那須太社 錦輔 の日記

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「砂漠の狐」ロンメル 大木毅 角川新書

2021-10-13 01:02:17 | 読書感想文

ロンメル将軍(エルヴィン・ヨハネス・オイゲン・ロンメル)も知ってるようで知らない人だった。

多分評伝を読むのは初めてだ。

 

なかなか面白い。

ロンメルを知ると同時に、第2次世界大戦を知る事もできた。

例えばそもそも、ロンメルがなぜアフリカで戦っていたのかというと、リビアを領有していたイタリアが、同盟国ドイツの勝ちに乗じてイギリスが領有するエジプトに攻め込んで負けたから。

P152-156引用 1940年6月22日、コンピエーニュの森で、独仏休戦協定が調印された。ドイツは短期間で、宿敵フランスを降伏させることに成功したのである。しかし、これで戦争を終わらせることができるとのヒトラーの期待とは裏腹に、ひとり残ったイギリスは徹底抗戦の決意を固め、ドイツからの和平の申し出を蹴ったのだ。
ヒトラーはやむなく英本土上陸作戦を実行する腹を固め、その前提となる制空権の確保をドイツ空軍に命じた。こうして開始されたのが、有名なバトル・オブ・ブリテン、英本土航空戦である。
1940年7月から、ドイツ空軍はイングランドに激しい空襲を加えたが、英王立空軍(ロイヤル・エア・フォース)の戦闘機兵団(ファイター・コマンド)による抵抗は熾烈をきわめ、どうしても航空優勢が取れない。結局、ヒトラーは英本土上陸作戦を断念し―――ソ連侵攻に転じると決した。ソ連を打倒し、東方植民地帝国を建設することは、ヒトラーの宿願だった。加えて、イギリスが戦争を継続するのは、いずれソ連がドイツの敵にまわるとみているからだろうとの判断もあった。従って、ソ連を制圧すれば、イギリスもあきらめ、講和に応じるはずだ。かかる計算から、1940年12月18日、ヒトラーは、対ソ連戦準備を命じる総統指令第221号を発した。
一方、ドイツとっては想定外の方面でも、戦争は拡大していた。西方攻勢によりフランスが圧倒されるのを見たイタリアは、1940年6月10日、ドイツ側に立って参戦した。ヒトラーの勝利を奇貨として、地中海を制覇し、かねての念願であった新ローマ帝国の建設をなしとげようとしたのである。だが、ファシスト・イタリアはローマではなかった。
同年9月に、当時植民地だったリビアから、エジプト王国(1922年に独立したが、イギリスの間接支配を受けていた)に侵攻したイタリア軍は、英機甲部隊を中核に据えた反攻に遭い、潰走した。スエズ運河に迫るどころか、逆にリビアの大部分を放棄するはめになったのだ。一方、10月には、やはり自国領だったアルバニアからギリシアを攻撃したものの、戦線は膠着した。ギリシア軍は攻勢に転移、アルバニアの一部を占領するありさまだった。
・・・
しかしヒトラーとしては、盟邦の苦境を看過するわけにはいかなかった。また、放置しておけば、バルカン半島や北アフリカが、英軍反攻のスタートラインになりかねない。1941年1月9日、南独ベルヒテスガーデンで会議を開いたヒトラーは、こう述べている。
「いかなることがあろうと、リビアの失陥は防がなくてはならない。[中略]われわれの支援がなければ、イタリア軍が英軍に抵抗できないことはあきらかだ。これは、彼らが軍人として劣っているというよりも、イギリス戦車に対して、近代的な防御兵器を有していない事による」
・・・
当初、ヒトラーは、小規模な装甲部隊の派遣のみを考えていた。kれども、「リビア封止作戦」と名付けられた団隊の指揮官に予定され、現地視察に赴いていた男爵ハンス・フォン・フンク少将が、1941年1月25日付で送ってきた報告書は、そうした見解をくつがえすものだったのだ。
・・・
ヒトラーは意見を変えた。もっと大きな兵力が必要であると判断し、「リビア封止部隊」を第5軽師団に拡張するとともに(すでに述べたごとく、4個あった軽師団は装甲師団に改編されつつあったが、応急処置として、5番目の軽師団が新編された)。もう1個師団を送ることに決めたのである。
・・・
ともあれ、2個師団もの大兵力を運用するからには、それを指揮統括する上部組織が必要である。リビアにおいては、イタリア軍の機動性の高い部隊も、派遣されるドイツ軍司令官の指揮下に置かれることが予定されているとあっては、なおさらだった。かかる重要なポストを任せられる人物として、ヒトラーはロンメルに白羽の矢を立てた。
引用終わり

イギリス以外の欧州をほとんど制圧していたドイツからすると、イタリアがアフリカで負ける事で生じる穴をふさぐため軍を派遣することになる。

またロンメルの構想ではエジプト・スエズ運河を制した後は中近東から黒海・カスピ海を経由してスターリングラード等ソ連の横っ腹を衝く腹積もりだったらしい。

本書では、補給の問題からとうていありえない、と論評しているが。

 

マルタ島に残っていた英空軍がロンメルへの補給をしばしば遮断し、またトリポリ、ベンガジに揚陸された物資を前線まで輸送する手段をロンメルが確立しないまま先へ先へと前進していったため、補給が常に問題になった。

ロンメルはドイツ軍内のエリートであるプロシア系貴族出身ではなく南ドイツのヴュルテンベルク(バイエルンの西隣)の出で、高等な軍人教育をうけていなかったため、優れた現場指揮官ではあったが、一個軍を指揮する器ではなかった、というのが筆者の結論。

そういう当時のドイツ内の地域による階層というか権力構造というかの解説も面白かった。

また、アフリカに渡る前、フランスでもロンメルは大活躍していて、その際も独断専行であったり自ら前線にでて部隊を突出させたり、勝機を逃さないため他の部隊の兵を勝手に指揮下に入れて動かしたり、奔放に動いている。

 

そうこうしているうちに、米軍が西側のアルジェリアに上陸してロンメルはエジプトの英軍とに挟み撃ちされる格好となる。

 

不満としては、戦闘の推移の記述が読みにくい。

しょうがないのかもしれないが、第〇〇師団が〇〇峠から退却とか無味乾燥な部隊名とその移動経緯が次々記述されるが、ネットで地図を参照したりしたがイメージがわかない。

ロンメルの所属も時々で変わるのでなおさら追いかけるのが難しい。

地図が挟み込まれているが、これも分かりにくい。

都度つど、部隊名とかを覚えつつ読み進める人には良いのかもしれないが、自分はそうじゃないのでそういう部分は飛ばしていった。

コメント
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