育では、本当の生きる力が身につかない」
てな、ことが言われておりました。が、実際に、管理・詰め込め教育が緩み始めると、
 「九九や漢字の書き取りといった基礎教育は、詰め込みでやらせるのが当たり前だ」
 「こんな学習内容では、世界から取り残されてしまう」
 「今の子供は、自由すぎる」
てな、感じになりました。

教育に王道なし。既成のシステムに安住してしまった時点で終わりなのでしょうから、議論がつきないのは仕方ないんでしょうね。

 今ここに、生後二ヶ月の乳児が一人、ベッドにねかされていると想像してほしい。彼は目をさまし、泣き声をあげはじめた。だが、彼の泣き声を聞きつけて、誰かがそばにやってくる気配はない。少し泣きやんだあと、今度はもっと大きな声をはりあげた。まだ誰もやってこない。さらにもっと大声で泣く。依然として周囲に何の変化もおこらない……。こうして数分間泣きつづけたが、結局誰も彼のそばにこない。彼の泣き声はだんだん小さくなり、ついにはまたねむってしまった。

このような光景に対して、読者はどう思われるだろうか。「これは残酷だ。こんなことを繰り返すと子どもの発達に重大な悪影響があるだろう。」こう思われるだろうか。「いや、赤ん坊は泣くのが仕事だ。あのようにして運動しているのだ。少しくらい泣かせたままにしておいてもたいしたことはない」とお考えだろうか。それとも「幼いうちからがまん強さを身につけさせようとしているのはいいことだ」と思われるだろうか。(波多野誼余夫・稲垣佳世子「無気力の心理学」17頁~18頁 中公新書)

面白い話だったので、ちょっと長めに引用してみました(手打ちです。スキャナーが欲しい……)。

で、どれが、正解だと思いますか?
本書では、最初の「これは残酷だ。こんなことを繰り返すと子どもの発達に重大な悪影響があるだろう。」を正解としております。
子供が泣いたら積極的にあやしてあげる方が、自分のリアクションで外界が反応することを覚え、泣く以外の方法でコミュニケーションをとることを早いうちに始めるそうです。つまりは、泣かなくなるということです。

放置しておくことで、赤ん坊が黙り始めるのは、「我慢強さ」を学んだなんてものではなく、むしろ「諦念」からくる無気力が、そうせているらしいです。

最近の心理学の知見によれば、人間は本来、環境に自分の活動の影響を及ぼしたい、環境を理解しコントロールしたいという欲求をもち、たえず環境と相互干渉している存在であるといわれている。環境とのやりとりの過程で、そうした欲求が充足されることは、人間にとって非常に快適な経験になるのだといえよう。(同書30頁)

本書では、外界に対して積極的に関わっていこうとすることが人間の本能なのであって、それが何らかの事情で達成できないことで人は意欲を失っていく、という前提に立っています(初版が1981年になっているんで、「最新の心理学」がどれほどのものか怪しいですが、まぁ、門外漢なのであまり気にしないでおきます)。そのため、本書では「獲得された無力感」という表現をしています。つまり、「無力感」というものは、人間の本性に根ざしたものではない、ということらしいです。

どうなんでしょう? 水は低きに流れという感じで、安易に自堕落な生活を堪能してしまうタイプの僕からすると、ちょっと性善説により過ぎているような気もしますが。


基本的に、教育者向けの本です。また、ちょっと古い本なので、現状とは相容れない文章や、共産主義に対する一抹の希望が見られたりして、時代を感じてしまう箇所もあります。

が、人間の意欲について考えるには、有益と思われます。
仕事に対して、いつもやる気のでない人などには、面白いのではないでしょうか?

若松節朗「やまとなでしこ」

2005-01-22 09:59:49 | 映画評
あぁ~ん、くねくね


一旦外で暮らし始めると、実家といえども他人の家です。
それは極論ですが、居心地は悪くなくとも、どうしても手持ち無沙汰なものです。盆暮れに帰郷しても、家にはほとんど寄り付かず、ずっと旧友とプラプラしている方も多いのでは?

そもそも友人が少ない上に、もう30間近ともなりますと、飲み会で仕事の愚痴を言い合う程度で(僕は無職ですけど)、昔のように漫然と一緒に過ごすようなこともなくなるものです。


そんなわけで、実家でテレビをダラダラとみておりました。それで見ることができた「やまとなでしこ」の再放送。

松嶋菜々子の顔芸が楽しくなってしまい、全部見てしまいました。「チッ」と内心で舌打ちや、営業トークで男に媚を売ったと思えば、話し相手から顔を背けて「やべぇー」と焦ったり、「私にとっては、あんな男は関係ない」と虚勢を張って、同僚の前で得々と自説を開陳する。場面場面で目まぐるしく変わる松嶋菜々子の表情に、すっかり魅入られてしまいました。(後、矢田亜希子の化粧の濃さにも、目を見張るものがありました。「東京ラブストーリー」ほどではないですが、時の流れの早さに驚かされました)


ストーリーは、主人公の男女が出会いを重ねることで、共に成長していくという展開です。それ自体は王道なんですが、松嶋菜々子が演じる神野桜子の、あまりに身も蓋もない「金持ち至上主義」が、逆に爽快です。そうです、金で買えないものは、必要のないものです。

まぁ、でも、結局、「金より心」という(ドラマ的に)無難な着地点に落ち着くんですがね。


「金より心」という言葉に、自分を慰めたいときには、よろしいドラマなのでは?


やまとなでしこ DVD-BOX

ジェネオン エンタテインメント

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