すんけい ぶろぐ

雑感や書評など

是枝裕和「誰も知らない」

2005-10-27 08:19:08 | 映画評
かの男の女性遍歴を鑑みれば、尊敬する人物として、多くの男性は彼の名を挙げざる得ない


「OLD BOY」に続いて、「誰も知らない」を見ました。
別にカンヌつながりというわけじゃないんです。なんとなく。


で、観賞後の感想としては…………なんとも、悲しいと言うよりも、切ない映画でした。

ストーリーは、母親に見捨てられた子供四人が、アパートの一室で自活していくと言う話。

で、当然、子供たちに降りかかる災難や苦労、不幸といったものは、母親が元凶なんですが、この母親が上手なキャラクター設定で、単純に憎めない人間らしい性格となっています。

子供たちを無責任に捨て去っておりながら、それは子供たちが憎いからではなく、子供が可愛いときには子供を可愛がり、男が欲しいときには男を求めて旅立ってしまうという、要するに後先の考えができない、愚かな女性として描かれています(そんため、母親が子供を嫌ってはいないように、子供も母親を好いている)。

その簡単に善悪の二元に分けることの出来ない「人間らしさ」は、全ての登場人物に当てはまることです。

それは、カンヌで絶賛された柳楽優弥が演じる主人公も然り。その兄妹三人も然り。彼らの境遇を知り、手助けはするけれども、根本的に対策を立てようとはしなかった、周りの大人たちも然り。

それだけに、彼ら四人の生活が徐々に崩壊していく様は、どこに原因を持っていくこともできず(まぁ法律的には当然母親ですけれども)、痛切な切なさを持って画面から迫ってきます。(この生活臭を出すためのディティールが、巧みでね)


泣ける…………と言うよりは、子供たちの生活があまり痛々しくて、途中で見るのを止めたくなる、そんな映画でした。


「誰も知らない」というタイトルは、最初は「周囲の大人が気がつかなかった」という意味だと思っていましたが、見終わって分かるのは、「気づいていた大人もいた」ということ。

じゃ、どういう意味なんだ?

主人公の悲しみを「誰も知らない」ということなのだろうか?
(ネタバレになりますが)それとも、「妹が死んでしまった」ということか?
うーむ。


ちなみに。
「OLD BOY」の感想。
パク・チャヌク「OLD BOY」良い映画の特徴としては、大して綺麗でもない女優さんが、見ていく内に、必ず美人に思えてくることだな

後は、子供が出てくる映画と言えば、こんなものも。
張芸謀「あの子を探して」張芸謀を探して -彼はどこに行こうとしているんだ?-
しかし、子供と動物が出てくる映画は、卑怯だね…………。


誰も知らない

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塩野七生「ローマ人の物語 (23)」

2005-10-25 08:12:22 | 書評
愛こそ全て?


で、「ローマ人の物語 (23)」。
ローマ中興の祖と言えるヴェスパシアヌスの息子、ティトゥスとドミティアヌスのお話が中心の巻です。


うーむ。
どうもカエサルやアウグストゥトの時代と違い、出てくる人物が小粒で…………。
いまいち、躍動感には欠けるものがあります。

その中で面白かったエピソードは、ドミティアヌスと姪のユリアの話でしょうか。
二年しか統治しないで死んだティトゥスには、娘が一人いた。名を、ユリア・フラヴィアという。ドミティアヌスには、姪にあたった。ユリアは、未亡人になって親もとにもどっていた。母親も死んでいたようで、叔父のドミティアヌスが住む、皇宮にもどっていたのである。
 十代の末ぐらいの年齢であったらしいユリアは、容姿でも性格でも教養でも、皇后ドミティアとは正反対の女だった。目立だない地味な印象を与え、常に淋し気で影が薄い女人であったようである。
 この二人の間がいつ頃から、叔父と姪から男と女の関係に変わったのかはわからない。なぜなら、召使たちの眼を逃れることなど不可能な皇宮に住んでいながら、二人の関係は誰にも気づかれずに進んだからである。
 しかし、このままで良いと思わなかったのは、ドミティアヌスのほうであった。どのような経緯を経てかは不明だが、一年もしないうちに皇后との復縁を果している。ドミティアは、再び宮廷の女主人の座に返り咲いた。だが、ユリアのほうも、皇宮の別の一角に住まいつづけていたのである。その気があればできたはずの再婚もしていない。
 この不幸な同居状態が人々の噂にのばったのは、ユリアの突然の死が契機だった。妊娠したユリアにドミティアヌスが強いた堕胎が死の原因になったというのが、召使たちの□を通して広まった噂である。
塩野七生「ローマ人の物語 (23)」176~177頁 新潮文庫

で、まずまず善政を行っていたと評して問題のない皇帝ではありましたが、この皇后との不和が原因で、暗殺されてしまいます。
で、まずまず善政を行っていたと評して問題のない皇帝ではありましたが、庶民と元老院には不人気であったため、「記録抹殺刑」で死後にその存在を否定されると言った、落第のレッテルを貼られてしまいます。(森首相も、いつか評価されるのでしょうか? ……………………そりゃ、ないな)

 ネロと同じ「記録抹殺刑」に処されてしまった以上、死んだドミティアヌスを皇帝廟に葬ることは許されない。誰も引き受け手のない遺体を引き取り秘かに火葬に付したのは乳母だったが、少年時代のドミティアヌスを母代わりになって育て、その後もそば近くつかえてきたこの女奴隷は、死後に神格化された父ヴェスパシアヌスを祭るためにドミティアヌスが建てさせたフラヴィウス神殿の一角に遺灰を葬るときになって、不可思議な行為をした。ドミティアヌスの遺灰を、先に葬られていたユリアの遺灰と混ぜて埋めたのだ。「記録抹殺刑」によって墓碑すら立てることができなくなったドミティアヌスだが、墓にはユリアとともに眠ることはできたのである。
塩野七生「ローマ人の物語 (23)」183頁 新潮文庫
なんか、出来過ぎのエピソードですが。
まぁ、でも人間の幸不幸を考えさせる話だったりします(それだけに、ちょっと創作の臭いがしますが)。


塩野七生「ローマ人の物語 (17)」まぁ面白いんだけどさ
塩野七生「ローマ人の物語 (18)」男の夢
塩野七生「ローマ人の物語 (19)」努力が報われないタイプ
塩野七生「ローマ人の物語 (20)」石原慎太郎が「これからの日本は、まだまだ良くなる!」と言っている姿を、ちょくちょく拝見するが、その根拠はどこから来るんだろうと不思議に思いつつも、ああまで自信たっぷりに発言することが大事なんだろうなぁと感じたりします。
塩野七生「ローマ人の物語 (21)」庶民の知恵?
塩野七生「ローマ人の物語 (22)」杉原千畝を映画化する人がいないもんだなぁ。「プライド」よりは穏当で興行成績も期待できそうなんだがなぁ


ローマ人の物語〈23〉危機と克服〈下〉

新潮社

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稲盛和夫「稲盛和夫の実学」

2005-10-24 08:06:59 | 書評
ネズミの知恵では獅子の心を………


映画の選択も適当ですが、本も、また然り。

今日は、稲盛和夫「稲盛和夫の実学」について。


稲盛和夫は、京セラの創立者で、今はKDDIの最高顧問という錚々たる経歴の持ち主。

その著者が、これまで実践してきた経営と信念について語っています。

さすが創業者らしく、その経営哲学の成立は現場の問題から発しており、そのことについても言及されているので、無味乾燥として理屈ではなく、血肉の通った方法として学ぶことができます。

と言っても、製造業を基本として話は展開しますので、その点が気になる方もいるかも。


が、著者の主張を突き詰めると、シンプルなものです。その真髄は、どの仕事にも通じるのでは?
 投機的利益の追求は射幸心をあおるようなゲーム的性格を強く含むためか、不幸にして多くの人々をひきつける。何ら創造的な活動ではない投機が、たちまちのうちに人を夢中にさせる魔力を持つのである。しかし、その魔力に負けて社員を不幸にさせることがないよう、経営者はあくまで自分の原理原則を堅持し、何が正しいのか、会社の使命とは何かというところから行動をする必要がある。
稲盛和夫「稲盛和夫の実学」91頁 日経ビジネス人文庫
ようは、「本業を真面目に」。

他にも、「売り上げは増大を目指し、経費は削減を」「人として、恥ずべきことはするべきではない」てなことが主張の骨子となります。

まぁ、当たり前と言えば当たり前のこと。
言われるまでもないのですが、…………まぁ、そうは言っても、ねぇ~。


ちょこちょこっと「自慢話だなぁ」と思えるよう箇所もないでもないですが、まぁ、京セラを今の規模にした人物。
著者としては普通の話をしているつもりなのかもしれませんが、小粒なこっちにしてみると自慢話に聞こえてしまうのは、仕方ないこと。


とにかく、ビジネスの基本に立ち返る必要がある方には、うってつけなのでは?


稲盛和夫の実学―経営と会計

日本経済新聞社

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パク・チャヌク「OLD BOY」

2005-10-23 08:52:01 | 映画評
良い映画の特徴としては、大して綺麗でもない女優さんが、見ていく内に、必ず美人に思えてくることだな


韓国映画「OLD BOY」を見ました。

韓国映画の勢いを象徴するかのような、良い意味(使い古された表現)で豪腕なサスペンス映画でした。


理由も分からず十五年間監禁されていた男が、理由も分からず解放されて、復讐のため、謎を解明していく………というストーリー。

この通り、荒唐無稽な設定なので、物語自体は豪腕な進み方をしていきます。
が、画面の抑えた色調と、独特なキャラの演技、テンポのよい展開に、強引さを楽しみながら見ていくことができます。


しかし、この映画、なんの因果か31になる実姉と見ることに。
途中からのネタバレが、一緒に見ていて、気まずいこと気まずいこと。(なんで気まずいかは、映画を見ると、よーく分かります。…………肉親と見て気まずいということは、だいたい想像ができると思いますが)

それが気になって、ストーリーを単純に楽しめなかった…………。
見るなら、一人か、せいぜいカップルで。

家族と見ることは、止めておきましょう。


ちなみに、悪い意味で豪腕な韓国映画の感想。
イ・シミョン「ロスト・メモリーズ」日本に統治されているという設定なので、登場する韓国人は日本語を話せると言う設定なんだが、こいつらの発音が聞き取りづらいこと。なんで、吹き替えにしなかった?
クァク・ジェヨン「僕の彼女を紹介します」死んでも君を守ってみせる…………ってか?

良い韓国映画の感想。
ポン・ジュノ「殺人の追憶」バンザーイ!………なしよ


オールド・ボーイ プレミアム・エディション

ジェネオン エンタテインメント

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大場つぐみ/小畑健「DEATH NOTE (1)」

2005-10-22 08:35:21 | 書評
藤原佐為は囲碁の得意なスタンドだったが、リュークは死を操るスタンドだな


なんとなくテレビをつけていると、「遊戯王」のアニメがやっている。
そこでは、「私は神になる」とか「このデュエルに勝利して、全世界を手に入れてみせる」と、かなりエキセントリックな発言が飛び交っている。

もう、いい年したオッサンだったので、
「たかがカードゲームで、こいつら、何を言っているだか…………」
と内心でつっこんでおりました。


そんな折「遊戯王」と共に、「ヒカルの碁」が流行していると聞きました。
で、風の噂では、「神の一手を極める」と叫んでいる、とか。

「また〝神〟か…………。ジャンプも好きだね。たかが碁で、神様には、なれないから………」
と思っておりましたが、偶々漫画喫茶で第一巻を読んだら…………、そのまま書店に出向いて、当時発行されていた単行本全てを買ってしまいました。


面白かったねぇ~、「ヒカルの碁」。

十年くらいしたら、ヤング系(バンチ?)で「青年編」とか始まるかもね。
ヒカルたちの前にあらわれる天才少年棋士。彼の囲碁には、佐為の影がチラつく。少年には、佐為がついているのだろうか? …………みたいな。


それは、ともかく。
原作者は変わりましたが、「ヒカルの碁」の画をつとめていた小畑健の最新作「DEATH NOTE」。

ネットでは、「おもしろ、おもしろ」と評判でしたが、なんとなーく読んでおりませんでした。

で、アマゾンで本を買った際に、送料無料の1500円まで隙間があったので、今回は「DEATH NOTE (1)」を選んでみました。


で、感想ですが、…………なるほど、騒がれるだけあるね。
おもしろ。


今さらストーリーを書くのも何ですが、藤原佐為という囲碁の得意な幽霊にとり憑かれた主人公が、棋界において徐々に力を発揮していく…………と言うのは、「ヒカルの碁」でして、「DEATH NOTE」というのは、リュークという死を自由に操る死神が持つデスノートを拾った主人公が、徐々に世界に対して自らの力を誇示していく…………。

で、その主人公・夜神月が、デスノートで世界を変えていくと宣言する箇所。
どんな馬鹿でも「悪人が誰かに消されている」って事に気付く

世の中に知らしめるんだ 僕の存在を
正義の裁きをくだす者がいるって事を!!

誰も悪い事ができなくなる
確実に世界は良い方向に進んでいく

そして罪を受けて当然な悪人が心臓麻痺で死んでいく裏で
道徳のない人間
人に迷惑をかける人間を病死や事故死で少しずつ消していく

それすらもいつか愚民は気づくだろう
「こんな事をしれいれば消される」と…
そして僕が認めた 真面目で心の優しい人間だけの世界をつくる
大場つぐみ/小畑健「DEATH NOTE (1)」47~48頁 集英社
それを聞いた死神・リュークは「そんな事したら 性格悪いのおまえだけになるぞ」とつっこみを入れます。が、夜神月は、まったく平然と、言い返します。
何を言っているんだ? リューク

僕は日本一と言ってもいいくらいの真面目な優等生だよ

そして僕は 新世界の神となる
大場つぐみ/小畑健「DEATH NOTE (1)」48~49頁 集英社
やっぱりジャンプだ。神だ! 神になる!!


DEATH NOTE (1)

集英社

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塩野七生「ローマ人の物語 (22)」

2005-10-21 08:39:40 | 書評
杉原千畝を映画化する人がいないもんだなぁ。「プライド」よりは穏当で興行成績も期待できそうなんだがなぁ


「ローマ人の物語(22)」。

内乱で三人もの皇帝が次々と誕生しては倒されていく、というローマ帝国の異常事態も、ヴェスパシアヌスの登場で、ようやく落ち着きを取り戻します。

それとは関係なく。
今巻で一番興味を引いたのは、その内乱と同時進行していたユダヤ戦役に関して。

で、なんでユダヤ人とローマ人が対立しなくてはいけなかったか? について。
ローマ人のユダヤ人への対処は、カリグラ帝末期に一時悪化した時期を除けば、ユダヤがローマの直接支配下に入った紀元六年からの六十年間、右に述べた方針を踏襲してきたのである。ただしローマは、イェルサレムに神権政体を樹立するという一事だけは、絶対に認めなかった。認めようものなら、海外に住むユダヤ人にまで波及するのは避けられなかったからである。神権政体の樹立は認めない代わりに、ローマは、ユダヤ人の王によるユダヤの地の統治政体の実現に努めている。ヘロデ大王時代のように世俗の王権が確立すれば、神権政体志向を押さえることができたからである。
 ところが、イェルサレムに神権政体を樹立することこそが、正統と信ずるユダヤ教徒の悲願であったのだ。これでは、ローマがいかに譲歩しようと解決できる問題ではない。なにしろ、「自由」という言葉の意味するところが、この二民族ではちがった。ローマ人にとっての「自由」は、軍事力によって保証された平和と、法によって保証される秩序の中で、各人が自分にできることをやるのが自由の意味だったが、ユダヤ人の考えでは、神権政体を樹立できるのが「自由」の意味であったからだ。六十年にわたるローマの、ユダヤ人の特殊性容認の統治は、このユダヤ教徒の「自由」への悲願を埋もれ火にする効果ならばあった。だが、火は消えたわけではなかったのである。
塩野七生「ローマ人の物語 (22)」92~93頁 新潮文庫

ふーん。
よく「ユダヤ人は異質だ、異質だ」と言われるのですが、こういう背景があるんですなぁ。

なんとなーく、知っているつもりになっていましたが、これで、ちょっと納得。…………というのはウソ。
これは「多神教のローマ人」と「一神教のユダヤ人」だから、起こった対立でして、ユダヤ人の特殊性というか異質性については言及されていない。

その答えは、こっち。
 この疑問に対しては、タキトゥスの次の一文が答えになるのではないかと思う。
「ユダヤ人がわれわれにとって耐えがたい存在であるのは、自分たちは帝国の他の住民とはちがうという、彼らの執拗な主張にある」
 第Ⅶ巻でも述べたように、征服者であるローマ人は被征服者たちを自分たちと同化し、ローマ帝国という運命共同体の一員にするよう努めてきた。ギリシア人もスペイン人もガリア人も北アフリカの人々も、ローマのこの敗者同化路線に賛同し参加をこばまなかったのに反し、ユダヤ人だけが、一神教を理由に拒絶したのである。しかも、同化を拒否しただけでなく、神権政治の樹立にあくまでも固執し、その樹立を許さないローマに反抗をやめなかったのである。
 ギリシア人には反ユダヤ感情があったが、ギリシア人とはちがって社会での立場でも職業でもユダヤ人とは競合関係になかったローマ人には、反ユダヤ感情はなかったのである。それが、ユダヤ人との直接の接触が六十年に及ぶという時期になって、さすがにローマ人も反ユダヤ感情をもちはじめたのではないかと思う。
 ユダヤ人を嫌うようになると、ユダヤ人の行うことすべてが嫌悪の対象に変わってくる。タキトゥスも書くように、割礼は他の民族と区別するためであり、一神教は他の多くの神々への軽蔑から生れた信仰であり、軍務や公職の拒否は帝国への愛国心の欠如を示し、人口増に熱心なのは他民族を追い技く考えから出ており、彼らが偶像崇拝と呼ぶ人間に形をとった神像の崇拝拒否は、人間への軽蔑以外の何ものでもなく、舞踏もなく体育競技もともなわないユダヤ教の祭式は、陰気でうっとうしくて人生を絶望させる、とまあこんな具合だ。他の宗教を信ずる者との結婚を禁じていることも、ユダヤ民族の閉鎖性のあらわれと思われるようになったのである。
塩野七生「ローマ人の物語 (22)」95~96頁 新潮文庫
ナチスの「ヨーロッパにおけるユダヤ人問題の全面的解決」という、今の日本人からすると、かなりいっちゃった政策も、こういう背景から出てきているんだなぁ。

今回の感想は、こんなもんで。


これまでの感想。
塩野七生「ローマ人の物語 (17)」まぁ面白いんだけどさ
塩野七生「ローマ人の物語 (18)」男の夢
塩野七生「ローマ人の物語 (19)」努力が報われないタイプ
塩野七生「ローマ人の物語 (20)」石原慎太郎が「これからの日本は、まだまだ良くなる!」と言っている姿を、ちょくちょく拝見するが、その根拠はどこから来るんだろうと不思議に思いつつも、ああまで自信たっぷりに発言することが大事なんだろうなぁと感じたりします。
塩野七生「ローマ人の物語 (21)」庶民の知恵?


ローマ人の物語 (22)

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押井守「GHOST IN THE SHELL」

2005-10-18 08:19:26 | 映画評
シンクロ率は生理に影響されないんだが………


原作の「攻殻機動隊」を読んで、押井守「GHOST IN THE SHELL」を見直したくなり、早速。


原作を読んだおかげで、映画もよく分かるなぁ。

後、映画を見ることで、原作の魅力がさらに引き出されるようになっている。
例えば、以下のコメント。
私「自分はもう死んじゃってて今の私は義体と電脳で構成された模擬人格なんじゃないか?」って思う事もあるわ
士郎正宗「攻殻機動隊」104頁 講談社
で、この素子の言葉に対して、聞き手は「でもちゃんと 脳ミソとかついてるし 人間扱いされてしィ」と答える。それに、さらに疑問を呈する素子。
脳ミソ 自分で見たわけじゃないのに?
周囲の状況でそうだと判断してるにすぎないのに?
士郎正宗「攻殻機動隊」104頁 講談社

この会話って、映画でもバトーと素子の間に交わされるもので、その際は、すっかり押井節になって、第三者が安易に介在できないほど、深刻なものとして描かれていました。

だけれども漫画では、けっこう、おちゃらけているんだよね。
それだけに漫画を読んだだけでは、この会話に潜んでいる問題を、意識することなく、見過ごしてしまうだろうなぁ。


こういった物語全体にちらばって隠れている問題を、「GHOST IN THE SHELL」は綺麗にまとめているということが、原作と映画に連続して触れることで、(今さらながら)よく分かりました。

押井守は職人だなねぇ~。
でも、やっぱり物語にこめる情報量が多過ぎだよ………。(原作の漫画からして、そうなんだから、仕方ないのかもしれないが、漫画と違い、映画では受け手が自由に時間を与えられているわけじゃないからなぁ)


で、「イノセンス」を見て以降、「GHOST IN THE SHELL」は見ておりませんでした。
今回、再度見ることで、「GHOST IN THE SHELL」から「イノセンス」につながるよう随所に仕掛けがあることに、驚きました。
バトーが素子に上着をかけるシーンとか、ドックフードとか。

まぁ、「GHOST IN THE SHELL」製作時から続編のために用意していたというよりは、続編の製作が決まってから、前作を見直して、うまーく活用したという感じですけどね。

それにしても、これも、また見事な職人芸ですこと。


「攻殻機動隊」関連の感想。
士郎正宗「攻殻機動隊」まぁ「攻殻機動隊」の〝ネット〟は、〝インターネット〟とは微妙に違うようだが
神山健治「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX The Laughing Man」おれがバカなのか?
押井守「イノセンス」竹中直人は、いろんな人に愛されているよなぁ


GHOST IN THE SHELL~攻殻機動隊~

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GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊 Limited Edition

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GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊

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士郎正宗「攻殻機動隊」

2005-10-17 08:46:13 | 書評
まぁ「攻殻機動隊」の〝ネット〟は、〝インターネット〟とは微妙に違うようだが


中学高校と言いますと、一番多感な時期で、一番吸収率もよろしい時期。
にもかかわらず、自由になる金のない時期でもあります。

本屋に行くと、平積みを前にして「これも欲しいなぁ~、あれも欲しいなぁ~」といつも指をくわえて見ていたものです。

その平積みの中に必ずといっていいほどあった本が、二冊あります。

「AKIRA」と「攻殻機動隊」です。

「AKIRA」は、ほどなくして映画化になり、全世界に名を轟かせることになりました。
映画があの通りヒットしたんで、その後、漫画を読みました(と言っても、漫画を読んだのは、高校を出てからだったけど)。

で、「こりゃ、スゲーな」と。


が、「攻殻機動隊」の方は、なんとなく見ないで過ごしてきました。
映画もヒットしたのにね。

最近見た「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX The Laughing Man」も面白く、まだ最近漫画も読んでいなかったので、士郎正宗「攻殻機動隊」を手にしてみました。

で、「こりゃ、スゲーな」と。


押井守「GHOST IN THE SHELL」を二回目に見た時、
「あぁ、こんなに早くから、ネットを意識し、考えていたんだなぁ」
と感心しましたが、なんのことはない、原作にあるんだね。

企業のネットが星を被い、電子や光が駆け巡っても
国家や民族が消えてなくなる程
情報化されていない近未来
士郎正宗「攻殻機動隊」1頁 講談社

「GHOST IN THE SHELL」にしても「イノセンス」にしても、大まかなエピソード自体は、漫画を丁寧に使っているんだなぁ(いまさら)。


しかし、数年先を行っていた漫画の内容もすごいが、その際立った内容を、ああいう風に違和感なく一本にまとめた映画も、なるほど大したもんだ…………。

また映画が見たくなっちまったなぁ。


ちなみに「攻殻機動隊」関連の感想。
神山健治「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX The Laughing Man」おれがバカなのか?
押井守「イノセンス」竹中直人は、いろんな人に愛されているよなぁ


攻殻機動隊 (1) KCデラックス

講談社

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ジョン・アーヴィング「未亡人の一年(下)」

2005-10-16 08:40:10 | 雑感
人間万事塞翁が馬


「未亡人の一年」を読み終わりました。………と言っても、けっこう前に終わっていました。
が、感想を、どうまとめればいいのだろう? と考えているうちに、時間ばかり過ぎていく。
そして、時間が過ぎると、内容を忘れてしまう…………。

ちなみに、こちらが上巻の感想。
ジョン・アーヴィング「未亡人の一年(上)」しかし、この表紙はハーレクインロマンスみたいだ………


とりあえず、タイトルの由来から考えてみることにしました。
「未亡人の一年」。現代は「A WIDOW FOR ONE YEAR」だから、ほとんど直訳なのかな?

これが何を指しているかと言いますと、もちろん、ルースが最初の旦那アランを亡くしてから、ハリーに出会うまでの期間。

ルースは、その一年をこんなふうに表現しています。
 アランが死んでからまる一年経ったいま、自分が小説に書いた未亡人とまったく同じように、ルースが「いわゆる記憶の洪水に押し流されがちなのは、朝起きて隣で夫が死んでいたときと変わらなかった」。
ジョン・アーヴィング「未亡人の一年(下)」377~378頁 新潮文庫
この「記憶の洪水に押し流されがち」というのは、ルースのことを指しつつも、この物語のもう一人の女性主人公である彼女の母親マリアンの状態にも通じます。

マリアンが、二人の息子を事故で亡くしたことを思い出すと「石」になってしまうことが、まさしく「記憶の洪水に押し流され」た状態でしょう。


で、なぜ、娘のルースが一年で立ち直ることができたのに対して、母親が四十年もの間、そのことを引きずらなくてはいけなかったのか?

二人を対比している箇所として、こんな文章があります。ルースが、母親の小説に対して抱いた感想です。
 エディがマリアンの心理状態――または『マクダーミッド、引退する』を読んで想像できる心理状態――についてくよくよ考えていたとしたら、ルースのほうは母親の四作目にはがまんならず、軽蔑を感じていた(この作品では、哀しみが自己陶酔になってしまっているとルースは思った)。
ジョン・アーヴィング「未亡人の一年(下)」359頁 新潮文庫
単純な対比となってしまいますが、
  ・ルースは、過去を自己陶酔の対象とはしなかった。
  ・マリアンは、過去を自己陶酔の対象としてしまった。
ということになります。(少なくともルースは、そう考えたのではないでしょうか?)


が、悲しみの深さが違うのですから、自己陶酔の対象とすることで、その悲しみを乗り越えようとしていることを非難するのは、ちょっとかわいそうな気がします。

ルースの旦那は病死です。
それ比べて、マリアンは、二人の息子を惨たらしい事故で、一度に亡くしてしまいます。しかも、その事故は自分の見ている前で起こったことなのです。

悲しみから抜け出せなくなっても、仕方ないのでしょうが…………。


作者のジョン・アーヴィングは、悲しみ囚われた女性を、もう一人登場させています。怒れる未亡人です。彼女は、その当時、結婚すらしていなかったルースに、以下のような手紙を送っています。
「中絶や出産や養子縁組のことを書いておられますが、あなたは妊娠さえしたことがない。離婚した女や未亡人のことを書いておられますが、あなたは結婚さえしたことがない。いつ未亡人が世の中にもどったらいいか書いておられますが、一年だけの未亡人なんていません。わたしは死ぬまでずっと未亡人です!」
ジョン・アーヴィング「未亡人の一年(下)」81~82頁 新潮文庫
「一年だけの未亡人なんていません」と書いていますが、ルースは、一年だけの未亡人でしたし、この怒れる未亡人ですら「わたしは死ぬまでずっと未亡人です!」と断言していましたが、物語の終盤になって彼女も再婚して、幸せをつかんでいます。

「一年だけの未亡人」と「死ぬまでずっと未亡人」を分けたものは、なんだったか? これは、この未亡人自身が、手紙の中で書いています。
「ホラス・ウォルポールは書いています。『世界は考える者にとって喜劇であり、感じる者にとって悲劇である』でも、考えそして感じる者にとって、現実の世界は悲劇です。喜劇なのは幸運な人にとってだけです」
ジョン・アーヴィング「未亡人の一年(下)」82頁 新潮文庫
むごい話ですが、この「幸運」というものでしたか、人間の人生は、期待できないのかもしれません。

それは、後にハリーという理想的な再婚相手を見つけたルースも、感じています。
 ルースは自分が幸運だとわかっていた。つぎの本は運について書こうと考えた。幸運と不運が、すべての人に平等に分配されるわけではないということを書こう。生まれつきではないにしても、自分ではどうにもできない環境のなかで、そして、規則などないかのようにぶつかりあう出来事――どんな人にいつ出会い、そしてその大切な人がまた、いつほかの人に出会ったりするのか、あるいはしないのか――のなかで、幸運と不運はそれぞれの人にまちまちに振り分けられていく。
ジョン・アーヴィング「未亡人の一年(下)」470頁 新潮文庫
では、マリアンには、この幸運がなかったのだろうか? と考えると、それはエディなのかなぁ~?

三十七年ぶりの再会で、彼女はエディに向かって、こう言っています。
「そうね、あなたになら手伝ってもらえるわね。こんなに長いあいだ、あなたに助けてもらいたいと思ってたんだから」
ジョン・アーヴィング「未亡人の一年(下)」494頁 新潮文庫
じゃ、なんで、彼女は、もっと前に会いに行こうとしなかったのだろう? いや、それ以前に、なんで、彼女の人生の最後のときに、エディと再会しようとしたんだろう?

「そりゃ、小説なんだから、最後に再会させなきゃ!」

まぁ、そうなんだろうけど。それは、置いといて。

それでも、一応、理由を探そうとすると、マリアンはエディを試していた? エディが本当に自分がお婆さんになるまで自分を愛してくれるのだろうか? と。

で、なければ、自分の悲しみを分け合える男に成長するまで、待っていた?

はたまた、彼女が自分の悲しみを乗り越えるまで四十年必要だった?(「悲しみは伝染るのよ、エディ」(同書494頁)と言ってるしなぁ。この伝染を防ぐために、悲しみが癒えるまで敢えて距離を置いた?)

そんなとこかな? なんか釈然としないけど。


というか、ハリーの登場も、ちょっとご都合なんだよな。
性格的には立派な男なのに、どうして、五十を過ぎるまで独り者だったんだ? なんか、これも釈然としないんだよなぁ~。


まぁそんなこんなを差し置いても、おいしい小説であることは間違いないですけど。

映画も見たいのだが(ネットを見たところ、まぁまぁ好評だね)、こんな片田舎ではDVDになるのを待たないといけないようです。


未亡人の一年 (下)

新潮社

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塩野七生「ローマ人の物語 (21)」

2005-10-15 08:59:47 | 書評
庶民の知恵?


いろいろと不満を述べつつも、「ローマ人の物語 (21)」を読みました。

暴君ネロが死んで、一年の間に三人もの皇帝が次々に入れ替わると異常事態となったローマ帝国。
引っ切り無しに内乱が勃発し、戦火はついに首都ローマにまで広がるのですが………、以下、引用。
 反対にこの地以外で行われた市街戦を、歴史家タキトゥスは次のように描写する。

――首都の民衆は、この日の市内での戦闘を、競技場で闘われる剣闘士試合でも見物しているかのように観戦した。敢闘する者には拍手と歓声を浴びせ、苦戦する者にはもっと気を入れて闘えとヤジをとばしながら。劣勢に陥った側が店や家の中に逃げこもうものなら、引き出して殺せと要求するのは民衆のほうだった。それでいて民衆は、兵士たちが闘いに熱中しているのをよいことに、彼らの権利である戦利品はちゃっかりと横取りしていたのである。
 首都の全域で、忌わしくも嘆かわしい光景がくり広げられていた。兵士たちが激突し、死者が横たわり、負傷者が苦痛のうめき声をあげている一方で、公衆浴場や居酒屋は人でいっぱいだった。死体が折り重なり流れた血が川を成しているそばでは、娼婦たちが客と交渉していた。一方では、平和を満喫しながらの快楽。そのすぐそばでは、無惨にも引き立てられて行く敗残兵。要するにローマ全体が、狂気と堕落の街と化したかのようであったのだ。
 首都内での市街戦は、ローマの歴史ではこれがはじめてではない。スッラが二度、キンナが一度決行している。だが、あのときと今とのちがいは、徹底した民衆の無関心にあった。首都の民衆は、内乱の行方になどは関心がなかった。市街戦という見世物に、関心があっただけなのだ。それゆえに、ちょうどサトゥルヌス祭の休暇と時期を合わせたように起こった市街戦だったこともあって、祭日に供される見世物を愉しむのと同じに愉しんだのである。この人々にとって、ヴィテリウス側が勝つかそれともヴェスパシアヌス側が勝つかなどは、どうでもよいことであった。こうして首都の庶民は、国家にとっての災難すらも快楽に変えてしまったのである。――

 愛国者タキトゥスの慨嘆はわかる。しかし私には、ローマ人同士の市街戦を、競技場で闘われる剣闘士試合でもあるかのように観戦した庶民の反応のほうが、事態を正確に把握していたと思えてならない。たしかに、紀元六九年末の首都内での戦闘は、ローマ帝国にとっては災難であった。だが、民衆は察知していたのだ。意識はしなかったにせよ、どちらが勝とうと変わるのは皇帝の首だけであることを、彼らは知っていたのである。それに、何度も変わればそのうちに、自然に淘汰された結果にしろ、少しはマシな「首」が皇帝の座を占めるようになるであろうことも、庶民の智恵でわかっていたにちがいない。
塩野七生「ローマ人の物語 (21)」197~199頁 新潮文庫
「庶民の智恵でわかっていたにちがいない」というのが、ちょっと良く解釈し過ぎに思えますが、まぁ、分からんでもないです。

かなり前(まだ五十五年体制だったころ?)、ビートたけしが、
「投票率が低い、投票率が低いと騒いでいるけど、投票率が高い国なんて、やばい状態なんだから、それでいいんだよ」
と言っておりました。

「投票率が低いと言うことは、民主主義の放棄だ」
というのは建前ですが、ビートたけしの言っていることも、なかなか正鵠を射ているのではないかと。

確かに、投票率がベラボーに高い国って、初めて選挙が実施された国か、独裁国家だったりするもんなぁ~。

まぁ、そんなことを思い出した一説でした。


これまでの感想。
塩野七生「ローマ人の物語 (17)」まぁ面白いんだけどさ
塩野七生「ローマ人の物語 (18)」男の夢
塩野七生「ローマ人の物語 (19)」努力が報われないタイプ
塩野七生「ローマ人の物語 (20)」石原慎太郎が「これからの日本は、まだまだ良くなる!」と言っている姿を、ちょくちょく拝見するが、その根拠はどこから来るんだろうと不思議に思いつつも、ああまで自信たっぷりに発言することが大事なんだろうなぁと感じたりします。


ローマ人の物語 (21)

新潮社

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