スカーレット手帖

機嫌のいい観客

飽きの深堀り

2015-05-27 | わたくし
引き続き、飽きの日々を送りつつ、その正体を探っている。
(暇?)

最近の日々の私を運んでいる動力について
「漠然とした飽き」を右の車輪とするならば、
黙々と左の車輪として動いているのが「うっすらとした無力感」である気がする。

自分は無力だなあ。何もできないなあ。

ただ、
これまでの経験で気づいてきたこととして、私はだいたい、
自分について極端に「価値がある」または
「無価値だ」というふうに感じる時期はどちらにせよちょっとやばい。
両方とも、自分に意識が向きすぎているということだ。
人生は長く、過ごすべき日々は多い。
そして自意識の世界だけで生きていられる時期は過ぎた。
日常は、さまざまなものとの折衝折衝、また折衝である。
自意識が向きがちなところをなだめすかしながら、
できる限りに無意識でいるようにしないと、なかなかに胃もたれしてしまう。

実際は、どちらでもないし、どちらでもある。
というか、どうでもいい。というか、なるようにしかならないのに。

だから、
いろんなことを自分由来と思わないようにしよう、とは思うのだが
それならば逆に ということで 物事の因果を人のせいにするというのも、
それはそれでなんか潔くないよなあ
と思っているから全体的に息苦しくなるんだろうと思う。
作為的な無意識と作為的な善行スタイルなのだ。
いずれにせよ、ぜんぶ意識の出来事なので、外には出ない。
自分による自分のためのガラスの天井、
本当に周りの人にとってはどうでもいい葛藤だ。
無駄に忙しい。


ざっくり言うと、この感じ、
芥川龍之介風に言うと「ぼんやりとした不安」を
具体的にいうと、
「全員で同じ曲がり角を曲がれなくなってきた的不安」
なのではないかと思う。
ン~~~~~~~~~~
アラサーあるあるだよね~~~~~~
って感じだと思うが、
仕事も違えば既婚未婚もばらばら、
やる気もそれぞれ違う というのが
如実に出てきているではないか。近年。
どれを選んでどれを実施したから正解というのはない。
どの道を入っても迷いがあるのだろうが
ひときわ自分の歩いている道が険しいようなきがするよ~~~~~
いやいやいやそんなの甘いよね外から見たらうまくいってるように
見えてるんだろうね~~~~私もね~~~~~~~
もうどっちにしてもこの曲がり角は自分にしかないから
自発的に自分でぐいんぐいん曲がるしかないよね
誰も曲がるタイミング支持してくんないし同時に曲がってくんないよね
誰も共感してくれないし正直誰にもあんまり共感できないしね~~~~
ン~~~~~~~~~~
超アラサーあるあるだよね~~~~~~
それな~~~~~~~~~⭐︎
ってかんじなのだが、
もうほんと、いうは易し行うはかたし
としか言いようがないよね~~~~~~~~~
隣の芝生は青いよね~~~~~~~~
生きてるってたいへんだよね~~~~~~~~

いろいろと事象はあれども、
相田みつを風に言えば「しあわせは いつもじぶんの心が決める」
状態としてはそのままでも、気の持ちようで己が決めれば良いのだが、
なかなかそうもいかない気がして、呆然、
ということの繰り返しの合間に、ストレス消費としての観劇を
ミルフィーユ状に織り込みながら生きている30歳の初夏である。


あきまへんな~~~~~~~~~!?!?!?
(むやみに文末に「!?」をつけることによって
 混乱と興奮と自虐を表すWEB的表現を最近気に入っています )

飽きている

2015-05-26 | わたくし
飽きている。


それなりに、劇場に通っている日々である。
ところが、観てなにかをぐわっと感じて、そして表現する勢いというものが落ちてきている。
おなじみの演目も多いが、新作や話題作もそれなりに見に行っているつもりなのに、
である。

なんというか、
「私が伝えなければならないこと」というものがない。
より具体的に言えば
「私だけが伝えられること」(鑑賞視点 および 文章表現において)
「私だけが知っていること」(舞台の裏側 および 上演される演技の仔細やバリエーションにおいて)
ということがない。
そういう勢いをもって見る目がなんというか退化してきているというか、
呆然と舞台上を見つめて、ふむふむ、と言って、帰ってくる
ということが増えているような気がする。

あるいは、
たとえばこれを退化ではなく 前向きに捉えるならば
エンタメのすべてが新鮮に見えるビギナーズラック的な衝動や
半可通としてなにかを悠々と語りたくなる鼻高々アピール
という峠を越えて、
「結局私は見せたいものを見せられているだけ」であり
「私の思いつく、感じることはだいたいは発しているほうの想定内のことである」
という、
その状況にようやく気付いたというフェーズなのよ

と、言えないこともないのかもしれない。
けれど、
それを取り立てて言うのもなんだかもう面倒くさいのである。

これを、詳細を省いた上で端的に言うと
「ちょっと飽きてる」
ということなのかもしれない。


ただ、趣味の観劇ということにのみ「ちょっと飽きてる」であれば
まあよいのだが、
なんとも言えない勢いのなさというのが
生活のあらゆる面においてじわじわと湧いてきており、
地味に精神的に、しんどい日々である。


これも、まあ詳細を省いた上で端的に言うと
「五月病」
ということでカタがつく話なのかもしれない。
辞書に載るような言葉はほんとうによくできているものだ。
私の細々とした個人的な煩悶について
ここまで約1000字ほど費やしているが
端的に言うと 「五月病」の3文字、
恐るべき圧縮率であり、
情報伝達の効率のよさを思う。
辞書の中で最適なことばだけ選んで生きていけば、
人生の中で話すことばは500分の1ぐらいになるのかもしれない。

自分の中に穴を掘り続けていくような、
トートロジー的思索の袋小路は、
ときどきおとずれる、そして抜け出してもあまり意味をなさない。
これは誰も知らない葛藤であるが、
大きく言えばこれもまた、人生の暇つぶしということなのかもしれない。

オチはありませんねん。