スカーレット手帖

機嫌のいい観客

観劇生活と妊娠

2017-06-29 | わたくし
この夏は、TDCホールにも赤坂ACTシアターにもシアタークリエにも行くことが叶わなくなってしまった。


というのも、私はまもなく臨月に入るという状況である。

産休に入り、地元でひとりひっそりと過ごしている今日このごろだ。
あれだけ生活の中心だった「私による・私を満足させるための」物見遊山および消費(浪費)活動は急激に遠ざかり、
自らの体内にお住まいになっている次世代の機嫌を伺いながら規則正しく健康を心がける暮らしに突入することになってしまった。
ただ、そんな中でも幸い、体調を大崩しすることもなくここまで経過してきたため、
未練がましく里帰りギリギリまでちょこちょこと劇場には足を運んだ。
「見納め」という名の下に何枚のチケットを取ったことか…
備忘録代わりに、妊婦となってからの観劇生活において、私の場合気をつけていたことを書いておこうと思う。
まだ産んでないので、これが結果的に正解だったのかどうかはわかりませんが。


<気をつけたこと>
1 トイレは事前に行きまくる
  劇場はトイレが少ないところも多い。
  最寄駅で行き、最寄駅から会場までにある公共施設で行き、その上で会場でも行くのである。

2 なるべく通路席を確保
  これはすごく大事である。チケット確保時から座席選択ができる場合は通路側席を迷わず選択だ。
  先行抽選などで座席が選べない場合もあるが、極力通路席が来るように祈りつつ取るのである。こうした気合いが大切だ。
  また、譲渡で入手の場合は列が多少後ろでも通路席であることを優先である。
  これまでは客席降りのキャストとのふれあいチャンスなどを淡く期待しての通路席だったが、
  こう事態が至ってはとにかく座席からの出やすさ・入りやすさのための通路席である。
  妊婦のトイレサイクルをなめてはいけない。すぐにトイレに行きたくなる。
  すべての幕間にトイレ、できれば1幕間2トイレぐらい入れられるように通路席を取るべきである。
  あと、2〜3時間ずっと席に座っていると体が固まってしまうので、必ず幕間には体を動かして血を巡らしたほうがいい。

3 荷物を小さめにする
  負担を減らす。自分だけでなく周りのひとのためにでもある。妊婦は動きも鈍くなっているため、
  大荷物でゆるゆる動くと不本意ながらぶつかってしまうこともある。できるだけ身軽な手提げ1個ぐらいで
  サッと行ってサッと帰って来たいものである。でも母子手帳と保険証は必ず持っていきましょう。

4 ゆるくて暑くないけど冷えすぎない格好
  おしゃれだなんだと言っている場合ではない。
  化粧しなくても死なないがタイトなジーンズにボディをねじ込んでいると妊婦のストレスはすごい。
  ゆるく、楽な格好が大前提だ。そして妊婦は暑いので風通しのよいワンピースなどが良ですね。
  ただし難しいのが冷やしてもいけないというところで、劇場はわりと空調が効いていることもあり、
  足首・首は重要であるので、カーディガンやら靴下は持っているといいですね。
  帝劇のスタッフさんなどはさすが目ざとく、開演前に劇場のひざ掛けを持ってきてくれましたが
  基本自分でなんとかする気持ちで。

5 水分持参
  荷物は減らしてもREMEMBER水分、NEVER FORGET水分 である。
  妊婦の水分循環サイクルをなめてはいけない。幕間に必ず水分補給である。
  水分補給、そしてトイレ、妊娠生活は自分が水分を通過させる「管」になった、と思わないとやっていけないところがあるが、
  劇場でもできるだけ平常心で管としての役割を果たしていくことが重要と思う。

6 物販で欲を出さない
  あらゆる物販の限定品に目がくらむのは観劇人生につきものであるが、この時期に限っては仕方ない。
  パンフレットを買えれば十分と思っておくべきである。本篇は板の上にある。

7 写真撮影等で欲を出さない
  会場限定のディスプレイ、本日のキャスト表、初めて来た会場の様子など、記念に押さえておきたいところはたくさんあるのだが、
  「まあ全部撮れなくてもいいか」と思っておくと楽である。
  公開されているものについては、きっと誰かがSNSに上げてくれたりしている便利な世の中である。

8 お金を多めに持っていく
  お金を多めに持っていくと自然の摂理として物販で欲を出したくなるのだが、欲を出してはいけない。
  もしものときのためである。金があればタクシーにも乗れるし万が一でも病院にも行けるのである。

9 混雑する時間帯に会場入りしない
  すごく細かい話になるが、開場前に並んでまで入る必要はない。同じく、開演直前に駆け込むのは体に悪い。
  会場の特性を見極めつつ、開場から開演までの時間のうちに混みすぎず、
  開演前に1トイレチャンスが狙えるぐらいのタイミングでスッと入場するのが美しい。

10 ライブは無理してスタンディングしない
  まあそもそもライブにはほとんど行かなかった(付き添いで行ったリトグリぐらい)が、
  立った方が盛り上がる曲であっても調子が悪い場合は申し訳ないが我慢せずに着席である。
  ということで絶対に立って観ないと面白くない今年のドリームライブはあきらめた。

11 駅から遠すぎる/狭すぎるまたは広すぎる/遅すぎる演目は回避
  これまでのように基本一人で観劇には行っているので、駅からは簡単に行ける場所のほうが望ましい。
  できれば地下でつながっているとありがたい。そういう意味では有楽町近辺などはとても便利。
  例えばアイアシアターぐらいになると後期になればけっこう躊躇してしまった。
  (べつにこの時期じゃなくてもアイアは躊躇、という話は横に置いといて…)
  狭すぎるまたは人が多い広すぎる会場は特に冬の時期、インフルエンザなど感染症も心配である。
  劇場までの街の様子も含めてこの辺の判断はもう「勘」でしかないが、これまでの経験を踏まえて
  「あー、すごく観たいけどやめたほうがいいかも」という直感で判断した。
  また終演時間が遅すぎる場合も、演目自体というよりも、帰宅時に遅い時間の電車に乗るのが不安である。
  なぜなら夜遅い電車の中というのは、全体的に人々が弛緩しているから。朝の電車は混んでるといってもまだいい。
  夜はねえ。なんなら酒飲んでる人とかいるからね。目配りするポイントが多すぎる。これは大変。
  平日でももし半休でマチネに行けるならばそちらに行くとよい。

12 行ってない演目の情報を検索しすぎない
  これは精神安定上、けっこう重要かもしれない。観てないものは、ないものとしていきましょう。

13 「胎教」とか思わない
  妊婦になったからといっていきなり趣味が変わってクラシックとか教育系演目を聴きに行けるものでもない。
  むしろ今後は自分の趣味に合わない幼児向けコンテンツにふれあいまくる時期に突入すると思われるため、
  とにかく好きなものを観るのが大事だと思う。
  ちなみに観劇中に胎動の反応を感じたのは4月の「刀ミュ」ライブパートの時で、和太鼓演奏のさいに、ヌルッと動いた。
  産休前に最後に観た演目は今月あたまの「レ・ミゼラブル」であるが、
  ジャン・バルジャンがバリケードでジャベールを撃った(ふりをする)ところの銃声で、ビクビクゥ!!としていた。
  銃声など、胎教にいいか悪いかで言ったらあまりよくない気がするけどまあいいか、と思って最後まで観たいものを観た。
  このような母親のところに来てしまうというのも一つの運命だろうと思う。

14 全体的に余裕のある行動と、適度なあきらめ
  なんかもう包括してしまうがこれに尽きるのである。時間的にも精神的にも100%フル活動と思いながらやってしまうと、楽しめない。
  以前は平気でやっていた「マチソワ」もさすがに断念した。
  そしてどの演目でも、最悪体調が悪かったら1幕で帰ればよし、ぐらいの気持ちで行くべきである。
  帝劇クラスの演目で本当にそうなってしまうとチケット単価的にもすごくもったいないのだが、もしそうなっても、それも一つの思い出かな、
  ぐらいに構えていたほうがいいと思う。
  ちなみに私がどうしても行けなかったのがテニミュ六角の凱旋公演だった。けっこういろいろ調整してチケットを取ったが、寒さとつわりで断念した。
  これからの演目も、髑髏城の七人なども全シーズン行くぜ、と思っていたがもはや無理である。それでも花は観れたので、私は満足だ。回ったぞ。


というような状況である。

2年越しで楽しみにしていたビリーエリオット日本初演、RENT2017、夏のテニミュ立海、などなどどれも行けないが、
その代わりというかもうすぐ登場してくる人間のマネージメント業務24時間営業というものが待ち受けているため、
とりあえずうまくその生活に入れることを一つの目標に、この夏は過ごしていきたいと思う。


【今年になってから観た演目】
1/8  リトグリ 日本武道館
1/21  ノートルダムの鐘 四季劇場秋
1/29  ミュージカル手紙 新国立劇場
2/1  アルターボーイズGOLD 新宿FACE
(2/10  テニミュ六角凱旋 TDCホール)←断念
2/11  リトグリ 秦野公演
2/14  アルターボーイズLEGACY 新宿FACE
3/10  初恋モンスター 品川クラブex
3/11  ペダステ TDCホール
3/25  ハイステ TDCホール
4/9  リトグリ 国際フォーラム
4/12  チームライブ氷帝 TDCホール
4/14  刀ミュ アイアシアター
4/16  きみはいい人チャーリーブラウン シアタークリエ
5/7  髑髏城の七人シーズン花 IHI STAGE AROUND TOKYO
5/22  レ・ミゼラブル 帝国劇場
5/29  ファンタジーオンアイス 幕張
6/5  レ・ミゼラブル 帝国劇場


※この他、なぜかこの時期観覧募集系が当たりまくり、

 2/28 2.5次元男子推しTV公開収録
 3/17 きみはいい人チャーリーブラウン公開稽古
 4/5  RENT制作発表

 と見にいきました。宝くじでも買っておけばよかったかもな。

32才

2016-08-01 | わたくし
2016年も意気揚々と801の日がやってきて、
今年もげんきいっぱいに加齢しました。

昨年同日比で

年齢は1才増
体重は6kg増

という、とどまるところを知らない成長ぶり。
自分の限界は一体どこにあるのだろう、底が知れず恐ろしいです。
死ぬまで一生、成長なのかもしれません。

とつぜんスピリチュアルな話(?)をすると、
偶数年の年は自分の周期的にはわりと色んなことが安定しているので
今年は比較的楽しく生きている気がします。
(奇数年がしっくりこない、いろいろハードな気がする。また来年は大変なんだろうと予測)

もういい年なので、自分におめでとう、と言ってもらうよりも
日頃何かと構ってくれる周囲の人に、なんかありがとうございますね
と言っていきたい気持ちです。
とりあえず、夫が財布を買ってくれました。なんかありがとうございます。(買わせた)

来年に向けては、
大幅に体重を減らしつつ、
そのほかの色んなことは増やしていきたいと思います。
楽しくブログも書いていきたいなという感じです。
よろしくピースでございます。


観劇との関係の近況

2016-07-13 | わたくし

わたくし、本格的に東京に来て、2年ほどたちます。

うっかりすると息を吸うように連日劇場に足を運べてしまうこの街が怖い。
あれほど非日常だった「好きな俳優を見る」「気になる演目を観る」が、
一大決心もなしに出来てしまう。恐ろしいことです。
離れたところから自分勝手に妄想をたぎらせる暇もないままにひとまず実体があり、
見てしまわざるをえない状況である場合に私が出来るアウトプットというのは、
それはもう理想もくそもない、そのご本尊様の今のありようの写生・賞賛、という感じになってしまいます。
この距離の縮まりについては嬉しくもあり、寂しさも感じています。
まず、こちらとしてはどんどん情報量がたまっていくのに、
目撃する一挙手一投足の価値が、機会拡大により有無を言わさず単価が下がっていく感じになるのがつらい。
そして、人間関係を営んで生きているものの哀しい性として、
対象者との物理的に距離が近くなると、次は心理的な距離を詰めなければいけないような気がしてくる。
でもそれはなかなかかなうものではない。その感覚は、正直とてもしんどい。
1週間に3回見れたとしても、結局は3か月に1回見ていた時と関係性はなにも変わらないのだから。

このような心境と距離感の中、
それでも飽きずに劇場に足を運ぶという状態を保つためには、
あえて少し心を不感症に保っていなければいけない、そんな気がしています。

・・・ただね、観劇なんていうのはそもそも、
金を払いながら、自分の精神状態を嬉々として素っ裸の過敏症状態にしに行っているようなものなので、
無理やり丸呑みするかのような味わい方でないと日常生活に支障が出るというのは、本末転倒というか、
なんなの。好きっていえない女子高生なの。哀しすぎるやん。やっぱ好きやねん。

まったく求められていないとしても、君かその周辺かなんかしらんけど誰かに届け。
自分の中に脈々と続く妄想と思いこみによる大仰な言い回し、
静かなる熱狂のちんどん屋的散文で私を取り戻してみたく、
やはり文章を書いていこう。ふつふつと溜まっている思いなどをもとに、
「この人のこと」などもふたたびしばらくやってみようと思います。

観劇趣味と私の消費

2016-04-06 | わたくし
観劇を趣味にすると、お金がかかる。
それは勿論そうなのだが、
観劇それ自体+「もっとよく楽しむための活動費」部分にかかる金のほうが多いような気がしてきたのである。

私が見ている規模感の舞台の話で言うと、大体、「観劇1回1万円」である。
これは、「その現場に行って座席に座るためにかかるお金」という意味での1万円で、
チケット代(手数料が多いと1000円ぐらい発生する場合もある)+交通費(都内近郊)
で、これくらいで見ることになる。
これでもそこそこ金がかかるぞ、ブルジョアの遊びめ、という見方もあるだろう。
1万円とは1000円が10個、100円が100個の集団である。
私は中学生の時の小遣いが月に3000円、高校生の時が6000円だった。
1万円とは年に一度正月に会える人々だ。それを思うと遠くへ来たものだなあ。

ただ、席に座って1万円なのだが、たいてい「よし!もっとよく楽しむぞ」という
「意識の高い客」然として劇場にやってくるのが常であるため、
まず演目に興味のない家族の分までチケットを買って備えて当日に臨み、
劇場についたらパンフレットを買う、写真を買う、グッズを買う、DVDを予約する、
そして劇場の周辺で飲食をし可能であれば周辺施設も見物する、
さらに時には帰宅後に原作を買い揃える、関連商品を購入する、等、
意識の高い行動については枚挙にいとまがない。

もっとよく楽しむ、というよさげな言葉は恐ろしいのだ。
悪いことはしていないよ。楽しむだけだよ。よく知りたいだけなのよ。だからお金がかかるのよ。
むしろもっと楽しみたい際に飲食の数百円を圧縮してみても焼石に水だ。
行くのをやめるしかない。オールオアナッシングである。
そんな中、時折、
「チケット手数料込7500円+交通費300円+パンフレット1500円+ランチ800円」
など、1日の満足度を1万円に収められることもある。
この場合は大変ありがたいという気持ちになる。コンパクトに動くとこのようなことも可能である。
しかしなかなかこのような事態には至ることは少ない。

それはそうだよ、
学生のときだって、学校の教科書は安くても副教材にどれだけ金かかったのか、ということである。
買った参考書の一体何割を本当に参考にしたのか、そして「参考にしない参考書とは、書なのか」
「書とは人なり」「花に水、人に愛、料理は心、神田川俊郎です」といったような無駄な連想が発生してくる次第である。

しかし、補足しておきたいこととしては、
高い副教材を使っている人が必ずしも勉強ができるかというとそうではない ということである。
兄弟にもらった青チャートで医学部受かる人もいれば、
無理やり家庭教師に来てもらった挙句センター数Ⅱで赤点を取る人(私です)もいるのである。
前情報があってもなくても、ファン意識があってもなくても、先行で取ろうが当日券で取ろうが、
2時間そこに都合をつけて座っているという意味では平等なのである。

結局、「どんなに感動して入りこんでも、観客は舞台上には、でられない」という
最高に痺れる平等を味わいに行きたいだけなのでである。
舞台も、客席でも、それだけでは成り立たない哀しい装置である。
一万数千円とともに、刺激という名の何がしかの傷と希望を負うために集うのが観劇という趣味である。
現実生活では、傷も希望も、なかなか綺麗には負えるものではないので虚構は大切である。
そういうわけで、私は引き続き観劇と消費の渦の中で生きていくつもりなのであります。

31才

2015-08-01 | わたくし
31才になった。

よいか、皆の者よ、
Facebookで今年同級生たちが意味ありげにやっていたように
サーティワンアイスクリームを食べたりするようなわたしではない。
僕は君が思うような人間じゃない そうさ そんな人間じゃない

過去を振り返ってみると、

30才を迎えたわたし
 節目を迎えた達観というか調子乗り度★★★☆☆
 精神的余裕★★★★★

29才を迎えたわたし
 短文中に込められた己は際立っているという自意識★★★★☆
 精神的余裕★★★★★

こんな人間であった。
過去の自分の記録はいつでも、見るもおぞましい成分をはらんでいる。
しかし同時に自分にしかわからない懐かしさも秘めている。
(つまり、ブログをやっているといいな ということだ)


せっかくなのでこんな人間として、
誕生日のタイミングぐらい、前向きなことを書きたいものだが、
残念ながらここ最近、30年かけて得たものが、順々に目減りしていくような、
無力さだけを噛みしめているのが昨今のわたしだ。

 シャレにならない空回り度★★★★★
 精神的余裕★☆☆☆☆

日々、とても効率の悪い感じの疲れがたまる中、
探究心は弱まり、表現力は鈍り、実行力は雲散霧消、顔面の毛穴は広がるばかり。
態度は図太くなっている気がするが、変わらず中身は非常なる小心者である。
人のふんどしで相撲を取りに行くどころか、
人が相撲を取っている後ろで相撲に参加しているかのようなふりをしている。
むしろ30年で得たように思っていたものは、思い込みの産物だったのかもしれない。

自分には何があるのか。ほんとうに。
なければ希求するかもしれないけれど、結婚も仕事も飾りにすぎない。
そして、ないものねだりは止まらない。あれもないこれもない。もうなんか、要るものが全部ない気がする。
ただ、健康は享受している。そうだ余すところなく健康だけは享受している。
精神の乗り物としては、丈夫めにできている。(はず)
一方中身は、目減りとグレードダウンを繰り返し、そしてかといってもう自分の本質は変えられない。
これと付き合うしかない32年目がはじまる。

もはやほっとくだけで垂直的な成長はできない自分をどう叱咤激励していくのか。
日々の無力ぶりをある意味の成熟と呼ぶか、それとも劣化の始まりか。はたまたなにかのきっかけ待ちか。自分。
外から見たら器だけは大人、逃げ場なき30代、
わたしの道はどこにあるのか。
探すしかない。そうだ。探すしかない。
どうやってもいいけれど、すべては自分でやるしかない。
わたしに興味があるのは、ほぼ、わたししかいないからだ。
どう転んでも、回収するのはわたしだ。とりあえず享受するこの健康を、薙刀のようにふりまわして。

自意識の擦り傷まみれで32年目を走る。必死のパッチであります。

合わない日々

2015-07-11 | わたくし
ちょっとびっくりするぐらい仕事がつらい今日この頃である。

本当にだめだ。いよいよ本格的にだめだ。
本社に異動して9か月、だましだましやってきたものの
この部署はどうやら激烈に適性外のようである。

事業所は違うとはいえ9年働いているの幻だったかな、
と思うぐらいに初歩的な躓きが連日おこる。
そしてそれを許せる心の余裕がない私。
何年やってるんだ・・・ まじかよ・・・
これくらい仕切れよお前・・・・・・
とかいう罵倒の声が頭の中からつねに響いてくる。
自分で言ってんだよなあ。
でも、なんかそんなニュアンスのことを常に投げかけられている気がするのだ。
肩身が狭い。自信も消え失せた。人間関係がつらい。
一刻も早くいなくなりたい。

ただ私は、「新卒」という切り札でのばくちに大勝ちしたような体で
今の会社に入ったようなところがあり、
普通に考えて、今の自分の状態で
給料待遇知名度、総合的に考えてこれ以上の条件にあたることはないでしょう、
と、この疲れた頭でも容易に言い切れる。
ほかにやりたいこともないのにどうするの? という自問自答もあり、
むやみにやめられない気もしてがんじがらめもいいところである。
そんな思考停止の自分がまた輪をかけて腹立たしくもある。
正論で言えば、
逃げちゃ駄目だ
というやつなんだろう。しかしどうにもつらい。
そしてこんなことをブログで書いててもまったく意味がない。



もう、具体的なことをいうとただの悲しい愚痴になるので
ここからエリザベートで例えると、
シシィが王宮で窒息してしまう~~ようなものである

合わない~
合わない~~
合わない~~~
合わない!!!

と、連日頭の中でシシィのパパとゾフィ様が輪唱している。
寝ても覚めても、
電車のなかでも、得意先でも、

合わない~~

のリフレインが止まらない。病む。
だからといって、すべてはねのけ


私が命ゆだねる それは
私だけに~~~~~~~ 
わーーたーーしーーにーーーーーーー扇バサァ


の段階までまだ行けてない。
段階で言うとまだそうだな、

フラン~ツ~助け~て~あなたがたよりよ~~~~~

という直前あたりである。
フランツはいない。
近づくけれどすれ違うだけでそれぞれのゴール目指す。


エリーーザベート
いまこそ~~
黄泉の世界へ~~
迎えよう~~~


というトート様のお迎えを待つ日々でしかない。墓標はここだ。
エリザベート2015、開演前と休憩中に仕事の電話に追われながら
やぶれかぶれで観ました。(城田バージョン)
すばらしい退廃の世界だった。ルキーニに刺されたい。
そして私も自分が踏みしめる傾く地面に、早く棺の中におさまりたい。


飽きの深堀り

2015-05-27 | わたくし
引き続き、飽きの日々を送りつつ、その正体を探っている。
(暇?)

最近の日々の私を運んでいる動力について
「漠然とした飽き」を右の車輪とするならば、
黙々と左の車輪として動いているのが「うっすらとした無力感」である気がする。

自分は無力だなあ。何もできないなあ。

ただ、
これまでの経験で気づいてきたこととして、私はだいたい、
自分について極端に「価値がある」または
「無価値だ」というふうに感じる時期はどちらにせよちょっとやばい。
両方とも、自分に意識が向きすぎているということだ。
人生は長く、過ごすべき日々は多い。
そして自意識の世界だけで生きていられる時期は過ぎた。
日常は、さまざまなものとの折衝折衝、また折衝である。
自意識が向きがちなところをなだめすかしながら、
できる限りに無意識でいるようにしないと、なかなかに胃もたれしてしまう。

実際は、どちらでもないし、どちらでもある。
というか、どうでもいい。というか、なるようにしかならないのに。

だから、
いろんなことを自分由来と思わないようにしよう、とは思うのだが
それならば逆に ということで 物事の因果を人のせいにするというのも、
それはそれでなんか潔くないよなあ
と思っているから全体的に息苦しくなるんだろうと思う。
作為的な無意識と作為的な善行スタイルなのだ。
いずれにせよ、ぜんぶ意識の出来事なので、外には出ない。
自分による自分のためのガラスの天井、
本当に周りの人にとってはどうでもいい葛藤だ。
無駄に忙しい。


ざっくり言うと、この感じ、
芥川龍之介風に言うと「ぼんやりとした不安」を
具体的にいうと、
「全員で同じ曲がり角を曲がれなくなってきた的不安」
なのではないかと思う。
ン~~~~~~~~~~
アラサーあるあるだよね~~~~~~
って感じだと思うが、
仕事も違えば既婚未婚もばらばら、
やる気もそれぞれ違う というのが
如実に出てきているではないか。近年。
どれを選んでどれを実施したから正解というのはない。
どの道を入っても迷いがあるのだろうが
ひときわ自分の歩いている道が険しいようなきがするよ~~~~~
いやいやいやそんなの甘いよね外から見たらうまくいってるように
見えてるんだろうね~~~~私もね~~~~~~~
もうどっちにしてもこの曲がり角は自分にしかないから
自発的に自分でぐいんぐいん曲がるしかないよね
誰も曲がるタイミング支持してくんないし同時に曲がってくんないよね
誰も共感してくれないし正直誰にもあんまり共感できないしね~~~~
ン~~~~~~~~~~
超アラサーあるあるだよね~~~~~~
それな~~~~~~~~~⭐︎
ってかんじなのだが、
もうほんと、いうは易し行うはかたし
としか言いようがないよね~~~~~~~~~
隣の芝生は青いよね~~~~~~~~
生きてるってたいへんだよね~~~~~~~~

いろいろと事象はあれども、
相田みつを風に言えば「しあわせは いつもじぶんの心が決める」
状態としてはそのままでも、気の持ちようで己が決めれば良いのだが、
なかなかそうもいかない気がして、呆然、
ということの繰り返しの合間に、ストレス消費としての観劇を
ミルフィーユ状に織り込みながら生きている30歳の初夏である。


あきまへんな~~~~~~~~~!?!?!?
(むやみに文末に「!?」をつけることによって
 混乱と興奮と自虐を表すWEB的表現を最近気に入っています )

飽きている

2015-05-26 | わたくし
飽きている。


それなりに、劇場に通っている日々である。
ところが、観てなにかをぐわっと感じて、そして表現する勢いというものが落ちてきている。
おなじみの演目も多いが、新作や話題作もそれなりに見に行っているつもりなのに、
である。

なんというか、
「私が伝えなければならないこと」というものがない。
より具体的に言えば
「私だけが伝えられること」(鑑賞視点 および 文章表現において)
「私だけが知っていること」(舞台の裏側 および 上演される演技の仔細やバリエーションにおいて)
ということがない。
そういう勢いをもって見る目がなんというか退化してきているというか、
呆然と舞台上を見つめて、ふむふむ、と言って、帰ってくる
ということが増えているような気がする。

あるいは、
たとえばこれを退化ではなく 前向きに捉えるならば
エンタメのすべてが新鮮に見えるビギナーズラック的な衝動や
半可通としてなにかを悠々と語りたくなる鼻高々アピール
という峠を越えて、
「結局私は見せたいものを見せられているだけ」であり
「私の思いつく、感じることはだいたいは発しているほうの想定内のことである」
という、
その状況にようやく気付いたというフェーズなのよ

と、言えないこともないのかもしれない。
けれど、
それを取り立てて言うのもなんだかもう面倒くさいのである。

これを、詳細を省いた上で端的に言うと
「ちょっと飽きてる」
ということなのかもしれない。


ただ、趣味の観劇ということにのみ「ちょっと飽きてる」であれば
まあよいのだが、
なんとも言えない勢いのなさというのが
生活のあらゆる面においてじわじわと湧いてきており、
地味に精神的に、しんどい日々である。


これも、まあ詳細を省いた上で端的に言うと
「五月病」
ということでカタがつく話なのかもしれない。
辞書に載るような言葉はほんとうによくできているものだ。
私の細々とした個人的な煩悶について
ここまで約1000字ほど費やしているが
端的に言うと 「五月病」の3文字、
恐るべき圧縮率であり、
情報伝達の効率のよさを思う。
辞書の中で最適なことばだけ選んで生きていけば、
人生の中で話すことばは500分の1ぐらいになるのかもしれない。

自分の中に穴を掘り続けていくような、
トートロジー的思索の袋小路は、
ときどきおとずれる、そして抜け出してもあまり意味をなさない。
これは誰も知らない葛藤であるが、
大きく言えばこれもまた、人生の暇つぶしということなのかもしれない。

オチはありませんねん。

ブログの放置とわたし

2015-01-22 | わたくし
空いておりますね。

茫洋としておりますね。


近頃、あまり自分の毎日が自分のものと思えません。
この「ズレ」感、なんでしょう。
内省できるほど、自分の位置が定まっていないかんじである。
忙しいのかといわれると、そうでもないような、そんな感じでもあるような。
不満と不安の間、というよりはやはりの「ズレ」感。
スピリチュアルな話ですみません。

でもとくにそれをよくするための信仰はない。
足首と首の付け根を温めてバファリン飲んで寝る ぐらいしか、
私にはできないのでございます。
うーん、冬うつですかね。

年明けからも、舞台を見てはおります。
まずは、「新・幕末純情伝」1/9
行ってきましたよ。
脚本が強いと、演者の力も演出の力もぜんぶ飲み込むんだあ と思いました。
つかこうへい作品、もっと見ていきたい。好きなかんじではないが。

次回は、1/24 昼にTARO そしてその後、村井先生のシアワセでなくちゃいけないリユウ
行ってまいります。
観劇趣味も4年目を迎えてどうやら第一のピークをすぎ、
マラソンの様相を呈してきているようだ。
なんでもそうだが、単なる思ったことの撒き散らしからもう少し上がったところへいこう
と思うと、
すんごく考える時間をかけるか、停滞を打破するぐらいの数を積み上げるしかない気がする。
そこに高みがあるのなら、淡々と積んでいこう。
(と、無意識に努力しようとしてしまうあたり、
 努力することがいいことという教育、染み渡ってるなあと思いますね。己に。
 才能ってもんもあるんやよ・・・ 自問自答)

ううむ。

2015

2015-01-03 | わたくし
12月→1月にとくにめでたさを感じなくなって久しいけど、
今回は顕著だった。
もう2週間ぐらいお休みしていたい。
いや、このままお休みしつづけたい。
冬は寒いっていうのがいけない。
陰気な気分になる。

2013年は個人的にいろいろとやることがあったので、
2014年に対しても継続的にある程度の闘志を持てたのだけど
2014年は特にパッとしなかったというか、
もういまのところ必要なものは入手し終わった感覚なので
完全に凪である。
どうでもいいことに一喜一憂し、肩こりとともに生きていくと思う。
冬に流され、陰気な感じのまま、いくよ。