すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

奇数が魅力的だということ

2007年10月17日 | 読書
 『反・鈍感力』(朝日新書)という浅井慎平氏の書いた本を読んでいたら、「奇数」について書かれた部分に興味を覚えた。

 ゲームというのは奇数で争うほうが面白い
 
という文に続いて、野球もバスケットも、サッカーもラクビーも1チームの人数が奇数であることが書かれている。バレーもかつては9人制だった。…そんなことは考えたことがなかったので、その当たり前のことが新鮮に感じた。

 なぜ奇数なのか、その点について詳細には言及されていないが、浅井氏はこう書いている。

 偶数のプレーヤーだとゲームがシンメトリックで美しいかもしれないけれども、変化が少ないものです。
 
 偶数の「偶」を辞典で調べてみると、「土偶」「木偶」がもとになっていることがわかる。二つずつ並べられたので、そこから「ならぶ」という意味をもった。
 「奇」は何かというと、「大きな曲刀を使って神に祈る」ことという。それから「ことなる」「あやしい」そして「ぬきんでる」という意味につながることがわかる。

 静的、動的な対比が感じられる。
 整っているものとはみ出たものという比べ方もあるだろう。
 様々な熟語を思い出してみても面白い。(「偶然・偶発」という奇に近い意味があることはわからないままだが)

 数奇という言葉があり、数寄者という言い方もある。これらも「奇数」と関わりを持つことがまた興味深い。浅井氏はこんな文も書いている。

 数寄って、片目だとか片足だとかそういうこと。女の人が眼帯なんかしていると妙に色っぽいことありますよね。

 人間には偶ではおさまらない何かが必ずあるのだと思う。
 そのはみ出た部分、くずれに面白さがあるし、それがいわゆる感性ということにつながるのだろう。

 個性という「傷」が魅力的だったりするのもそういうことかと気づいた。

球という形の偉大さ

2007年10月16日 | 教育ノート
 子どもたちのバスケの大会の様子を思い起こして取り上げた字ではあるが、よくよく考えると奥深い。
 私たちの手は、まるで球体をつかむために出来ているようだ。
 球体は、どんな面にあってもその流れのままに動く。
 球は、どの方向からみても同じ姿なのだが、空間の環境によって顔つきが変わってくる。
 …そんな詩のような考えも生まれる。
 みんな地球に生きている。


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 「王」と「求」の組み合わせですが、「王」は「玉」の意味を表しています。 「求」がキュウという発音を表し「中心に向けてひきしめる」という意味もあります。
 もともと求は「はぎとった獣の皮の形」であり、くるくると巻いて丸くできるので「丸」とつながったということです。

 「一球入魂」という言葉がありますが、実は球の「たま」という読み方は「霊(たましい)」と語源が同じであり、球そのものに霊が乗り移るという考えも昔からされてきました。

 様々な道具やモノに心を込めることは世の常です。
 しかしそのなかでも、一つのボールの行方を追うスポーツ競技に多くの人が熱中するわけは、やはり球という形の偉大さなのかもしれません。
(10/16)
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脱・自動販売機の人

2007年10月15日 | 読書
 養老孟司氏が「こんな日本人もいる」というその人は、今ラオスに住んでいる。
 若原弘之さんは、幼い頃から蝶を採ることを一番に優先してきた人である。

その半生については、季刊誌『考える人 №22』(新潮社)に詳しい。

 取材した編集部が、若原さんに「日本人をどう思うか」と尋ねた。
 即座に返ってきた答がこれである。

 「自動販売機」。その心は「なにを押しても決まったものが出てくる」
 
 二通りの解釈ができるのではないかと思った。
 一つは、日本人全体がステレオタイプになっていること。
 もう一つは個人として見た場合、入力→出力はそこそこ行っているが、その中はブラックボックス化していること。

 この二つはもちろん互いに関連を持っているが、自己点検の意味で後者がより強く響いてきた。

 仕事であっても娯楽であっても、私たちはブラックボックス化に慣れきっている。また社会もそれを要求している傾向が強いのではないか。
 この問題をどう考えればいいのか、どう処理していくか…様々な考えはどうあれ、すでに結論は準備されていて、それに近いものしか認められない。
 そうしたパターンをくりかえすと、自分自身の思考回路が機能不全に陥ることは明らかだ。

 構造をしっかり把握し、存分に機能を働かせれば、出力はもっと個人的なものになってゆくのではないか。
 自分の機能と構造を見つめ直す必要がある。

ソンナノ カンケイ ネェ

2007年10月14日 | 雑記帳
 今、小学生に一番流行っているのは、小島義雄かと思う。

「ソンナノ カンケイ ネェ!」

 ハダカ系芸人の一人、いや海パン芸人というジャンル?か。
 ギャグの収めとしての「オッパッピー」という言葉もだいぶうけている。
 他にも様々な要素があるが、なんといっても「ソンナノ カンケイ ネェ」を激しい動作で繰り返すところが中心だ。

 なぜ子どもたちに(いや大人まで)フィットしたか。

 「そんなの関係ねぇ」という言葉の持つ拒絶
 それを激しくリズミック唱えることによって少し薄まる意味
 しかも、裸体に近いというビジュアルを使うことによって軽薄さや意外性を強調し、視聴者にかすかに優越感を抱かせている、か…

 少し遡って、こうした「決め文句芸人」を見てみる。

「チックショー」の小梅太夫
「残念!」の波田陽区
「ヒロシです」のヒロシ

 ブチギレ系、自虐系といっていいだろうか。このあたりの言葉には、それなりの怒りや悲しみが表現されているのだが(まあ、そう感じるかは別にして)、小嶋義雄は言葉の意味としてそれを見せない。
 もちろん、拒絶による怒り、悲しみの表現ということも含まれるのだろうが、それ以上にポジティブに次のネタに移っていく要素があるようだ。
 ネタの流れで決めていくというより、時間で区切られ次に移るという組み立て方に見える。

「ソンナノ カンケイ ネェ」

 それが、最近の明るい!子どもたちにうけているということか。
かつて中高生が親に対して放つ「関係ねえだろっ」ほどの切実さ?がないところがまた不気味だ。
 失敗しても「ソンナノ カンケイ ネェ」
 おこられても「ソンナノ カンケイ ネェ」
 誰かが困っていても「ソンナノ カンケイ ネェ」

 その一言で済むほど世の中も学校も甘くはないんだよ。
 全て関係しているんだ。
「ジュウブン カンケイ アル」(リズムにのらないな)と言い返したい。

 しばらくすれば、またそれも過去の人とは思うが…

「ソンナノ カンケイ ネェ」

大切なのは骨を豊かにすること

2007年10月11日 | 教育ノート
 外見からその核を見抜く力を養いたいものだ。それを骨と言換えてもいい。
 ここに書いた人や組織ということだけでなく、例えば授業についてもそれは言えるだろう…などと思考が拡がってしまった「旧体育の日」でした。


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 「体」は二年生で習う基本的な漢字ですが、ものの形から成った字などではなく俗字(正字ではないが世間で使われている字)の一つです。
 正字は「體」。「骨」と「豊」が組み合わせられた漢字です。
 「豊」にはきちんと並べるという意味があり、いろいろな骨が並んでまとまっている人のからだを表しているわけです。体が丈夫だということは、いかに骨が豊かであるかを表しているような気もします。

 さて、国体で盛り上がった本県もようやく落ち着いたようです。多くの活躍は間違いなく思い出に残りましたが、ある意味でそれらが本県にとっての「骨」を豊かにしたことだと信じたいものです。
 人でも組織でもからだ作りはそこから始まります。
(10/10)
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「個性を伸ばす教育」の先

2007年10月10日 | 読書
 「個性は、いいものか」と問われたら何と答えるだろう。

 現実にはそんな唐突な問い立てがあるわけもないのだろうが、多くの人は「いい」と口にするだろう。
 「個性的」という形容詞は、ユニークとか独創的という価値のある響きにつながっている。
 私たち現場の教員であっても、やや揶揄めいた言辞の場合もあるが、普通であれば「個性的」は肯定的な評価となるだろう。

 『いま私たちが考えるべきこと』(橋本治著 新潮文庫)の第11章は、このように見出しがつけられている。

 「個性」とは哀しいものである。

 橋本氏は次のようにも書いている。

 個性とは傷である。

 「一般的なものからはみ出したもの」という考えからすると、その表現は誤りとは言えない。
 「ブス」という言葉を例に文章が続いているのだが、まさしくその通りという論理が展開されている。

 「個性」に対して幻想を抱いていることを、ずばりと指摘されたような文章である。
 辞書的な意味はともかく、橋本氏の次の文に対しても確かに納得がいくではないか。

 人間の出合う個性とは、「自分とは違う質の他人が持っている、自分には理解できないへんな部分」である。

 「へんな」という箇所は、「りっばな」とか「秀でた」とはならない。そう言換えられる人を「個性的」とは普通言わないからだ。
 ここに一般性が「達成」するのか、「破綻」するのかの分かれ道があるようだ。

 何を言いたいのか。
 「個性を伸ばす教育」のことである。学校(文科省?)は一般性の設定を緩くすることによって、個性が育つような考えで進んでいる傾向があるが、一般性を強くすることによって「傷」が生じるわけだし、その破綻が個性となるわけだからどうしてもそこには矛盾が生じる。
 今進んでいる道は、結局差異は生じさせても個性には結びつかないということになる。

 どこまでも、ユルユルの道ではないか。
 そこで育った「差異化」を、橋本氏はこんなふうに斬りすてる。

 ただ「いい加減に育った結果のいびつ」ばかりが増える。


頭を巡る身体の問題

2007年10月09日 | 読書
 『私の身体は頭がいい』(内田樹著 文春文庫)を読む。

 どちらかというと私は「余暇に武道を稽古している大学教師」というよりは「生活のために大学教師をしている武道家」なのである。

と自らを称し、しかも
 私は武道家としてはたいへん凡庸な人間である。「三流の武道家」と言ってもまだ詐称に近いであろう。

という。しかし
 何が「ほんもの」であるかを見きわめる批評性は備わっていると信じている。

と書いたその「批評性」を私自身どの程度読みとれたかあまり自信はない。

 この文庫は当然「武道」そのものが対象となっている記述が大半であり、正直意味を捉えきれない言葉が多く出てくる。しかし、学術的論文ばかりではなくエッセイ風の文章もあるので繰り返されていることが多く、氏の言いたいことの輪郭はぼんやり見えた気もする。

 一番興味深く読んだのは、「身体の感受性を育む体育」という章。『こどもと体育』誌への寄稿らしい。仕事柄どうしてもそこに目が向く。
 ここでは、学校体育が歩んだ歴史が内田氏の眼によって記述されている。

 敗戦後の「強兵」的要素を排除するために、関係者はどう意味づけをしようとしたのか。
 こうある。

 「金銭」と「成績」という現実的利益を介在させることで、学校体育は学校の中に踏みとどまることができた。
 身体能力を高めると、自己利益を増加させることができる。
 
 この達見には深く考えさせられる。
 自分が実践してきた「体育」を振り返ったとき、いくつかのポイントがあるが、それがどのような位置づけなのか、少し見えてくる気もする。

 ここ三十年近く、体育の学習ではいわゆる「めあて」という言葉がかなり重要視されている。その「めあて」の言葉を歴史的な背景と照らし合わせてみるとき何が浮かび上がってくるか、真摯に振り返ればいかに現実に埋没してきたかがわかると言えよう。自分は、どんなめあてを作らせ、何を教え、どう評価してきたのか…。

 つまり、体育における学力観の問題か。
 深いところへきてしまった気もするが、要は書名にそっていうと「頭のいい身体をつくる」ということに尽きるか。
 ではそれはどんなものだ、と問いかけは続く。
 もう一度ページをめくってみなくては、という気になっている。

子どもを家畜と言う覚悟

2007年10月06日 | 読書
 『子ども家畜論』(小川義男著 祥伝社)

 なんとも強烈な書名である。

 著者でさえ、前書きにこう記す。

 我ながらおぞましいタイトルである。

 なぜ「家畜」という言葉を使うかは、表紙裏にも載っているしネット上の紹介文にもある。しかしどんな思いであるかは、私には次の文章の方がより伝わってきた。

 愛し、かわいがることはたやすい。しかし、妥協することなく怒り、叱るのは難しい。それこそ、子どもを「家畜」だとあえて思わなければ、厳しい「躾」はなかなかできないであろう。

 そうした覚悟や決意の滲む書名と言っていいだろう。
 小川氏は現在私立高校校長職にあるが、それ以前に小学校教諭、校長の経験を持っている。
 その当時の自らの体験も織り交ぜながら展開するいわゆる硬派の教育論は、明快な文章で筋もぴしっとしている。
 体罰のこと、茶髪等の校則のことといった実際の教育営為から、義務教育制度の問題そして民営化、評価という政治や世相のことまで、幅広く取り上げられているが主張は一貫している。


 「やるべきことをやりたいと感じ、やるべからざることをやりたいと思わない人間に育て上げる」ことこそ、教育本来の使命なのである。

 この言葉一つとっても、「児童中心主義の教育」とはっきり対峙していることがわかる。現在の弱腰の教育について堂々と警告している。しかし、それは具体的な場面ではけして冷たいものではなく、しっかりとした指導理念に基づいて為されるべきと考えていることは明らかだ。だからこんな一言もある。

 小学校の教師は、かまってあげる専門家でなければならない。

 小川氏が取り上げた言葉の中に「発達段階に応じた教育」がある。教育書にある文言としてはごく普通であろうが、考えれば考えるほど重い意味を持つように思う。
 私にとっても「発達段階」は、教育を考えるうえでのこだわりの一つであった。ある先生の講義で印象づけられ、それを取り掛かりにしながら「教育相談」の講座を初級・中級・上級まで数年間かけて受講したときもある。
 しかし、そのことが自分の実践にどのように生かされてきたか、甚だ自信がない。断片的にそれらの知識を現実場面と結びつけようとしたことが確かにあったが、散らばったままである。もう一度掬いあげる必要を強く感じた。

 それにしても「子どもは家畜のように育てる」と言い切れるためには、半端な知識では駄目であり、知識を現実と重ね合わせ明確に作り上げた信念が必要だ。
 小川氏の言う「服従する心」と、「盲目的な追従心」や「スパルタ教育」との違いについてはっきりと自分の言葉で語ることができなければ、そして実際の場面に照らして行動化できなければ、安易にその強い主張に依るべきではない。自分に問いかける厳しさを持てなくては、この実践は汲み取れない。

 「伝わるのはエネルギー」…数年前から自分の中で確信めいた響きを持つ言葉である。今回の本もまさしくそうだ。。
 担任した子どもの首が曲がるほどのビンタや校長室での子どもへの五、六発の蹴り飛ばし…小川氏がそうしたエピソードで伝えたいのは、懲戒の効果や仕方ではなく、その行動を支えるエネルギーなのだと思う。

実がつまっている字

2007年10月05日 | 教育ノート
 「今日の一字」と銘うって始めたコーナーも20字目。調べ始めるとどうしても旧字体のことが多くなるわけだが、改めて漢字の魅力を感じる。
 この「實」も、「家」と「ゆきわたる」と「財宝」に分けられるという実に豊かな意味が込められているわけで、まさに「実がつまっている」印象をうける字である。
 現在の字体の軽やかさもいいが、旧字体の重厚感に惹かれるなあ。


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 「実」のもともとの字は「實」。つまり「うかんむり」に「貫」です。
 うかんむりは家、屋根を表し、貫はたくさんの物や貝(お金、宝の意味)がつまっているという意味です。
 従って「家の中に宝物がいっぱいに満ちたようす」を表した字が「実」です。「充実」「果実」「誠実」など熟語を並べると「みちる」という意味がよく伝わってきます。

 さて、実りの秋。稲刈りも順調に進み、収穫の安堵感が地域全体に広がっているようです。
 子供たちもこの後の各活動や発表会等で思う存分力を発揮してくれるでしょう。
 しかし「できる、わかる」を表面だけでとらえず、「実の入った力」に高められるようしっかり見取っていきたいと改めて思う10月です。
(10/3)
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「心」と「技能」の往復運動

2007年10月03日 | 教育ノート
 来週行う授業研究会の指導案検討を昨日したのだが、そこでも「内容」と「形式」という話題が出てきた。
 結局、ねらいが絞られているかということに尽きるのだが、その絞り方は大きなとらえの中で行われなければならない。こうやって考えていくと、指導者自身が指導事項をどう組み立てていくかという問題になっていく。
 子どもたちに対する現実で考えることはもちろん大切だが、机上でもじっくりと考えない限り、組み立てはできないことだ。
 そう思いながら、9/21セミナーのまとめを読み返してみる。


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 講話で「聞くこと・話すこと」指導についてのキーワードをいくつか紹介していただいたが、最終的に心構えや態度の問題を抜きには考えられない。

 「注目」という最初のキーワードは、「目は心の窓である」という考え方をしっかりと教え、日頃からその点に配慮された指導があればこそ、その一言で子どもの視線が集まり、背筋が伸びることにつながるのである。

 発達段階に応じて、形式面に力点を置くことは十分考えられるが、そうした型等を身につけることが、最終的に相手を尊重する、自らの成長に資することになるのだという点を随時指導し、内面との整合性を図るべきである。

 五つの言語意識にそった表現も、相手との伝え合いによって得た充実感や満足感、学びなどを技能との関わりで振り返ってみることで、そのよさに気づき、真の技能となって身についていくのではないか。

 話の受け答えの上達という質問もあったが、それは表現力のみを問題にして解決できることではなく、理解力や思考力が基盤にあるということも忘れてはならない。この点においても複層的な見方、指導が要求されている。

 心も技能も「多少の無理を強いる場面」がなければ、強くはならないし、上達もしていかないだろう。昨今の児童の実状は、日常的にそうした場面を設けていくことに困難を感じさせるときがある。だからこそ、そのあたりに教師の一番の工夫が求められるのではないか。
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