私がテニミュというものを認知し、見始めてはや5年。
今さらな話をするが、「ミュージカル『テニスの王子様』」=「テニミュ」は、
1公演ずつでも話は成立しているのだが、
大きな物語としては、主人公のいる中学校(青春学園中等部。東京のテニスの名門校。もちろん架空です。)が
テニス部団体戦の「全国大会優勝」を果たすまでの戦いを描いた連作で、
① VS不動峰中【地区大会決勝】
② VS聖ルドルフ学院【都大会】
③ VS山吹中【都大会決勝】
④ VS氷帝学園【関東大会】★
⑤ VS六角中【関東大会】★
⑥ VS立海大附属中【関東大会決勝】
⑦ VS比嘉中【全国大会】
⑧ VS氷帝学園【全国大会】☆
⑨ VS四天宝寺中学【全国大会準決勝】
⑩ VS立海大附属中【全国大会決勝】⭐︎
という、組曲のような構成になっている。
氷帝学園と立海大附属中は2回ずつ対戦する。いわゆる宿敵・人気の敵校である。
これを大体、夏休みシーズンと冬休みシーズンにかぶる日程で組まれた公演でこなしていくことになっている。
各公演、すべて2か月程度のロングランである。
2003年の初演から、「ファーストシーズン」は7年かけて、「セカンドシーズン」は4年かけて①から⑩を
それぞれ走り抜けた。
ちなみに私が初めて生で見た「テニミュ」は
2011年の冬にやっていた「セカンドシーズン」の⑤VS六角中学だったので、
そこから一旦⑩の決勝まで進んで話が終わり、
そして新たに2014年末より「サードシーズン」として①のVS不動峰中から始まって、
この夏④VS氷帝学園【関東大会】までたどりついたので、ようやく「物語を一周分生で見られた」ことになる。
そしてこのあとも、物語は続く。3度目の⑩に向かって「テニミュ」は走り続ける。
とにかく、ほかの「2.5次元もの」とテニミュが決定的に違うのは、
もはやこの舞台がひとつの「伝統芸能」の域に達していることなのではないか、と思う。
つまり、このように連作として繰り返し上演されているため、
新規客も毎度入ってくるとはいえ、
観客の多くは、「ストーリーおよび各キャラクターの役割」=「型」を知っている。
そしてこれまでに他の役者がどういうふうに演じてきたかもある程度知っている。
ひいきの役者やひいきの演目(や曲)を持っている(持っていた)人も多いし、
ミュージカルを知らなくても、「原作=マンガ」はとっつきやすく、理解度が非常に高い状況で客席につくことが可能である。
頭の中にあるひとつの「型」を、どのように今度は再現してくるのか、という目線が中心的である。
いっぽうで、観客(の大多数である女子)は決して舞台上には上がれない。
テニミュの舞台は「女人禁制」の世界、宝塚のような受験のチャンスすらはなからない。
自分達よりも明らかに「テニミュ知識」をもたない新しい素材が何も知らずに舞台に駆け上がっていくのを横目で見ながら、
ものすごい知識と熱意をもって、前のめりに応援をし続けることになる。
決して越えられない境界だが、その断絶感がまた、大きな魅力であるような気もする。
テニミュには例えば東宝の人気演目のように、
「公演数を重ねて出続ける、ベテラン俳優」は(ゲスト的な出演者除き)基本的にいない。
主役、わき役含めて、主要メンバーはあるタイミングでガサッと入れ替わる。
しかも、劇団四季のように「ある時期に「A」の役にキャスティングされた俳優が4名居て、ローテーション出演」
というようなことでもない。そのチームの顔ぶれは固定である。
つまり、ある時期が来たら、それに似合う真っ新な若者たちがまた選抜されキャスティングされ、
全員一気に着慣れない衣装を身に着けて舞台上にあらわれる。
彼らは苦戦しながらそれでもあっというまに役をのりこなし、一瞬のきらめきのように走り去っていくのだが、
その短い時間のうちに確かに何か芯のようなものを掴んでいるらしいことが垣間見えるのが、とても美しく、感動を呼ぶ。
物語の内容とは違うベクトルで、テニミュがドキュメンタリーとしての醍醐味を感じさせるというのはこういうところなのだと思う。
なんでもなかった若者が、短期間のうちに自覚をもってみるみる「仕立て上げられていく」様子は、
おそろしいほどの美しさと有無を言わさぬ説得力といえる。
そして、テニミュは男性アイドルを愛でる目線とも少し違うのだと思う。
アイドルを愛でる目線は、何があっても本人が可愛い、かっこいい というところで見続けられるものだと思うのだが、そうではないのだ。
もちろんパーソナリティももちろん重要な要素であるのだが、「いかに役になっているか」というところがないと
ピンとこない。それはテニミュではない。
衣装のジャージを着て有限の時間舞台上で役をまっとうしている姿が100点なのであって、
私にとってはやはり別物である。
楽しみ方のアウトプットが「綺麗な若者を見ながらキャーキャー言う」という形で共通なので
長年自分でもなんとなく同じようなものだと思っていたのだが、やはり違うということがわかった。
・・・というような屁理屈ポエムを、
先日(9/25)の氷帝公演大千秋楽のライブビューイングを滂沱の涙を流しつつ見ながら、改めて頭で吟じていたのである。
なんせ今公演は、メインビジュアルのコピーが「青学8代目卒業」であった。(対として「氷帝降臨」もあったが。)
「8代目」が「卒業」することが、認知させたい筆頭にくる事項であった。
2年間の集大成を見せつける、その最終公演。
全国だけではなく海外にまでライブビューイングで中継。
出演者は皆、見る限り最高のパフォーマンスを果たしていた。
基本に忠実に、丁寧にこなしていたと思う。
千秋楽で最高のものが出るというのはどういうわけだろうか、
非日常として動揺しないように、相当経験を積んだということなのだろう。
そんな中で演目のクライマックスに不測のハプニングがおこった。流血であった。
大写しになった鮮血に完全に動揺したのは私であり、観客であったと思う。
これまで滞りなく共有されてきたテニミュが、人間が実施しているなまものであることを否が応でも実感させられてしまった。
しかし試合は止まらなかった。すばらしい対応だった。フィクションが生きていた。ノンフィクションを凌駕した。
俳優陣は己を完全に役を走らせる「器」であることを受け入れて、それをまっとうしていた。
彼らはプロであった。決して「駆け出しのたよりない若手俳優」ではなかった。
制作陣も止めなかった。止めようがなかったのかもしれないが。あれだけ情報コントロールを図っているテニミュ制作チームも、
舞台上では出演者しかない。一か八かだったかもしれないが、盤石の信頼関係で鍛えられたチームだったのだろう。
そして最終的には、大団円のあとに涙のお別れを述べ、
座長はプロとして、先代がやっていたような「まんべんない会場すみずみへのファンサービス」を施して
「じゃあね」と去っていった。
圧倒的にプロフェッショナルのお仕事であった。
そして息つく暇なく、次には「青学9代目」となるべき人々が、その対戦相手が控えている。
それにしても、
歌舞伎や落語のように何十年、何100年かけて成立するはずのシステムが、
短期間で組み上げられてしまったことに、めちゃくちゃ参加している側にもかかわらず改めて驚愕している。
高速で受け取り、高速で実現し、高速で次につなぐ、恐るべき「高速伝統芸能」だ。
「つなぐ」ことに価値が置かれているものは、なんか凄みがある。
実績が根拠になり、しかも拠り所はありながらも常に挑戦されている。
出来上がってしまいながらも更新され続ける。
このように総論を語りたくなってしまうコンテンツはそうそうない。もう、すごい。めちゃくちゃ、美しい。
テニミュに出てる人みんな好き。テニミュを作っている人みんなすばらしい。
ということで、私は引き続き、テニミュに夢中の人生である。
今さらな話をするが、「ミュージカル『テニスの王子様』」=「テニミュ」は、
1公演ずつでも話は成立しているのだが、
大きな物語としては、主人公のいる中学校(青春学園中等部。東京のテニスの名門校。もちろん架空です。)が
テニス部団体戦の「全国大会優勝」を果たすまでの戦いを描いた連作で、
① VS不動峰中【地区大会決勝】
② VS聖ルドルフ学院【都大会】
③ VS山吹中【都大会決勝】
④ VS氷帝学園【関東大会】★
⑤ VS六角中【関東大会】★
⑥ VS立海大附属中【関東大会決勝】
⑦ VS比嘉中【全国大会】
⑧ VS氷帝学園【全国大会】☆
⑨ VS四天宝寺中学【全国大会準決勝】
⑩ VS立海大附属中【全国大会決勝】⭐︎
という、組曲のような構成になっている。
氷帝学園と立海大附属中は2回ずつ対戦する。いわゆる宿敵・人気の敵校である。
これを大体、夏休みシーズンと冬休みシーズンにかぶる日程で組まれた公演でこなしていくことになっている。
各公演、すべて2か月程度のロングランである。
2003年の初演から、「ファーストシーズン」は7年かけて、「セカンドシーズン」は4年かけて①から⑩を
それぞれ走り抜けた。
ちなみに私が初めて生で見た「テニミュ」は
2011年の冬にやっていた「セカンドシーズン」の⑤VS六角中学だったので、
そこから一旦⑩の決勝まで進んで話が終わり、
そして新たに2014年末より「サードシーズン」として①のVS不動峰中から始まって、
この夏④VS氷帝学園【関東大会】までたどりついたので、ようやく「物語を一周分生で見られた」ことになる。
そしてこのあとも、物語は続く。3度目の⑩に向かって「テニミュ」は走り続ける。
とにかく、ほかの「2.5次元もの」とテニミュが決定的に違うのは、
もはやこの舞台がひとつの「伝統芸能」の域に達していることなのではないか、と思う。
つまり、このように連作として繰り返し上演されているため、
新規客も毎度入ってくるとはいえ、
観客の多くは、「ストーリーおよび各キャラクターの役割」=「型」を知っている。
そしてこれまでに他の役者がどういうふうに演じてきたかもある程度知っている。
ひいきの役者やひいきの演目(や曲)を持っている(持っていた)人も多いし、
ミュージカルを知らなくても、「原作=マンガ」はとっつきやすく、理解度が非常に高い状況で客席につくことが可能である。
頭の中にあるひとつの「型」を、どのように今度は再現してくるのか、という目線が中心的である。
いっぽうで、観客(の大多数である女子)は決して舞台上には上がれない。
テニミュの舞台は「女人禁制」の世界、宝塚のような受験のチャンスすらはなからない。
自分達よりも明らかに「テニミュ知識」をもたない新しい素材が何も知らずに舞台に駆け上がっていくのを横目で見ながら、
ものすごい知識と熱意をもって、前のめりに応援をし続けることになる。
決して越えられない境界だが、その断絶感がまた、大きな魅力であるような気もする。
テニミュには例えば東宝の人気演目のように、
「公演数を重ねて出続ける、ベテラン俳優」は(ゲスト的な出演者除き)基本的にいない。
主役、わき役含めて、主要メンバーはあるタイミングでガサッと入れ替わる。
しかも、劇団四季のように「ある時期に「A」の役にキャスティングされた俳優が4名居て、ローテーション出演」
というようなことでもない。そのチームの顔ぶれは固定である。
つまり、ある時期が来たら、それに似合う真っ新な若者たちがまた選抜されキャスティングされ、
全員一気に着慣れない衣装を身に着けて舞台上にあらわれる。
彼らは苦戦しながらそれでもあっというまに役をのりこなし、一瞬のきらめきのように走り去っていくのだが、
その短い時間のうちに確かに何か芯のようなものを掴んでいるらしいことが垣間見えるのが、とても美しく、感動を呼ぶ。
物語の内容とは違うベクトルで、テニミュがドキュメンタリーとしての醍醐味を感じさせるというのはこういうところなのだと思う。
なんでもなかった若者が、短期間のうちに自覚をもってみるみる「仕立て上げられていく」様子は、
おそろしいほどの美しさと有無を言わさぬ説得力といえる。
そして、テニミュは男性アイドルを愛でる目線とも少し違うのだと思う。
アイドルを愛でる目線は、何があっても本人が可愛い、かっこいい というところで見続けられるものだと思うのだが、そうではないのだ。
もちろんパーソナリティももちろん重要な要素であるのだが、「いかに役になっているか」というところがないと
ピンとこない。それはテニミュではない。
衣装のジャージを着て有限の時間舞台上で役をまっとうしている姿が100点なのであって、
私にとってはやはり別物である。
楽しみ方のアウトプットが「綺麗な若者を見ながらキャーキャー言う」という形で共通なので
長年自分でもなんとなく同じようなものだと思っていたのだが、やはり違うということがわかった。
・・・というような屁理屈ポエムを、
先日(9/25)の氷帝公演大千秋楽のライブビューイングを滂沱の涙を流しつつ見ながら、改めて頭で吟じていたのである。
なんせ今公演は、メインビジュアルのコピーが「青学8代目卒業」であった。(対として「氷帝降臨」もあったが。)
「8代目」が「卒業」することが、認知させたい筆頭にくる事項であった。
2年間の集大成を見せつける、その最終公演。
全国だけではなく海外にまでライブビューイングで中継。
出演者は皆、見る限り最高のパフォーマンスを果たしていた。
基本に忠実に、丁寧にこなしていたと思う。
千秋楽で最高のものが出るというのはどういうわけだろうか、
非日常として動揺しないように、相当経験を積んだということなのだろう。
そんな中で演目のクライマックスに不測のハプニングがおこった。流血であった。
大写しになった鮮血に完全に動揺したのは私であり、観客であったと思う。
これまで滞りなく共有されてきたテニミュが、人間が実施しているなまものであることを否が応でも実感させられてしまった。
しかし試合は止まらなかった。すばらしい対応だった。フィクションが生きていた。ノンフィクションを凌駕した。
俳優陣は己を完全に役を走らせる「器」であることを受け入れて、それをまっとうしていた。
彼らはプロであった。決して「駆け出しのたよりない若手俳優」ではなかった。
制作陣も止めなかった。止めようがなかったのかもしれないが。あれだけ情報コントロールを図っているテニミュ制作チームも、
舞台上では出演者しかない。一か八かだったかもしれないが、盤石の信頼関係で鍛えられたチームだったのだろう。
そして最終的には、大団円のあとに涙のお別れを述べ、
座長はプロとして、先代がやっていたような「まんべんない会場すみずみへのファンサービス」を施して
「じゃあね」と去っていった。
圧倒的にプロフェッショナルのお仕事であった。
そして息つく暇なく、次には「青学9代目」となるべき人々が、その対戦相手が控えている。
それにしても、
歌舞伎や落語のように何十年、何100年かけて成立するはずのシステムが、
短期間で組み上げられてしまったことに、めちゃくちゃ参加している側にもかかわらず改めて驚愕している。
高速で受け取り、高速で実現し、高速で次につなぐ、恐るべき「高速伝統芸能」だ。
「つなぐ」ことに価値が置かれているものは、なんか凄みがある。
実績が根拠になり、しかも拠り所はありながらも常に挑戦されている。
出来上がってしまいながらも更新され続ける。
このように総論を語りたくなってしまうコンテンツはそうそうない。もう、すごい。めちゃくちゃ、美しい。
テニミュに出てる人みんな好き。テニミュを作っている人みんなすばらしい。
ということで、私は引き続き、テニミュに夢中の人生である。