幸せの深呼吸

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<64年東京五輪>円谷氏と縁談の女性「自由奪った五輪」

2017-01-01 | 徒然なるままに

こういうことがあったのですか・・・。国民の過度の期待は、人生をも押し潰してしまう。また、東京で開催されるようになって、記事が読まれているようです。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161231-00000003-mai-soci<64年東京五輪>円谷氏と縁談の女性「自由奪った五輪」2016年12月31日

 1964年東京五輪マラソン銅メダルに輝き、68年1月に27歳で自ら命を絶った円谷幸吉(つぶらや・こうきち)を巡り、彼が思いを寄せた女性(74)が毎日新聞取材に応じた。「何より五輪優先で、個人自由もなく、国の期待を背負い続けていた」と悲劇の内幕を語った。女性によると取材に証言したのは初めて。2度目の東京開催を3年半後に控え、国の名誉や国民の期待など円谷を苦しめた重圧を、関係者の証言から考える。

 これまで円谷を巡り、多数の記事やノンフィクション作品が発表されてきた。それらによると、円谷側はこの女性との縁談に前向きだったが、円谷の所属する自衛隊体育学校の校長が68年のメキシコ五輪障害になると反対し、破談になったとされる。円谷は故障で走れず精神的に苦しんだことに加え、破談で追い詰められたと、作家の沢木耕太郎氏の「長距離ランナーの遺書」(76年文芸春秋刊「敗れざる者たち」所収)などで指摘されている。

 女性によると、高校を出て福島県郡山市の陸上自衛隊駐屯地の厚生課に勤め、隊員だった円谷と知り合い、手紙をもらうようになった。「いつも笑顔であいさつしてくれた」と振り返る。約2年後に東京五輪を目指して東京の自衛隊体育学校に移ったあとも文通は続き、円谷が結婚を考えていることが分かった。

 東京五輪の1年半後、女性は母を伴って、円谷の父や兄らと結婚について話し合った。円谷本人は勤務の都合で欠席。その場に立ち会った校長が「世界の円谷だ。結婚すると記録が伸びない」などと反対した。

 この時、円谷家は結婚式の日程まで決めていたが、女性は「了解していなかった」と証言した。縁談を了解していれば、母に加え父も同席したはずだと説明。円谷家との温度差に言及し、校長の反対によってさらに消極的になったとした。

 女性の記憶では話し合いから約半年後の66年末、もらった指輪や手紙を返送した。円谷側との関係は途絶え、67年10月に地元の男性と結婚した。円谷は腰痛で手術したが思うように走れず、メキシコ五輪を控えた68年1月に亡くなった。

 自宅で取材に応じた女性は「走ることが生きがいだと話し、まっすぐ物事を見る人だった」と回想。「上官(校長)の言葉に従わざるを得ない雰囲気だった。幸吉さんは五輪で英雄になり、存在が世間で大きくなり過ぎた」と語り、地元開催の五輪で国民の期待を一身に集めた円谷の苦悩を思いやった。

「走り出したら振り返るな」父の教えを守った幸吉

 あの日、1964年10月21日。歓声のどよめく国立競技場に、円谷幸吉エチオピアの英雄アベベに続いて2位で戻ってきた。ラジオの実況が「円谷がんばれ! 円谷がんばれ!」と叫ぶ。英国のヒートリーが迫っていたが、後ろを振り向かず、最後の最後に抜かれて3位でゴールした。

 「みっともないから走り出したら振り返るな、という父の教えを守った」。7人きょうだいの4番目で兄の喜久造さん(84)=福島県須賀川市=が打ち明けた。末っ子の円谷が小学4年の時、運動会の徒競走で前を走る同級生がちらちら振り返りながらゴールした。父はそれを見て、あんなことはするなと諭したという。父は軍隊帰りで教育に厳格だった。「勝っても負けても一生懸命やれ、と父は伝えたかったのでしょう」

 円谷は自衛隊体育学校で東京五輪を目指した。練習相手を務めた千葉県八街(やちまた)市の宮路道雄さん(79)も「彼は競技本番だけでなく、練習でも後ろを振り向かなかった」と話す。興味深いエピソードを教えてくれた。大会後の地元での祝賀会で、銅メダルを持ち帰った息子に、父は上機嫌でこう言った。

 「たまには振り返ってもいいんだぞ」

 前だけを向いて走り続ける姿は、敗戦から立ち上がり、経済成長を追い求めていた日本とも重なる。しかし円谷は4年後、悲劇的な最期を遂げた。喜久造さんによると、父は自慢の息子の死後、自宅の一室にメダルゼッケンなどの遺品を並べ、ラジオの実況テープを毎日聴いて過ごした。

 円谷が思いを寄せた女性(74)は細身に手作りのおしゃれな洋服をまとい、穏やかに思い出を語った。だが、話が円谷の悲劇に及ぶと表情が曇った。「先が見えなくなったのでは……」。メキシコ大会をテレビで観戦しながら、ふと「幸吉さんならどう走ったかな」と思ったという。

 宮路さんは、最後のトラック勝負について「彼は競技場の大歓声で何も聞こえず、ヒートリーに抜かれる瞬間まで気づかなかった」と証言。円谷は「国民の目の前で抜かれてしまった」と家族にもらした。よほど悔しかったのだろう。それが彼を次の五輪へ駆り立てていく。レース後の記者会見で早々と「(次の)メキシコを目指して4年間頑張ります」と雪辱を誓う。

 だが、五輪後に持病の腰痛が再発。思うように走れず苦しんだ。約2年後、長兄に手紙でこうつづった。「疲労困憊(こんぱい)でいささかの余裕すらありません。一線のクラスとしてこれ以上続けるには無理であります。強いてやっても無駄飯をくうだけでなんら役にならぬと考えます」

 宮路さんは「重圧に加え縁談も進まず、気持ちを立て直せなくなった」とみている。

兄の喜久造さん「過度に期待してはいけない」

 2013年9月、2度目の東京開催が決まると、喜久造さんは弟の墓で手を合わせた。「またオリンピック東京であるぞ」

 円谷を大歓声で迎えた国立競技場は、次の五輪に向けて取り壊された。解体前に一般公開された14年5月、市民が別れを告げに訪れた。長い行列に、7人きょうだいの5番目で姉の岩谷富美子さん(82)=東京都新宿区=の姿があった。娘2人に「幸吉おじちゃんが走った競技場を見ておこう」と誘われた。

 競技場で富美子さんは弟の写真を取り出した。銅メダルをさげ、右手を上げて声援に応えている。写真を抱いて表彰台の最も高い所に腰を掛けた。「ここに立ちたかったはずです。最後に競技場をもう一度見せてあげたいと思って」。半世紀前のどよめきがよみがえり、弟が隣にいるような気がした。

 次の五輪は地元開催で、いやが上にも盛り上がるだろう。「過度に期待してはいけない」と喜久造さんは言った。

 「幸吉のような選手はもう出してはいけない」。その言葉が記者の胸に深く刺さった。【村上正】転載終了

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