巨大ポンプ車「大キリン」を無償提供 原発事故の危機的状況を救った中国企業 #知り続ける
3/7(木) 11:04配信
福島中央テレビ
あまり知られていない、あるいは忘れられてしまった重要な事実がある。約13年前に起きた福島第一原発の事故で最大の危機とされたのは水素爆発や漏れ出た放射性物質による被ばくではなく、4号機の核燃料を保管するプールだった。プールの水が干上がれば1535体の核燃料が溶けだし、膨大な量の放射性物質が人々が暮らす環境中に放出され、東日本に人が住めなくなると予測された。その危機を食い止め、暴走する原発を安定化させるに至った背景には、ある中国企業の「善意」があった。
胸に刻んで13年 #知り続ける
死と隣り合わせの現場…「何かできないか」中国出身男性の思い
2011年3月23日に上空から撮影された福島第一原発の原子炉建屋
その光景は現場で事故収束作業にあたった人たちの脳裏に今もこびりついている。2011年の3月12日と14日、15日に起きた福島第一原発の水素爆発。吹き飛ばされた無数のコンクリート片が地上に砕け落ち、大量の放射性物質が周囲に撒き散らされた。死と隣り合わせの状況下で、原子炉建屋のすぐ傍にいた作業員や自衛官たちは「まるで戦場のようだった」と語る。
「ものすごい音がして、何かが吹っ飛んできて建物のガラスとかも一気に壊れて…」。
「人の頭ほどのコンクリートが空から降ってくる、あたったら死ぬと思った」。
「(爆発は)響く音でした。そして放射能を含んだ煙が迫ってきて、被ばくしないために、みんなで一斉に車の中に逃げて…息を殺して煙が通り過ぎるのを待って…」。
汚染された無数のガレキが散乱する現場では作業員らが被ばくを覚悟で作業にあたった。1、2、3号機では核燃料が溶けるメルトダウンが起き、消防ポンプ車による懸命の冷却が行われていた。
都内の会社事務所のテレビの前で、この状況を固唾をのんで見守っていたのが、建設機械の販売会社の社長で、中国出身の龍潤生(りゅう・じゅんせい)さん。「何か自分にできることは…」と強く感じたという。
「1993年に日本に留学してから大学院修了まで、学校やアルバイト先などで多くの日本人に親切にしてもらった。『一滴の水をもらったら、できるときはバケツで返す』と親から教えてもらっていたから、日本を救いたいという気持ちだった」。
東日本壊滅の危機…「(費用は)いくらでもいいから、持ってきて」
自衛隊ヘリによる上空からの注水を決行したが…
この時、最大の危機とされたのは核燃料プールだった。1号機には392体、2号機には615体、3号機には566体、そして4号機には1535体もの核燃料が高さ50メートルある原子炉建屋の最上階のプールの中に保管されていた。特に4号機の発熱量は大きく、14日の午前4時ごろのプールの温度は84℃にまで上昇していた。プールに注水することができなければ、3月下旬には水位が下がり燃料が露出する恐れがあった。水が干上がれば膨大な量の放射性物質が環境中に放出され、東日本に人が住めないほど汚染されると予測された。
3月17日から自衛隊はヘリによる上空からの注水を決行したが、プールにピンポイントに入れることはできなかった。東京消防庁による放水でなんとか状況の悪化を食い止めていたが、効果的な一手を打てない状況だった。
「水をいれるなら私たちの専門分野だ」
龍さんは、自身が販売代理店を務める中国の建設機械企業・三一重工(SANY)が高層ビルの建設などで使用される世界一長い62メートルのアームを持つコンクリートポンプ車を製造していたことを思い出す。すぐさま、東京電力に電話すると、担当者は興奮気味に即答した。
「もう(費用は)いくらでもいいから、持ってきてください、すぐに!」
日本に「販売」しない 会長の決断
建設現場で活躍する三一重工(SANY)の巨大ポンプ車
龍さんは、この巨大ポンプ車を製造した三一重工の梁穏根会長に連絡を入れ、日本に運びたいと提案した。すると、梁会長の反応は予想を上回るものだった。
「(巨大ポンプ車を)日本に販売してはいけません。利益はいらない。寄付しましょう。こういう時はみんな助け合いです。技術的なサポートも提供しましょう」。
巨大ポンプ車の販売価格は約1億5000万円。すでにドイツの企業への販売が決まっていて、上海の港で出荷待ちの状態だった。ドイツ企業の快諾もあり、すぐに日本に向け出発した。しかし、大型機械の輸送は通常なら通関の手続きなどで数週間、場合によっては数ヶ月かかってしまう。
「1分1秒の争い」“善意”から広がった助け合いの輪
パトカーに護送される三一重工の巨大ポンプ車
刻一刻と迫る危機。龍さんは、三一重工の社員などとチームを組み。最短で巨大ポンプ車を日本へ運ぶ作戦を考えた。
「政府対政府だと時間がかかる。一番早いルートは赤十字だ」。
巨大ポンプ車を日本赤十字に渡るよう手配し、空きがあった船や港を抑え、上海港出発からわずか2日で大阪の港に届けた。
「1分1秒の争い、そんな緊迫感の中でやっていた」。
龍さんは事前に関係各所との協議を済ませ、巨大ポンプ車は日本に上陸した後、パトカーによる先導と護衛の下、運ばれた。
巨大ポンプ車は千葉県野田市に到着し、そこで2日間、三一重工の技術者が東京電力の社員に遠隔での操作方法などを教えた。ここにくるまで、龍さんをはじめ、三一重工、港や千葉県での訓練土地を確保した大阪や東京の企業など日中の様々な立場の人たちが関わっていた。国境を越えて、立ちはだかる巨大な危機を前に、手を取り合った。
「宝物」の経験…日本を救ったのは中国企業の“善意”
当時の事を思い返す龍さん
3月下旬、他社の大型コンクリートポンプ車も第一原発に続々と集結し、核燃料プールへの注水作業が開始された。龍さんらが手配した巨大ポンプ車も3月31日から注水作業に加わった。62メートルのアームが空に向かって伸ばされると、アームの先に放水口が悠々と原子炉建屋の頭上を超えていった。真上からトン単位という大量の水がピンポイントで燃料プールに注がれた。直後、東京電力から「冷却できました!ありがとう!!」と感謝の報告を受け、龍さんと仲間たちは歓声をあげて喜んだという。
「嬉しくて、全員嬉しかった。社会の役に立ったことはいまでも宝物」。
この注水作業によって危機は食い止められ、暴走する原発は安定化へ向かった。龍さんのアイディアからわずか1週間ほどの出来事だった。東日本壊滅の危機を回避できた背景には、一人の善意から広まった助け合いがあった。大活躍を果たした巨大ポンプ車はその後、「大キリン」という愛称をつけられ、今も非常時に備え、福島第一原発の構内にある。龍さんの会社は今も定期的に部品の交換やメンテナンス作業を無償で続けている。
「対話が足りない」始まる処理水の放出、深まる日中関係の溝
福島第一原発から海洋放出される「処理水」
あの日の危機からまもなく13年。今、日本と中国は大きな問題を抱えている。去年8月、日本政府と東京電力は第一原発に溜まり続けていた「処理水」の海への放出を開始した。放出される処理水は汚染水を浄化後、国の安全基準値の40分の1に海水で薄めたものだ。日本政府は安全と言うが、中国政府は処理水を「核汚染水」と表現し、猛抗議した。さらに、日本からの水産物を全面的に禁輸する措置を打ち出し、日中関係に大きな亀裂が入った。
「本来であればお互いに大切な国家のはずです」
龍さんも今の日中関係を危機的だと感じている。禁輸措置は日本で水産業などを営む人に、中国国内で日本食店を展開する人にも、大きな影響を与える。しかし、科学的に安全と説明する日本政府の姿勢には疑問も残る。
「普通なら、なぜ十数年溜めたのに今放出するのか、影響がないならなぜ今まで放出しなかったのかと思われる。政府の決定プロセスはもちろんあるが、国が違えば、関心や得られる情報量は当然変わる。日本でずっと生活しているからこそ納得できたこともある」。
その上で、龍さんは国際的に理解を深めていくためには継続的な対話が欠かせないという。まずは、その対話を始められるきっかけを見出すことが日中両政府に求められているのかもしれない。
「処理水について正しく海外に理解してもらうためには、もっと国家間の会話と説明が必要。お互いの相互理解と助け合いが大事。国と国、あるいは国民と国民の相互理解が深まっていけば、友好にもつながっていく」。
コロナ禍を経て、世界中で人と人との交流が再び始まっている。立ちはだかる国家間の壁に、「善意」の輪が再び広がることを期待したい。
※この記事は福島中央テレビとYahoo!ニュースによる共同連携企画です。
福島中央テレビ
3/7(木) 11:04配信
福島中央テレビ
あまり知られていない、あるいは忘れられてしまった重要な事実がある。約13年前に起きた福島第一原発の事故で最大の危機とされたのは水素爆発や漏れ出た放射性物質による被ばくではなく、4号機の核燃料を保管するプールだった。プールの水が干上がれば1535体の核燃料が溶けだし、膨大な量の放射性物質が人々が暮らす環境中に放出され、東日本に人が住めなくなると予測された。その危機を食い止め、暴走する原発を安定化させるに至った背景には、ある中国企業の「善意」があった。
胸に刻んで13年 #知り続ける
死と隣り合わせの現場…「何かできないか」中国出身男性の思い
2011年3月23日に上空から撮影された福島第一原発の原子炉建屋
その光景は現場で事故収束作業にあたった人たちの脳裏に今もこびりついている。2011年の3月12日と14日、15日に起きた福島第一原発の水素爆発。吹き飛ばされた無数のコンクリート片が地上に砕け落ち、大量の放射性物質が周囲に撒き散らされた。死と隣り合わせの状況下で、原子炉建屋のすぐ傍にいた作業員や自衛官たちは「まるで戦場のようだった」と語る。
「ものすごい音がして、何かが吹っ飛んできて建物のガラスとかも一気に壊れて…」。
「人の頭ほどのコンクリートが空から降ってくる、あたったら死ぬと思った」。
「(爆発は)響く音でした。そして放射能を含んだ煙が迫ってきて、被ばくしないために、みんなで一斉に車の中に逃げて…息を殺して煙が通り過ぎるのを待って…」。
汚染された無数のガレキが散乱する現場では作業員らが被ばくを覚悟で作業にあたった。1、2、3号機では核燃料が溶けるメルトダウンが起き、消防ポンプ車による懸命の冷却が行われていた。
都内の会社事務所のテレビの前で、この状況を固唾をのんで見守っていたのが、建設機械の販売会社の社長で、中国出身の龍潤生(りゅう・じゅんせい)さん。「何か自分にできることは…」と強く感じたという。
「1993年に日本に留学してから大学院修了まで、学校やアルバイト先などで多くの日本人に親切にしてもらった。『一滴の水をもらったら、できるときはバケツで返す』と親から教えてもらっていたから、日本を救いたいという気持ちだった」。
東日本壊滅の危機…「(費用は)いくらでもいいから、持ってきて」
自衛隊ヘリによる上空からの注水を決行したが…
この時、最大の危機とされたのは核燃料プールだった。1号機には392体、2号機には615体、3号機には566体、そして4号機には1535体もの核燃料が高さ50メートルある原子炉建屋の最上階のプールの中に保管されていた。特に4号機の発熱量は大きく、14日の午前4時ごろのプールの温度は84℃にまで上昇していた。プールに注水することができなければ、3月下旬には水位が下がり燃料が露出する恐れがあった。水が干上がれば膨大な量の放射性物質が環境中に放出され、東日本に人が住めないほど汚染されると予測された。
3月17日から自衛隊はヘリによる上空からの注水を決行したが、プールにピンポイントに入れることはできなかった。東京消防庁による放水でなんとか状況の悪化を食い止めていたが、効果的な一手を打てない状況だった。
「水をいれるなら私たちの専門分野だ」
龍さんは、自身が販売代理店を務める中国の建設機械企業・三一重工(SANY)が高層ビルの建設などで使用される世界一長い62メートルのアームを持つコンクリートポンプ車を製造していたことを思い出す。すぐさま、東京電力に電話すると、担当者は興奮気味に即答した。
「もう(費用は)いくらでもいいから、持ってきてください、すぐに!」
日本に「販売」しない 会長の決断
建設現場で活躍する三一重工(SANY)の巨大ポンプ車
龍さんは、この巨大ポンプ車を製造した三一重工の梁穏根会長に連絡を入れ、日本に運びたいと提案した。すると、梁会長の反応は予想を上回るものだった。
「(巨大ポンプ車を)日本に販売してはいけません。利益はいらない。寄付しましょう。こういう時はみんな助け合いです。技術的なサポートも提供しましょう」。
巨大ポンプ車の販売価格は約1億5000万円。すでにドイツの企業への販売が決まっていて、上海の港で出荷待ちの状態だった。ドイツ企業の快諾もあり、すぐに日本に向け出発した。しかし、大型機械の輸送は通常なら通関の手続きなどで数週間、場合によっては数ヶ月かかってしまう。
「1分1秒の争い」“善意”から広がった助け合いの輪
パトカーに護送される三一重工の巨大ポンプ車
刻一刻と迫る危機。龍さんは、三一重工の社員などとチームを組み。最短で巨大ポンプ車を日本へ運ぶ作戦を考えた。
「政府対政府だと時間がかかる。一番早いルートは赤十字だ」。
巨大ポンプ車を日本赤十字に渡るよう手配し、空きがあった船や港を抑え、上海港出発からわずか2日で大阪の港に届けた。
「1分1秒の争い、そんな緊迫感の中でやっていた」。
龍さんは事前に関係各所との協議を済ませ、巨大ポンプ車は日本に上陸した後、パトカーによる先導と護衛の下、運ばれた。
巨大ポンプ車は千葉県野田市に到着し、そこで2日間、三一重工の技術者が東京電力の社員に遠隔での操作方法などを教えた。ここにくるまで、龍さんをはじめ、三一重工、港や千葉県での訓練土地を確保した大阪や東京の企業など日中の様々な立場の人たちが関わっていた。国境を越えて、立ちはだかる巨大な危機を前に、手を取り合った。
「宝物」の経験…日本を救ったのは中国企業の“善意”
当時の事を思い返す龍さん
3月下旬、他社の大型コンクリートポンプ車も第一原発に続々と集結し、核燃料プールへの注水作業が開始された。龍さんらが手配した巨大ポンプ車も3月31日から注水作業に加わった。62メートルのアームが空に向かって伸ばされると、アームの先に放水口が悠々と原子炉建屋の頭上を超えていった。真上からトン単位という大量の水がピンポイントで燃料プールに注がれた。直後、東京電力から「冷却できました!ありがとう!!」と感謝の報告を受け、龍さんと仲間たちは歓声をあげて喜んだという。
「嬉しくて、全員嬉しかった。社会の役に立ったことはいまでも宝物」。
この注水作業によって危機は食い止められ、暴走する原発は安定化へ向かった。龍さんのアイディアからわずか1週間ほどの出来事だった。東日本壊滅の危機を回避できた背景には、一人の善意から広まった助け合いがあった。大活躍を果たした巨大ポンプ車はその後、「大キリン」という愛称をつけられ、今も非常時に備え、福島第一原発の構内にある。龍さんの会社は今も定期的に部品の交換やメンテナンス作業を無償で続けている。
「対話が足りない」始まる処理水の放出、深まる日中関係の溝
福島第一原発から海洋放出される「処理水」
あの日の危機からまもなく13年。今、日本と中国は大きな問題を抱えている。去年8月、日本政府と東京電力は第一原発に溜まり続けていた「処理水」の海への放出を開始した。放出される処理水は汚染水を浄化後、国の安全基準値の40分の1に海水で薄めたものだ。日本政府は安全と言うが、中国政府は処理水を「核汚染水」と表現し、猛抗議した。さらに、日本からの水産物を全面的に禁輸する措置を打ち出し、日中関係に大きな亀裂が入った。
「本来であればお互いに大切な国家のはずです」
龍さんも今の日中関係を危機的だと感じている。禁輸措置は日本で水産業などを営む人に、中国国内で日本食店を展開する人にも、大きな影響を与える。しかし、科学的に安全と説明する日本政府の姿勢には疑問も残る。
「普通なら、なぜ十数年溜めたのに今放出するのか、影響がないならなぜ今まで放出しなかったのかと思われる。政府の決定プロセスはもちろんあるが、国が違えば、関心や得られる情報量は当然変わる。日本でずっと生活しているからこそ納得できたこともある」。
その上で、龍さんは国際的に理解を深めていくためには継続的な対話が欠かせないという。まずは、その対話を始められるきっかけを見出すことが日中両政府に求められているのかもしれない。
「処理水について正しく海外に理解してもらうためには、もっと国家間の会話と説明が必要。お互いの相互理解と助け合いが大事。国と国、あるいは国民と国民の相互理解が深まっていけば、友好にもつながっていく」。
コロナ禍を経て、世界中で人と人との交流が再び始まっている。立ちはだかる国家間の壁に、「善意」の輪が再び広がることを期待したい。
※この記事は福島中央テレビとYahoo!ニュースによる共同連携企画です。
福島中央テレビ