スカーレット手帖

機嫌のいい観客

リトルグリーモンスターと夫と私 

2016-10-13 | 観劇ライブ記
ツイッターで時々ぼやいているのだが、この夏、身近かつ強力なプレッシャーにより、
私はリトルグリーモンスターのパフォーマンスを見ざるを得ない状況になった。

「リトルグリーモンスター」=Little Glee Monster、通称「リトグリ」は
現役女子高生6人組(2016年時点)のボーカルユニットである。

私がこのグループをはっきり認識したのは、若手俳優オタク視聴率100%とも言われた
昨年のTBS系さわやか夏ドラマ「表参道高校合唱部」の主題歌「好きだ。」である。
それ以前もティーン誌やエンタメプッシュ枠で見かけたこともあったが、
名前を見て、おおさすが「Glee」(海外ドラマ。高校生たちがめっちゃ歌う)大ヒットの文脈を押さえるユニットも出てくるもんだなあ
ぬかりのない芸能界よ、という知ったかスタイルでやりすごしていた次第であった。

だので、主題歌として見かけた昨年も、
若手俳優好きとしては普通に
「ああそうか、城田優、志尊淳と同じナベプロなんだな、だから主題歌起用か。
 若々しくて合唱のテーマにもぴったりじゃん。いいね」
という認識ぐらいまでは到達し、
今年に入って
「ヒエーッ ソニーソンポ フゥーッ!!」
でネットの面白扱いに、普通に吹きだしていたりする、
というそんな一般テレビ視聴者だった。



そんな今年のある夏の日、突然夫が

「チケットがとりたい」

と言うのであった。

「リトグリのライブに行きたい」

ということであった。急な話だった。


それ以降、これまで生きるすべてのスタンスが「なんでもいい」という人間だった者が、
充血した眼で日々「リトグリ」と唱えるようになった。
おまえ去年オモコー見てたとき「芳根京子ちゃんかわいい」しか言うてなかったやんけ、
というこちらの思いをよそに、リトグリに夫がどんどんのめりこむ。

・深夜家に帰ってきた瞬間、パソコンを立ち上げて、
 リトグリの人たちがかつて出演していた「歌うまキッズ選手権」みたいな動画をあさる。

・夜中ふと目覚めて、あれ、「居間からズンドコズンドコ音がするなあ」と見に行くと、
 暗闇で「ジャングルブック」の主題歌「君のようになりたい」をエンドレスリピートで聞いている。

・私が「せいせいするほど愛してる」の録画を見ている横で
 「ワラーッ!ワラーハピーデーィイエーッ」という曲を大音量で聞く。
 「ひゅーりらー ひゅーるりらー」×「ワラーッ!ワラーハピーデーィイエーッ」の食い合わせはすごい。

・渋谷であった2マンライブにひとりで出かけ、ファンの女子中高生に混じってノリノリで楽しんでいる。

・リリースイベントで全員と写真が撮りたいからと、新曲のCDを6枚買う。

・いつのまにかワタナベエンターテイメントのファンクラブ組織に参加している。
 それにより、D−BOYS情報などにも通じるようになった。


このような流れの中で、私は9/3の日比谷野音、および翌週の静岡公演の観覧に帯同されることになった。
普段観劇ばかりの私は久しぶりに音楽ライブを見た。
感想はというと、端的に、パフォーマンスにとても魅了された。

彼女たちはアイドルではない。
ひとことでいえば女ゴスペラーズみたいなものなのだが、わりとそれどころではない。
10代特有のフレッシュな爆弾みたいなパワーを持ちながら、歌うときには技巧のフィルターをかけて絞り出してくる。
生絞り凝縮ジュースのような魅力のグループである。すごい訴求力なのだ。
私の現状好きな曲を一部紹介すると下記のようなところである。

「放課後ハイファイブ」
 デビュー曲。雰囲気がそこはかとなく「学園天国」だが、
 フェイクも無理なく入れられる少女たちのため、フィンガー5的なうまさがあり
 よく合っていると思う。

「小さな恋が、終わった」
 サビのハーモニーがすばらしい。ライブでは暗転の中での演出が効いてくる。

「私らしく生きてみたい」
 この夏の新曲であった。最初なんだか普通の曲だなと思っていたのだが、
 『可愛い女の子になりたい でもその前に自分らしく生きてみたい 好きなこと好きと言える私が好き』
 このフレーズにぐっときた。
 こういう、恋愛がどうこうとかいうよりも、等身大の自分の悩みに真摯に向き合う、みたいなのが
 リトグリっぽさであると思う。

なんというかつまり、泣いちゃう。んもう合格。(泣き女唯一の判定基準。)
曲の良さに対してタイトルのセンスがあんまりないんで、
これは制作陣になんとかしていただきたいところである。


ひとりひとりの魅力も、これだけ見ていると少しずつではあるが徐々に見えてくる。
まあ基本、全員ソロでも売れる歌のうまさ。しかも、それぞれ聞いてみると得意分野を感じるものの、
メインボーカルを取るときの声色は謎に似ているのがすごい。
だからハーモニーになってもまとまって聞こえてくるのかもしれない。
正直、女性グループで私が感情移入できたのは「SPEED」が最初で最後になるかな、
と思っていたけれど、20年を経て、彼女たちがその路線に入ってくるかもしれない。

私の思う彼女たちの特徴は 下記の通りであるが、また見ていくうちにわかってくる魅力もあるだろう。
(カッコ内はイメージカラー)
ちなみに名前表記に一貫性がないあたりがなんだか「それぞれの魅力を主張」という意思を感じる。


・かれん(ピンク)
 とくに実力者とみた。歌もダンスも、パフォーマンスに余裕がある。
 他の人があまり歌えない(?)低音を担当することが多く、メインは少な目。R&Bとかグリグリ歌えそう。
 「歌姫」世代だったらエイベックスがソロで売っていただろうなあ という感じ。でもグループで良いところが引き出されている気がする。

・麻珠(赤)
 かわいい。常に泣きそうな顔をしている。トゥーーン という感じで声が意外と強い。
 見てるとなんだか保護した気分になり泣いちゃう。
 多分、一般的に言うところの「リトグリ」のビジュアルイメージの中心地にいる気がする。

・芹奈(青)
 センター。メジャーでCDを売るならば彼女がセンターだよなあ、という感じ。
 アイドル売りの可能性が彼女から感じられる。歌声が応援団っぽい。メインボーカルの一人。

・manaka(紫)
 つよい(うまい)。メインボーカルの一人。
 エレファントカシマシのカバーを歌っても曲に全然負けていない。
 歌がない時代には多分、巫女とかになっていた感じのつよさ。一番若いけどいちばんつよい。
 MCをぐりぐりまわす。伊藤美誠ちゃんと友達とのこと。

・MAYU(緑)
 他のメンバーが濃いため、私は彼女とアサヒの見分けが最後までつかなかった。
 こないだわかった雰囲気としては「親近感担当」かもしれない。

・アサヒ(黄色)
 かわいくて不思議。ももクロでいうところの「れにちゃん」ポジションの人。
 MAYUもそうだが、比較的メインは少なめなのだが、
 そんな彼女でも既存のどのアイドルグループのメインボーカルより歌えている。
 つまりグループ自体の歌の歌え具合がハンパないので、相対的に後ろにまわりがち。


という、本気のガオラー(リトグリファン)からは怒られそうだがそんな印象である。

まあ各個人の天性も相当良い上におそらく相当な訓練を積んでいるため、
これから場数をさらにふんでどんどんと声にも深みが出て、力の抜き方も覚えて熟練されてくるだろうと思う。
なんせ彼女ら「世界をめざしたい」と言っているのである。
そしてこの能力と若さを考えれば、可能性は十分にあるだろう。

だからこそ、逆に全力フレッシュ生絞りあらごし的魅力は今しかみられず、貴重である。
今でも相当うまいんだけど、やっぱ人生経験が若いうちにだからこそ歌える歌があるじゃん。
応援団のような、声を枯らすような、喉のコンディションの後先を考えないような歌ですよ。
実際はそんな勢いで歌ってもぴんしゃんとしているところが「若さ」ですが。

そんなわけで、年始の日本武道館公演も観に行くことにしました。
全員高校生のうちに夢がひとつかなったよかったね。


まあとにかくうちにCDいっぱいあるので、ほしい人は会ったときにあげますね。

テニミュは高速伝統芸能(青学8代目の卒業に寄せて)

2016-10-06 | テニミュ
私がテニミュというものを認知し、見始めてはや5年。

今さらな話をするが、「ミュージカル『テニスの王子様』」=「テニミュ」は、
1公演ずつでも話は成立しているのだが、
大きな物語としては、主人公のいる中学校(青春学園中等部。東京のテニスの名門校。もちろん架空です。)が
テニス部団体戦の「全国大会優勝」を果たすまでの戦いを描いた連作で、

① VS不動峰中【地区大会決勝】
② VS聖ルドルフ学院【都大会】
③ VS山吹中【都大会決勝】
④ VS氷帝学園【関東大会】★
⑤ VS六角中【関東大会】★
⑥ VS立海大附属中【関東大会決勝】
⑦ VS比嘉中【全国大会】
⑧ VS氷帝学園【全国大会】☆
⑨ VS四天宝寺中学【全国大会準決勝】
⑩ VS立海大附属中【全国大会決勝】⭐︎

という、組曲のような構成になっている。
氷帝学園と立海大附属中は2回ずつ対戦する。いわゆる宿敵・人気の敵校である。

これを大体、夏休みシーズンと冬休みシーズンにかぶる日程で組まれた公演でこなしていくことになっている。
各公演、すべて2か月程度のロングランである。
2003年の初演から、「ファーストシーズン」は7年かけて、「セカンドシーズン」は4年かけて①から⑩を
それぞれ走り抜けた。

ちなみに私が初めて生で見た「テニミュ」は
2011年の冬にやっていた「セカンドシーズン」の⑤VS六角中学だったので、
そこから一旦⑩の決勝まで進んで話が終わり、
そして新たに2014年末より「サードシーズン」として①のVS不動峰中から始まって、
この夏④VS氷帝学園【関東大会】までたどりついたので、ようやく「物語を一周分生で見られた」ことになる。
そしてこのあとも、物語は続く。3度目の⑩に向かって「テニミュ」は走り続ける。


とにかく、ほかの「2.5次元もの」とテニミュが決定的に違うのは、
もはやこの舞台がひとつの「伝統芸能」の域に達していることなのではないか、と思う。

つまり、このように連作として繰り返し上演されているため、
新規客も毎度入ってくるとはいえ、
観客の多くは、「ストーリーおよび各キャラクターの役割」=「型」を知っている。
そしてこれまでに他の役者がどういうふうに演じてきたかもある程度知っている。
ひいきの役者やひいきの演目(や曲)を持っている(持っていた)人も多いし、
ミュージカルを知らなくても、「原作=マンガ」はとっつきやすく、理解度が非常に高い状況で客席につくことが可能である。
頭の中にあるひとつの「型」を、どのように今度は再現してくるのか、という目線が中心的である。

いっぽうで、観客(の大多数である女子)は決して舞台上には上がれない。
テニミュの舞台は「女人禁制」の世界、宝塚のような受験のチャンスすらはなからない。
自分達よりも明らかに「テニミュ知識」をもたない新しい素材が何も知らずに舞台に駆け上がっていくのを横目で見ながら、
ものすごい知識と熱意をもって、前のめりに応援をし続けることになる。
決して越えられない境界だが、その断絶感がまた、大きな魅力であるような気もする。

テニミュには例えば東宝の人気演目のように、
「公演数を重ねて出続ける、ベテラン俳優」は(ゲスト的な出演者除き)基本的にいない。
主役、わき役含めて、主要メンバーはあるタイミングでガサッと入れ替わる。
しかも、劇団四季のように「ある時期に「A」の役にキャスティングされた俳優が4名居て、ローテーション出演」
というようなことでもない。そのチームの顔ぶれは固定である。
つまり、ある時期が来たら、それに似合う真っ新な若者たちがまた選抜されキャスティングされ、
全員一気に着慣れない衣装を身に着けて舞台上にあらわれる。
彼らは苦戦しながらそれでもあっというまに役をのりこなし、一瞬のきらめきのように走り去っていくのだが、
その短い時間のうちに確かに何か芯のようなものを掴んでいるらしいことが垣間見えるのが、とても美しく、感動を呼ぶ。
物語の内容とは違うベクトルで、テニミュがドキュメンタリーとしての醍醐味を感じさせるというのはこういうところなのだと思う。
なんでもなかった若者が、短期間のうちに自覚をもってみるみる「仕立て上げられていく」様子は、
おそろしいほどの美しさと有無を言わさぬ説得力といえる。

そして、テニミュは男性アイドルを愛でる目線とも少し違うのだと思う。
アイドルを愛でる目線は、何があっても本人が可愛い、かっこいい というところで見続けられるものだと思うのだが、そうではないのだ。
もちろんパーソナリティももちろん重要な要素であるのだが、「いかに役になっているか」というところがないと
ピンとこない。それはテニミュではない。
衣装のジャージを着て有限の時間舞台上で役をまっとうしている姿が100点なのであって、
私にとってはやはり別物である。
楽しみ方のアウトプットが「綺麗な若者を見ながらキャーキャー言う」という形で共通なので
長年自分でもなんとなく同じようなものだと思っていたのだが、やはり違うということがわかった。




・・・というような屁理屈ポエムを、
先日(9/25)の氷帝公演大千秋楽のライブビューイングを滂沱の涙を流しつつ見ながら、改めて頭で吟じていたのである。

なんせ今公演は、メインビジュアルのコピーが「青学8代目卒業」であった。(対として「氷帝降臨」もあったが。)
「8代目」が「卒業」することが、認知させたい筆頭にくる事項であった。

2年間の集大成を見せつける、その最終公演。
全国だけではなく海外にまでライブビューイングで中継。
出演者は皆、見る限り最高のパフォーマンスを果たしていた。
基本に忠実に、丁寧にこなしていたと思う。
千秋楽で最高のものが出るというのはどういうわけだろうか、
非日常として動揺しないように、相当経験を積んだということなのだろう。
そんな中で演目のクライマックスに不測のハプニングがおこった。流血であった。
大写しになった鮮血に完全に動揺したのは私であり、観客であったと思う。
これまで滞りなく共有されてきたテニミュが、人間が実施しているなまものであることを否が応でも実感させられてしまった。
しかし試合は止まらなかった。すばらしい対応だった。フィクションが生きていた。ノンフィクションを凌駕した。
俳優陣は己を完全に役を走らせる「器」であることを受け入れて、それをまっとうしていた。
彼らはプロであった。決して「駆け出しのたよりない若手俳優」ではなかった。
制作陣も止めなかった。止めようがなかったのかもしれないが。あれだけ情報コントロールを図っているテニミュ制作チームも、
舞台上では出演者しかない。一か八かだったかもしれないが、盤石の信頼関係で鍛えられたチームだったのだろう。
そして最終的には、大団円のあとに涙のお別れを述べ、
座長はプロとして、先代がやっていたような「まんべんない会場すみずみへのファンサービス」を施して
「じゃあね」と去っていった。
圧倒的にプロフェッショナルのお仕事であった。


そして息つく暇なく、次には「青学9代目」となるべき人々が、その対戦相手が控えている。
それにしても、
歌舞伎や落語のように何十年、何100年かけて成立するはずのシステムが、
短期間で組み上げられてしまったことに、めちゃくちゃ参加している側にもかかわらず改めて驚愕している。
高速で受け取り、高速で実現し、高速で次につなぐ、恐るべき「高速伝統芸能」だ。
「つなぐ」ことに価値が置かれているものは、なんか凄みがある。
実績が根拠になり、しかも拠り所はありながらも常に挑戦されている。
出来上がってしまいながらも更新され続ける。


このように総論を語りたくなってしまうコンテンツはそうそうない。もう、すごい。めちゃくちゃ、美しい。
テニミュに出てる人みんな好き。テニミュを作っている人みんなすばらしい。
ということで、私は引き続き、テニミュに夢中の人生である。