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そのコメントの暴力性を想う

2021年08月18日 | 雑記帳
 (昨日から続く)しかし、肝心なのは楽観に到る団結をどのように構築していくかであることは自明の理だ。今回の五輪をめぐる様々な問題をみても、道遠しの感は否めない。日本人の勝利を単純に喜ぶ自他の姿を客観視できることを手がかりにしながら、感覚を研ぎ澄まして地道に情報を拾い、道を定めていきたい。


 Aeraに載った斎藤幸平氏の「東京五輪失敗の根本原因はコロナではない」という論考を読んだ。招聘問題から一定のことは知っていたし全体像は掴みやすかった。華やかな準備は「五輪のための開発ではなく開発のための五輪」に見えるし、利権を得る者のための犠牲は多い。「祝賀資本主義」とは、言い得て妙だ。


 多様性がクローズアップされた五輪、競技結果以外の個別エピソードに目を留めることができただろうか。自分の認識は足りなかった。サッカーの南アフリカ選手のコロナ感染が報道された時、対戦相手だった日本チームにコメントが求められ、その状況を「自分たちには得でしかない」と語ったのはスター選手だった。



 この発言が「勝利至上主義の典型」であり、「スポーツマンシップ精神」と相容れないことは、少し考えれば容易にわかるはずだが、大きく取り上げられない。いかに競争型社会に毒されているかの証明でもある。華やかな活躍ばかりが脚光を浴びるように仕組まれて、大会全体の暴力性は薄められて、見えづらくなる。


 「暴力性」とは、市場社会の交換価値を高める行為の究極かもしれない。結局は弱い者からの搾取か。様々なイベント、大会に潜むと自覚したい。もちろんスポーツの意義もアスリートの価値も認め、尊重する。ただ、メダルを取れずにピッチで号泣した選手は、何が満たされないのかを自らに問いかけただろうか。


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