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散読な再読で思い知る

2022年06月07日 | 読書
 「散読」などという語はない。「読み散らす」という意味で使おうとしたが、それだったら「手当たり次第にたくさんの本を…」となり、そうたくさんではないし、まあ「散漫な」この頃の状況に当てはまっているのでヨシとするか。かえってギリギリ心に残っていく一節やら考えやらが拾えるのかもしれないなどと…。


 『三省堂国語辞典のひみつ』(飯間浩明 新潮文庫)。著者が脚光を浴びた頃読んだ。今回、再び開いたのはドラマ「持続可能な恋ですか」で主人公の父親が辞書編纂者という設定で、勤め先が三省堂そのままになっており、多少そうした場面もあったので、また興味が湧いた。新語を拾う醍醐味に共感する自分がいる。


 若者ことばの代表格「やばい」の項で思い出す。プラスの意味としての「やばい」は、心を揺らす状況に対する警戒感が底にある。40年以上も前のシラケ世代から拡がっていた無関心、無感動に染まっていた個人が、心動かすことに対しても素直に成れず、茶化した表現をとるのではないか。新語誕生の源流は心理だ。



 茂木健一郎が書いた『笑う脳』(アスキー新書)。読んだはずと思いながら、古本屋でカゴの中へ。やっぱりと気づいたのは「閑話休題」と称したブログ記事を見たときだ。「空き地連盟」。これはジョギング中に見かけた愉快な看板の話題だ。私有地を出入り自由とし子供達にも積極的に遊んでほしい旨が書かれている。


 その土地で子供達が遊びだした様子、使い方が決まった後の展望などが愉快に語られている。しかし、実はこの文章は「4月1日」の記事で著者の創作であると、後半に明かされる。同様の趣向で四編も掲載している。エイプリルフール設定で書かれた「嘘」が一番胸に残るとは、干からびた想像力に水が欲しいのか。


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