スカーレット手帖

機嫌のいい観客

大河ドラマ「平清盛」とわたし【2】「群像劇」という視点

2012-07-11 | 映画ドラマまんが
さて、だいぶ空いてしまったのであるが、前回に引き続きまして、
大河ドラマ「平清盛」への愛をつれづれなるままに。


なぜこのドラマが自分に響いてくるのか、ということを
放送を観るたびに考えていたのですが、
同様にtwitterやblogなどで日本中の清盛ファンのひとびと(総じて文章がうますぎる)の
発言を見ていて気づいたことがあります。

それはズバリ、

「群像劇」である

という点。


これまでの大河歴で自分が多少なりとも惹かれて
記憶に残っているドラマって、

99年「元禄繚乱」


04年「新撰組!」


の2作なのですが、
これらが好きな理由について、自分では
「ライトな日本史好きとして、わかりやすくてベタなテーマだから」ということだと思ってた。
でも、「群像劇」という視点から考えると、
これらにも共通するものがあるかもしれない と思えてきました。



忘れがちなんだけど、
ひとつの歴史的事実(乱とか、戦いとか、政権交代とか)がある後ろでは、
いろんな人が動いていていろんなことを考えていて、
しかもオンタイムなんだから、あとから振り返ったらたくさん無駄なこともあるはずなんですよ。
未来はわからないのだから。

でも歴史の教科書になってしまうと事項しか描かれていなくて、
なぜそんなことになったのか、感情はどうだったのか、わけがわからない。
実際の人物はもうこの世にいないので、検証はできませんが、
その行間をフィクションで埋めながら、物語にしていくのが歴史ドラマのおもしろさです。


とはいえ、やはりドラマを作るとなると主役目線になりがちで、
なぜか主役のところにいっつもいいボールが来るようになっている
というのは多くの大河ドラマで見てきて、辟易した気分になってくるところでした。
主役が魔法使い的ポジション。

それが、今年の清盛ではそのことを感じさせない。
登場人物のほとんどすべての人の感情や思惑がハンパなく盛り込まれてる。
それどころか、6月頃、清盛が一族の長になるまで、
(個人的に見て)ほとんど主人公に光が当たってなくて、
脇の人の濃いい人生を全力で描いていると思いました。
どの人物にも生きる指針みたいなものがあって、
(かといって全員「芯がある」とかいうわけじゃない。「ふわふわ」とした人もいる。それはそれで生き方。)
自分の理屈と法則に則って生きている ということに説得力を感じさせます。


それぞれの意志をもった人間が集まっていて、
それが個性を放ちながら画面の中におさまっている様が生き生きと見られる群像劇。
不完全なところもある人たちが、集まって、生きて、「空気」を作っていたんだと感じさせるドラマ。


そして、制作チーム自身もまた、明確な意志をもって創っているんだろうな、
ということを画面を通してとても感じさせる、一貫した「美学」を感じさせるすばらしいドラマだと思います。



なんか、抽象的なほめが続きますが。。
また別の視点からについては、次回以降!

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