土曜朝、雨が降っている。今日の小学校運動会はやはり順延だな…と思っていた午前六時ちょうど、バーンババーンと花火の音が響く。えっ、えっと思わず声を上げたが、ああとすぐに気づく。「今日5月10日、火防地蔵さんのお祭りだな」と家人に知らせる。ほどなく娘から順延を知らせるメールが転送されてきた。
2025.4.30 小学校グラウンドに花散らしの雨が降った
教職経験者として40年近くこの時期のこの行事、判断の悩ましさを経験しているので、先生方がどんな心境は容易に想像できる。自分もいろいろな思い出があったなあ。しかし、立場が変われば、運動会そのものを見る目は全く違っていて人間とは勝手なものだなあと、つくづく思い知る。何事も都合よく解釈する。
2025.5.3 土手並木の八重桜が見頃を迎えた
先日観た映画『花まんま』にもそんな場面があった。クライマックスの結婚式で、主人公である兄がスピーチをした時だ。自分がどれほど妹のために頑張ったかを熱く語るが、そのうち捻じ曲げられた記憶もあると気づき、周囲の方々への感謝を口にした。「出来事」の記憶を手繰り寄せてみることは、無意味ではない。
2025.5.8 自宅の花水木が盛りに近づいた。
忘却がなければ人間は生きていけない。ただどうしても忘れられない記憶もある。今日はある縁者の命日。大勢の人に囲まれ、周囲を愉快にさせた人物だ。その死は、多くの人が驚きを持って受け止めたはずだ。あれから三年が経つ。関わり合った出来事の大半が温かく満ちていたことを思い出すと、また寂しくなる。
2025.5.9 孫たちと出向いた公園では、ぽつぽつと様々な木々が花を咲かせていた。
いつもより「桜日記」アップが順調だった春。観るチャンスも多かった。その分だけ、散った姿に余計に無情を感じるのか。上述の映画ではツツジが印象的な役割を果たしていた。人は花を見入り、和み癒され、名残りを惜しむ。そして人は世を去り行く時、花に囲まれ、見送られる…人も花も、名前だけが残される。
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