スカーレット手帖

機嫌のいい観客

テニミュは高速伝統芸能(青学8代目の卒業に寄せて)

2016-10-06 | テニミュ
私がテニミュというものを認知し、見始めてはや5年。

今さらな話をするが、「ミュージカル『テニスの王子様』」=「テニミュ」は、
1公演ずつでも話は成立しているのだが、
大きな物語としては、主人公のいる中学校(青春学園中等部。東京のテニスの名門校。もちろん架空です。)が
テニス部団体戦の「全国大会優勝」を果たすまでの戦いを描いた連作で、

① VS不動峰中【地区大会決勝】
② VS聖ルドルフ学院【都大会】
③ VS山吹中【都大会決勝】
④ VS氷帝学園【関東大会】★
⑤ VS六角中【関東大会】★
⑥ VS立海大附属中【関東大会決勝】
⑦ VS比嘉中【全国大会】
⑧ VS氷帝学園【全国大会】☆
⑨ VS四天宝寺中学【全国大会準決勝】
⑩ VS立海大附属中【全国大会決勝】⭐︎

という、組曲のような構成になっている。
氷帝学園と立海大附属中は2回ずつ対戦する。いわゆる宿敵・人気の敵校である。

これを大体、夏休みシーズンと冬休みシーズンにかぶる日程で組まれた公演でこなしていくことになっている。
各公演、すべて2か月程度のロングランである。
2003年の初演から、「ファーストシーズン」は7年かけて、「セカンドシーズン」は4年かけて①から⑩を
それぞれ走り抜けた。

ちなみに私が初めて生で見た「テニミュ」は
2011年の冬にやっていた「セカンドシーズン」の⑤VS六角中学だったので、
そこから一旦⑩の決勝まで進んで話が終わり、
そして新たに2014年末より「サードシーズン」として①のVS不動峰中から始まって、
この夏④VS氷帝学園【関東大会】までたどりついたので、ようやく「物語を一周分生で見られた」ことになる。
そしてこのあとも、物語は続く。3度目の⑩に向かって「テニミュ」は走り続ける。


とにかく、ほかの「2.5次元もの」とテニミュが決定的に違うのは、
もはやこの舞台がひとつの「伝統芸能」の域に達していることなのではないか、と思う。

つまり、このように連作として繰り返し上演されているため、
新規客も毎度入ってくるとはいえ、
観客の多くは、「ストーリーおよび各キャラクターの役割」=「型」を知っている。
そしてこれまでに他の役者がどういうふうに演じてきたかもある程度知っている。
ひいきの役者やひいきの演目(や曲)を持っている(持っていた)人も多いし、
ミュージカルを知らなくても、「原作=マンガ」はとっつきやすく、理解度が非常に高い状況で客席につくことが可能である。
頭の中にあるひとつの「型」を、どのように今度は再現してくるのか、という目線が中心的である。

いっぽうで、観客(の大多数である女子)は決して舞台上には上がれない。
テニミュの舞台は「女人禁制」の世界、宝塚のような受験のチャンスすらはなからない。
自分達よりも明らかに「テニミュ知識」をもたない新しい素材が何も知らずに舞台に駆け上がっていくのを横目で見ながら、
ものすごい知識と熱意をもって、前のめりに応援をし続けることになる。
決して越えられない境界だが、その断絶感がまた、大きな魅力であるような気もする。

テニミュには例えば東宝の人気演目のように、
「公演数を重ねて出続ける、ベテラン俳優」は(ゲスト的な出演者除き)基本的にいない。
主役、わき役含めて、主要メンバーはあるタイミングでガサッと入れ替わる。
しかも、劇団四季のように「ある時期に「A」の役にキャスティングされた俳優が4名居て、ローテーション出演」
というようなことでもない。そのチームの顔ぶれは固定である。
つまり、ある時期が来たら、それに似合う真っ新な若者たちがまた選抜されキャスティングされ、
全員一気に着慣れない衣装を身に着けて舞台上にあらわれる。
彼らは苦戦しながらそれでもあっというまに役をのりこなし、一瞬のきらめきのように走り去っていくのだが、
その短い時間のうちに確かに何か芯のようなものを掴んでいるらしいことが垣間見えるのが、とても美しく、感動を呼ぶ。
物語の内容とは違うベクトルで、テニミュがドキュメンタリーとしての醍醐味を感じさせるというのはこういうところなのだと思う。
なんでもなかった若者が、短期間のうちに自覚をもってみるみる「仕立て上げられていく」様子は、
おそろしいほどの美しさと有無を言わさぬ説得力といえる。

そして、テニミュは男性アイドルを愛でる目線とも少し違うのだと思う。
アイドルを愛でる目線は、何があっても本人が可愛い、かっこいい というところで見続けられるものだと思うのだが、そうではないのだ。
もちろんパーソナリティももちろん重要な要素であるのだが、「いかに役になっているか」というところがないと
ピンとこない。それはテニミュではない。
衣装のジャージを着て有限の時間舞台上で役をまっとうしている姿が100点なのであって、
私にとってはやはり別物である。
楽しみ方のアウトプットが「綺麗な若者を見ながらキャーキャー言う」という形で共通なので
長年自分でもなんとなく同じようなものだと思っていたのだが、やはり違うということがわかった。




・・・というような屁理屈ポエムを、
先日(9/25)の氷帝公演大千秋楽のライブビューイングを滂沱の涙を流しつつ見ながら、改めて頭で吟じていたのである。

なんせ今公演は、メインビジュアルのコピーが「青学8代目卒業」であった。(対として「氷帝降臨」もあったが。)
「8代目」が「卒業」することが、認知させたい筆頭にくる事項であった。

2年間の集大成を見せつける、その最終公演。
全国だけではなく海外にまでライブビューイングで中継。
出演者は皆、見る限り最高のパフォーマンスを果たしていた。
基本に忠実に、丁寧にこなしていたと思う。
千秋楽で最高のものが出るというのはどういうわけだろうか、
非日常として動揺しないように、相当経験を積んだということなのだろう。
そんな中で演目のクライマックスに不測のハプニングがおこった。流血であった。
大写しになった鮮血に完全に動揺したのは私であり、観客であったと思う。
これまで滞りなく共有されてきたテニミュが、人間が実施しているなまものであることを否が応でも実感させられてしまった。
しかし試合は止まらなかった。すばらしい対応だった。フィクションが生きていた。ノンフィクションを凌駕した。
俳優陣は己を完全に役を走らせる「器」であることを受け入れて、それをまっとうしていた。
彼らはプロであった。決して「駆け出しのたよりない若手俳優」ではなかった。
制作陣も止めなかった。止めようがなかったのかもしれないが。あれだけ情報コントロールを図っているテニミュ制作チームも、
舞台上では出演者しかない。一か八かだったかもしれないが、盤石の信頼関係で鍛えられたチームだったのだろう。
そして最終的には、大団円のあとに涙のお別れを述べ、
座長はプロとして、先代がやっていたような「まんべんない会場すみずみへのファンサービス」を施して
「じゃあね」と去っていった。
圧倒的にプロフェッショナルのお仕事であった。


そして息つく暇なく、次には「青学9代目」となるべき人々が、その対戦相手が控えている。
それにしても、
歌舞伎や落語のように何十年、何100年かけて成立するはずのシステムが、
短期間で組み上げられてしまったことに、めちゃくちゃ参加している側にもかかわらず改めて驚愕している。
高速で受け取り、高速で実現し、高速で次につなぐ、恐るべき「高速伝統芸能」だ。
「つなぐ」ことに価値が置かれているものは、なんか凄みがある。
実績が根拠になり、しかも拠り所はありながらも常に挑戦されている。
出来上がってしまいながらも更新され続ける。


このように総論を語りたくなってしまうコンテンツはそうそうない。もう、すごい。めちゃくちゃ、美しい。
テニミュに出てる人みんな好き。テニミュを作っている人みんなすばらしい。
ということで、私は引き続き、テニミュに夢中の人生である。

テニミュ氷帝 ー驚愕の踊る若様跡部と周到な八代目引退興行ー

2016-07-26 | テニミュ
さて、氷帝である。
テニミュ、14年目の氷帝である。
東京公演に行ってきたよ。(7/15そして7/23昼夜)



とにかく今回は「踊る跡部」なのである。
それも尋常でなく踊るのである。
17才、バレエダンサー、跡部である。
すごい。
全然、先代をなぞっていない。
14年を経ても決して攻めの姿勢を忘れないテニミュには
だからこそ幅広い人材が集まってくるのかもしれない。

圧倒的に踊る、というか、舞う。
先代跡部の青木くんは圧倒的に顔面が綺麗でその点でひれ伏してしまうタイプの跡部だったが、
サードシーズンの跡部は圧倒的な舞踊型である。
あんなに手先足先まで神経が通っていて優美な動き、目を離したら3回転ぐらいしている人間には
ひれ伏すしかない、ということである。
やはり跡部は一点圧倒的ということが必要なのか。
演じる三浦宏規くんは、昨年「恋ブロ」で『もうすぐ17才』を歌い踊っていた少年である。
見ていてよかった若手俳優。

そして、17才はすばらしい。
顔も、舞い踊る姿も美しさのなかに幼さが香り、何よりも強いオーラになっている。
これまでのイメージにもまして、跡部の「若様」感がすごいのである。
樺地を引き連れている理由がわかるのだ。
「血統がよく、今後のポテンシャルにも多くの期待が持てるが、
 まだ一人で市中に解き放つのには心配になる若さなので、ボディーガードがついている」
という感じがすごくする。

そして特筆すべきは、すごく良い樺地だということだ。樺地がすごい。単体でも良いし、跡部とのバランスもよい。
若様跡部の味わいを引き出すキャスティングと演技指導、そして何より本人の資質に乾杯。演じるは八巻貴紀。
何を考えて樺地像を作り上げて来ているのか、ヒアリングに入りたい。
一緒に観劇に行った友人と「サードシーズンは跡部=牛若丸、樺地=弁慶」説にたどり着き、
ものすごい勢いで腑に落ちた。
多分、これもやっていくうちにバランスが変わってくる可能性があるので、
早めに見ておいてほしい。

あとの氷帝メンバーは、今の所申し訳ない、まだ目に入ってこない。
歌が音程リズムともとても難しそうで、懸命に食らいついているというのはわかる。
テニミュも14年ともなると、あらゆる王道メロディーは出尽くしたのか、
混み入った曲が増えるのだな。



さらに、青学で言っておきたいのは、
「きたか、中の人折り込みソング」である。
古田一紀である。
卒業祝いである。

・何もわからずラケットを振っていた時もベストテンションだった
 →オーディション?合宿?

・初めてコートに立ったとき、緊張したけど嬉しかったぜ
 →お披露目?不動峰初日?
 ※リョーマは多分緊張しないんじゃないかと思うので、
  初見時、ここで私は歌詞の違和感に気づいたのだった。

・それから繰り返している毎日、1日たりとも気を抜いたことはない、いつもベストテンションだぜ
 →それって、リョーマを極めて馴れ合わないように敢えて共演者とべたべたしないようにしてみたり、
  マチソワの間の過ごし方と睡眠のパターンをいろいろ検証して自分の最適解を見つけ出そうとしたりしていた
  古田一紀物語じゃないのか…

・スイッチは完全にオン
 →ねつしかねえ

バラードでしみじみとあの日の幻を振り返った2年前の小越勇輝卒業物語とはまた違う、
疾走感とつんのめり感の中に隠した達成の喜びの香りに、おばちゃん(私である)は泣いてしまう。
そして(あくまで場面との合致点を歌詞にしてるとはいえ)
そんな前向きな歌詞を振ってもらえるほどには、
古田氏もスタッフ陣に認められた座長になっていたのかなと思うと、涙が止まりませんよ。
セカンドシーズンの完璧リョーマの後任という、誰も怯むであろうポジションに対し、
野生の越前リョーマらしきものを捕獲してきた、という感じに
シーズン当初から期待と不安の両方を抱きながら見つめてきたが、
「自覚的なつもりで、抗いながらもいつのまにかテニミュの文脈の中心に飲み込まれていく主演俳優」の面白さという
新しい楽しみ方(逆にアイドルドキュメンタリーのようでもあった)を提供してくれた古田リョーマの
また一つのゴールを見届けることができそうで感無量であります。
※そういうブランディングもテニミュ側がやっているような気もするけど。おもしれえな。

そして、まだ聴けていないけどやはり青春学園の学校としての卒業ソングもあるようで。
これはまた楽しみにしておきます。

満を持して公式試合の手塚渾身の「一騎討ち」(ザイキいよいよ本領発揮である。さすが演歌事務所の若手)や、
フィナーレの「Do Your Best」(名曲すぎる)、
そもそも曲として泣いてしまう「夢をつなげ」(8代目のゴールデンペアが大好きな私だ)、
冒頭のストレートすぎるM1「オールフォーテニス」(すばらしいM1)など、
のっけから最後までまあ本当にこれでもかと卒業祝え、泣け、という周到な製作陣の意思をビンビンと感じる
サード関東氷帝である。
そしてまんまとそのフォーマット通りに泣いてしまう自分も愚か者め、という感じだが
いつものことだがテニミュには泣きに行っているようなものなので、
9月末の終幕まで、あと何回泣きに架空の関東大会の参観に行けるのか、自分でも非常に楽しみである。
目元の化粧は控えめにして、可能な限り劇場に足を運びたい。



みんな、テニミュ見てね。

テニミュ 山吹 ー意外すぎた「激情」ー

2016-02-16 | テニミュ
厳しさの中の楽しさ 激しさに秘めた喜び
テニスという名のワンダーランド 作り上げるのは 我ら
苦しさの中のきらめき 激情に秘めた微笑み
テニスという名のミラクルワールド 駆け抜けて行くは我ら

(山吹・新校歌)



どうも皆様、御無沙汰しておりますね。
テニミュ見ましたか。サードの山吹見ましたかね。
刮目して見ましたかね。シャカリキ? ファイト? ブンブン??
私は東京公演2回、凱旋2回見ております。今回はまあ年末年始に多忙な日々を挟んでそこそこのペースですが、
相変わらず、テニミュは観劇のたびにエンジン全開、コスパ満点、涙腺崩壊で
私の暮らしにおけるオアシスとして絶対的な位置を占めています。
息を吸うようにTDCホールに行こう、実家よりもくつろぐ1バルに座ろう、
アンコールで一人で踊ろう、お見送りで血圧あげよう、もう本当に毎回、会場を出てから
JRの水道橋駅に着くまでの記憶があまりないんですよね。胸がいっぱいすぎて。
テニミュにおけるトランス症状は本当にもうしみじみとすごい。


今回の相手は山吹中学です。8代目ももう3試合目でございます。
山吹中、私は、
テニミュにおけるチームとしてはなんというかあまり作為感というか、特徴のないチームだな
という気がするのです。
テニプリの原作を愛している人には怒られるかもしれないけど、
デコボコ感がある。「総じて⚪︎⚪︎」という特徴がちょっと言いづらい。

例えば、
テニミュにおける校風として自分が感じるところは以下のものです。
(セカンドからしか見てないからねってのもございますがね)

青学は「さわやか」
不動峰は「不屈」
ルドルフは「耽美」
氷帝は「帝国」
六角は「自然児」
比嘉は「ヒール」
四天宝寺は「面白」
立海は「王者」

結構校風が立ってますよ。
その中で見ると、どちらかというと序盤にやってくる山吹中は、集団としての脅威はあまり感じない。
「ラッキー千石」とかいうイケメン設定のはずのコメディ成分を含んだキャラクター、
そして「亜久津」という圧倒的不良にしてリョーマ個人の大きな壁になる化け物
これは立っているんだけど、

あとは、地味な主将ペアと、自己評価の低い一年生と、千石さんファンのサングラスマンと、
テニミュでは今回初登場の頭に芽の生えた人と顔にうずまきのついた人のそこそこ強いペア
という、この謎のバラバラ感ですよ。
実は都大会決勝なんで、なかなかのレベルのはずなんですけどね。
強烈に目にしみる緑色のユニフォームにもかかわらず、音感からは黄色みを連想する「山吹」という名前の
強めのカラーイメージが一番前面に感じるチームでございます。


そして、テニミュにおける山吹はとにかく、基本的に亜久津が歌に参加しない。
一匹狼だから、チームの歌をみんなで歌っていても、
意味ありげに途中で横切っていったり、
合間に「俺に指図するな」という勝手な合いの手を入れて
一人だけ違うダンスをする。
パワーとしてはマイナス1、いや、インパクトも考えるとマイナス2・5~3ぐらいのパワーです。
そして、やる気はすごくあるけど、選手として参加してない、自意識の強い1年生マネージャー檀君。
彼は戦力としては7掛けぐらいのものです。

つまり、今回初参加となった芽の人とうずまきの人を入れて
8人いるんですけど、

・ラッキー千石
・ジミーズ南
・ジミーズ東方
・うずまき
・芽
・サングラスの人
ーーーーーーーーーー ここまで参加意欲のある正戦力
・自意識マネージャー
ーーーーーーーーーー ここまで参加意欲のあるサブ戦力
・不良の亜久津    ←ものすごい負の人


正味6.7人分-3人分(亜久津)=約4人分ぐらいのチームパワー

ということですよ、山吹は。かなりざっくりですけど、この体感値間違っていないはずですわ。



さて、そんな、個々はともかくチームとしてはどうなのよ、という山吹の
テニミュにおける新しい校歌が、今回登場しています。(冒頭へ戻る)

びっくりした。

そんな以外にも強い思いでこの人たちはテニスをやっていたのか。
地味なのに。
訓練していたのか。鍛えていたのか。激情を秘めていたのか。
苦しさの中にきらめきを見出そうとしていたのか。
この、ある意味「どぎつい」校歌が、私は今公演、とても胸に刺さっております。
「テニスという名のミラクルワールド」というフレーズも良いですね。
他校にありがちな「絶対勝つ」とかいう悲壮感、「俺たちは負けられない」とかいうプライド、
「あとがない」というピンチ感、「一歩先へ」という向上促進感、「楽しもう」という日本代表応援みたいなはしゃぎ感
などはどれもないのですが、
真面目に、地味にしっかり、激情に向かっていっていたのか と思いました。
山吹はすごいんだよ。

山吹公演といえば、「ラッキー千石」「勇気VS意地」など、
場面を思い起こす、印象深い名曲があるものですが、
新曲の校歌がこんなに胸にグッとくるとは思わなかったなあ。

あとは、「輝け、もっと」 この曲は毎回泣いてしまう。
負けにも等しく人生があることを感じさせられ、泣いてしまうんですよ。
「負けるもんか 僕たちだって あいつらと 同じさ」(あいつら=勝者青学)
ここを歌う壇くん役の佐野くんがとてもいいです。

役者陣の話でいうと、ジミーズは歌上手い、新登場の二人もやたらと安定感ある。
逆に初回の観劇では亜久津とラッキー千石がどうにも物足りねえ抑揚ねえ
と思っていましたが、
凱旋で見たら亜久津は1回、ラッキー千石は2回ぐらい脱皮している様子が見受けられて
とてもすごく感動しました。これぞテニミュよ。

ルドルフのチームはとてもいいバランスだ。チームライブに行きたい。

青学は貫禄が出てきた。時々、古田くんの発声が小越くんにそっくりでゾッとする。
ゴールデンペアがすごくよかった。いいペアだ。8代目のゴールデンペアは、なんだか関係性がカラッとしている。好みです。
毎回思いますが、キャスティングの人はすごいな。

まーほんと、今回もいろいろと感想はありますが、
本当に、ブログを見てくれた人に言いたいことはこれです。


一刻も早く、テニミュ見てください。

テニミュサードルドルフ初日を見たよ

2015-09-06 | テニミュ
5日に始まりました、
サードシーズン2作目「VS聖ルドルフ」初日の1公演目をさっそく見てきた。

初日と大千秋楽のチケットだけ押さえる、という
我ながら関係者風の取り方をしてしまった感のあるスタートでしたが、
もうチケット、じゃんじゃか増やしたい気分でいっぱいだ。
思ったことをなんの遠慮もなく書きますね。


まじ半端ない青学の動きのキレの上達
→ダンスの手数も増えているはずなのに、
 7代目の氷帝公演ぐらいの動き方に見えました。
 まじ半端ない上達。
 bpmが足らん、リズムと動きが合ってないと思っていた
 不動峰プレビューの感想とは別人のようだ。
 テニミュって、オーディションも教育も両方すごいんだな、と思った。

まじ半端ない古田リョーマののびのびし加減
→ほんとうに、不動峰では彼はどれだけ緊張していたのかと思う、のびやかな動きだ。
 本領発揮しはじめたのか、ポテンシャルだったのか。
 演技もそうだし、歌がのびのびしている。
 役が「板についていく過程」というのを観れるのは素晴らしい。

まじ半端ない不動峰の安定感
→橘伊武神尾の「3巨頭」感すごい。
 試合中はのこり4名がベンチ組でずっと盛り上げているけど安定感ある。
 客席降りもお見送りでも「橘サァン」という気持ちになるから
 不動峰すごい。

まじ半端ない観月さんセリフ聞き取りやすい
→観月さんいいじゃないの観月さん。
 セリフが聞き取りやすかった。
 「んふっ」の解釈がこばゆた氏とは違ってナチュラルだが
 その分偏差値が高そうで、さらに悲壮感のある観月さんで、好みだな。

まじ半端ない裕太の新曲
→ネタバレですが「俺の名前で、呼べ!」
 うわ! 出た!!
 と言いたくなる、テニミュトンチキソングだ。すばらしい。
 振り付けも含めてすばらしい。
 中2病真っ最中の中学2年生のゆうたくんの心境がまっすぐに綴られている。
 この曲を貰えた大原くん、めちゃくちゃおいしいぞ。
 公演を通じてどう仕上がっていくのか楽しみですね。
 大原くん、個人的にはフレッシュな海の幸みたいな雰囲気に見えました。

まじ半端ないノムタクの存在
→おいしいしかないぞ、ノムタク。
 ベンチでおろおろ、チームメートに耳打ちされておろおろ、
 裕太のアップに付き合ってボール当てられそうになっておろおろ、
 とても楽しそうだ。なんだか演技もうまそうなので、期待。


演出面の話行きますね

まじ半端ないオープニングのキャラ紹介
→これね!
 いちばん論議を呼ぶかもね!?
 と思ったオープニングです。
 冒頭、床に置いてあるテニプリの単行本をトリオが拾い上げ、
 わちゃわちゃページを広げていると
 後方映像で漫画のキャラ絵が表示され、そしてまったく同じポーズを取る役者が登場しピンスポ、
 というやつ!
 90年代の青年漫画原作ドラマのオープニングでこういうのよく見た気がするけど、
 (味いちもんめとか、そうじゃなかったかな)
 しかしテニミュでこれをやったのはなんだか斬新で震えた。
 基本でありながら新しい… テニミュサードしゅごい…
 ベタだけどやっぱり登場感あっていいな~と思ったし、
 登場人物(トリオ)のいる世界でテニプリの漫画本がある
 ちゅうのが単純にメタっぽくておもしろいな~ と思いました。
 この登場シーンから「いくぞ!いくぞ!かつぞ!かつぞ!」という
 テンポの速いプロローグ曲に入っていくから、
 物語の滑り出しがものすごく疾走感ある。わくわくするわ~

まじ半端ないダブルス同時進行
→セカンドの「ルド吹」公演では、ほんとうに時間短縮のために
 2ゲーム同時進行だったのかも? と思っていたこのふたつのダブルスが
 同時進行の妙を8名で魅せるような演出になっていたのがすばらしい
 台と背景の映像演出を使って、ダンスで魅せてくる
 不動峰のときの高架下演出で、
 やたらぐるぐる二人のフォーメーションが回るのがあって
 あれはちょっと無駄じゃないかしら と思ってたんだけど
 今回D1とD2の演出ではその無駄感がない
 しかし不動峰のあのシーンがあったからこそ、
 今回の公演のプレイ中の背景の映像を使った見せ方も
 「あれか」という感じでスッと受け入れられたような気もする
 このように、初見では違和感のあるような様々な演出等も
 シリーズの後のほうから見直すとぜんぶピースがはまっていくように見えるのだろうか、
 これは楽しみだよ。

まじ半端ない詔を発しながら消えゆく手塚
→S3の前にリョーマの戦う動機として
 不動峰の柱曲がリフレインで入ってくるのだけど、
 最後に台に乗った手塚が「青学の柱になれ、青学の柱に・・・」
 と歌いながら横移動して消えていくのがすごいおもしろかった
 (いや、真剣なシーンなんだけどね)
 ほんとうにザイキ手塚は完全なる巫女さんだ
 本人の存在の妙さも相まって、これがこの代の手塚の魅力だ

まじ半端ない不二先輩怒りのセーラーマーキュリー化
→ふじせんぱい美しい…
 0-5からの反撃での観月のプライドぶち壊し場面で
 ふじせんぱいの放つ青い炎と魔球の映像効果が
 私にはセーラーマーキュリーの変身シーンに見えた

まじ半端ない海堂の私服ふつうにかっこいい
→ふつうにかっこいいですよ


とりあえず、こんなもんにしときます!
でもすごくオススメしたいわ、今回のテニミュ。
ショーアップされてるし、出演者も多いので細かい見どころがいろいろある。
面白いと思う。ほんとに。

テニミュサードシーズン -「始まりから見る」意味-

2015-04-06 | テニミュ



超今更な話ではあるが、「テニミュサードシーズン」(不動峰公演)が、2月から始まった。

セカンドの途中から加速度的にテニミュにはまってしまった私。
昨年11月のドリームライブという大団円の現場に立ち会い、
号泣しながらいったん解脱した気分であった。
すばらしい終わりであった。
いまのところ、私の人生の走馬灯の中に加えたいワンシーンであることは間違いない。


その達成感と、そしてけっこうな喪失感から息つくヒマも与えぬうちに、
サードシーズンは華やかに開幕した。

始点から同じ目線で走ってみるということはどういうことなのだろうか。
終わりのグルーブ感を知ってしまったがために、
始まりのそれを体験してみたかった。
それはどういう空気なのか。

サードシーズンは、ファーストとも、そしてセカンドシーズンとも違う。

ファーストシーズンは、きっとそれが「何シーズンも続くもの」となるとは、
ましてや今や「2.5次元もの」としてまとまった商売のすべての下地になるとは
思われないままに荒野を突き進んだ挙句、出来上がった道程だったはず。
さながら開拓者である。

そしてセカンドシーズンは、「2周目の宿命」として、
今後の恒常的な基盤となって終わるべく、慎重に積み上げられてきたものだと思う。
シーズン自体が「つなぐタスキ」である。(どっかで聞いた事アルー)
そして、綿密で堅調な制作部門と、注意深くスキの少ない出演者たち(※「スキがない」とは言わない)によって、
それは成功を収めた。気がする。

そうして迎えたサードシーズン、徳川政権で言えば3代目家光、
彼は生まれながらの将軍、
そう、つまり「生まれながらのテニミュ」のシーズン開幕、
それがテニミュサードということなのだと思う。
潤沢な成功体験および資源と、とはいえ生じ得る「飽き」の危険性を表裏に抱えながら
それでもけっこうな「攻め」の姿勢でのスタートを切ったように思える。(例:海外公演、しょっぱなからの地方5都市)


・・・ということで
抽象的な前置きは以上、
2月のプレビュー公演&3月の東京公演を見てきた感想を書こうと思う。

―――

◼︎2月 プレビュー公演
2/14昼&15夜
15日だけのつもりだったのに、気が逸ってしまい14日を直前に追加してしまう良い客わたし。

初見の14日、まず、大きく変わった演出とストーリーラインに動揺。
だって、どうしても先代の作品と比べてしまうではないですか。それが観劇者のサガではないか。
出演者の緊張感(はじめてならではのいっぱいいっぱい感)を味わう余裕もなく、
「うーん、、、違う」と言いながら物販に立ち寄ることもなく帰ってしまいました。

まあ、そんなことを言いながらそれでも翌日も水道橋に行くんですが。
15日も行きまして、見ました。
演出・構成について前知識が入ったのと、「比べずに見よう」という気持ちで臨み
だいぶ純粋に楽しめた感じでした。
まだ役になじまない、楽しむ境地まで行けていない出演者の中で
唯一余裕を感じる本田君(菊丸役)を観劇の指針に置きつつ、
初々しさが光る舞台を見つめて、帰ってきました。
お見送りもあるんだけどぎこちない。

しかし正直やはり、構成に不満ではございました。

リョーマが孤高の・異質な存在であることがほぼ描かれていない。
そして何より、重要な仲間であり敵であり、切磋琢磨するメンバーである
青学の先輩たちのことが全然紹介されていない。(曲カット、シーンカットで)
チームとして敵校の不動峰のほうがよっぽどまとまった団体に見える。
誰が主役なのよ、という感じでした。
1作で終わるんならいいけど、これからシーズン通してやっていく、
その扉の公演になるのでしょう、と。
役者さんの不慣れ感はまあこれはしかたないとしても、
あとから見返したときに、「リョーマの勝ちたい動機」「青学が全国制覇したい動機」が
ちゃんとフリとして入っていないと、なんだかよくわからんじゃないかと思いました。

それでも「生まれながらのテニミュ」のメディア戦略すばらしく
初日の様子をテレビで紹介するわ、ドキュメンタリー番組立てるわ、
もちろん舞台雑誌を制覇してくるわで、すごいプロモーション活動が入ってきている。

うーん、良いけど、良いけどいまの段階でそんなに言うほどか・・・?
どえらい下駄履かせてはりますな、まあ何事も商売商売、という感じがあった。
(と言いながらちゃんとチェックしている良いファンわたし)

そんなこんなでいろいろ考えるうちに思いの丈がつのり、
アンケートを郵送するというはじめての所業に打って出ました。
ポストにアンケートを投函しながら、
完全にテニミュに巻き込まれている自分を感じました。
うう、すごいビジネスだよ。時間と手間をかけて微力ながらでも協力したいよ。ファンなんだよ。


◼︎3月 東京公演
3/28昼&夜
2月があんな感じだったから、とりあえず東京は1公演見といて
5月の凱旋でもっと味わおうと思っていたのに、
構成変更と出演者の成長にアドレナリンがいいかんじで噴出し、
夜も追加してしまった良い客わたし。

おいおいおい、もうこの作品、「テニミュの面白さ」に到達している。
プレビュー公演との800円の差、どころではない。
「見に行ったら絶対面白くて前向きになれてコスパを感じる舞台・テニミュ」が戻ってきている。

あの2月はなんだったんだ と言いたくなるぞ。
ちゃんと、先輩たちの説明が入りました。
そして、校内ランキング戦はシーンとしては相変わらずなしではありましたが、
後述のとおり、イメージとしての追加がありました。

 〈ここから余談〉
  というか、これどうみても構成変更(追加)の余地を残してのプレビューだったよな~~
  レギュラー紹介曲もそんなすぐにできたわけでもないだろうし。
  なぜカットしていたのでしょうか。
  ちょっと考えてみたんだけど、これ「シーズンの扉公演」と考えていなかった可能性ある。
  「VS不動峰」という物語。
  例えば、このあとのルドルフ戦、六角戦、氷帝戦、それだけ見た人にとっては
  レギュラー陣がどんな人たちかなんてわざわざ説明されない。
  断片的に「手塚は強いのか」「不二は天才なのか」と拾うしかない。
  それと同様の「言わなくてもいい前提」として置いていたのではないか、という可能性。
  どうでしょうか。かなり大胆なお客さんへの理解お任せ方式。
  でも結局レギュラー紹介を追加したってことは、やっぱ情報として足りなかったんだな。たぶんな。
 〈以上、余談おわり〉  


意見はいろいろあると思いますが、個人的に、シーズン初戦である不動峰公演は、
「公式戦で青学が敵校を打ち負かすおもしろさ/光る敵校の個性と負けの美学」というテニミュの基本フォーマットだけでなく、
すべての始まりとしての「リョーマの闘志に火がつく」というところが
めちゃ重要だと思うのです。
越前リョーマというキャラクターにとっては、彼の父親がひとつの壁なわけですが、
それ以外にも敵がいるということに気づかせ、
その挑戦心を煽り世界を広げるきっかけになるのが、
青学テニス部への入部 というかさらにいうと 主将手塚との負け試合(非公式戦)にあります。

ここの場面、「高架下の試合」のシーンということで
手塚が越前を打ち負かした上で「お前は青学の柱になれ」と宣言する名場面として
今公演も健在です。
ちなみにこの高架下のシーン、今回「柱」2名(手塚越前)以外のメンバーが幻影としてあらわれるのが
どうなんだ という話もあるんですが、
手塚が歌ってる歌詞が「お前の前に現れる敵をひとりひとり倒していけ」とかいう
冒険の旅に出る勇者への予言みたいなことなんで、
「お前には仲間がいる その中で自分の居場所を見つけろ」→幻影
も、個人的はそんな違和感なかったなあと思います。
演じる財木くんの雰囲気もあいまって、あまりに手塚くんが巫女さん的すぎるんじゃないか
というおもしろさは感じますけど。

で、その高架下のシーンの意味が、3月本公演で別場面の演出(構成?)変更が入ったことにより
より際立つようになったと思うんですわ~~~~

それが父親(オヤジ)との打ち合いシーンです。
①地区大会前②地区大会後で打ち合いが2回あるんですが、
そのうち①で変更が入ったのです。
そう、そこに、カットされていた校内ランキング戦のイメージが追加になりました。

その結果ですね、、、

①地区大会前の父親との打ち合い(手塚対戦前)
 → 幻のように校内ランキング戦で打ち負かした先輩たちの様子が出る←演出new!
 → オヤジ以外には誰にでも勝てると思っているリョーマ


②地区大会が終わってのエピローグの場面での父親との打ち合い(手塚対戦後)
 → オヤジを驚かす球を打つ
 → 手塚への負けから学び、敵は他にもいる、負けたくないと思っているリョーマ


みたいな風に見ましたよ、私は!!(色変えたとこが追加で感じた感覚です)
before-afterの「before」がね!
明確になったよね!!?
いやいや、これはしびれる構成になったわ・・・
と思いました。
場面としてはどちらもかわらないのらりくらりとした日常シーンなんだけど、
前後で小さな革命が起こった感がものすごい出ている。

このね!

彼の小さな革命が!!

今後の快進撃、そして最終的に天衣無縫の極みにつながるんだから!!!


いやー、これだけでもこの公演おもしろいと言えるね。ようやく固まったね。
テニミュはじまったよ。
ぜひ見てほしいでございます。


そして、役者ののびのびし具合ですね。
テニミュの一番のみどころ、「俳優が役とリンクして成長」ですよ。
それが始まっているよ。
何より2月のプレビューで「彼はことによると小学生なのではないか」と思わされた
主演の古田君が、力が抜けてだいぶ等身大の自分になっている感じでした。
普通にリョーマの衣装をつけて出てくると、放っておいても
年のわり(19才)には幼い雰囲気の人だと思うので
本人が気合を入れて幼い演技をすると、慣れの少なさも相まって
なんか、この子倒れたりしないかしら心配、という感じでハラハラしてました。
なので、この人等身大でできるんだ、大丈夫なんだとわかってなんだか安心しました。
新しい演技の方が好きですね。

思うに、別にリョーマだけじゃなくて、俳優陣も、
テニミュをじっさいにやってみるまではある意味「コスプレ」だと思っているんじゃないか
と思うのです。
キャラの扮装をするし、声も場合によっては声優に寄せるし。
でも、あくまで私は、ですが
キャラというフィルターを通して、本人の姿が垣間見えたときにぐっとくるので
別にアニメみたいに12才や15才にならなくたっていいんじゃないかなと思うんです。
キャラクターのお約束項目はやってほしいけど。
多分、表現しなくちゃいけないことが歌もセリフも踊りもいっぱいあって、
全部キャラのままではいられない瞬間があるんですよ。コスプレでいられない瞬間。
でもそんなこぼれ落ちる瞬間に、パッと何が出るかというのを見たいんだ。

本人が作り込んで研究して苦労して、そして作り込んだものを突破したときの輝きを、見たいですね。
それがきっと「役と自分が同化したとき」なんだと思います。
ほんとに、歌舞伎みたいなもんですね。テニミュ。こわいよー。

あと、おもしろソングは健在です。
「理不尽すぎる部活動の歌」「にゃろう!の歌」
「じゃかじゃかじゃーんの歌」「アンコールのニューウェーブ」
聞いてください。楽しい。前向きになれる。
不動峰のジャージってダンスするときにラインがうごいてかっこいいすね。
あと、どうでもいい話として
不動峰の橘役の人はどう見ても石原軍団の若手だし、
伊武役の人は東宝ミュージカルの若手プリンシパルの雰囲気だしで、
不動峰おもしろいです。

ああー
書き始めるとおわらねーな、いつものごとく。
そんなわけで、
福岡を皮切りに、地方公演が始まっております。
テニミュを最初から見る というなかなかない機会を、ぜひこのニューウェーブを
いろんな人が体感したらいいのになあと思いつつ、おわり。

ドリームライブ2014 -「おわり」-

2014-12-03 | テニミュ
思い返すと、自分のことながら面白い。
3年前は、ミュージカルテニスの王子様、それはただの色物だと思っていた。
「イケメン」を、ほんとうにただの「顔面の良いだけの若者」だと思っていたし、
演目自体、子供だましだと思っていた。
もちろん、テニミュサポーターズクラブにも入っていなかったし、
地方遠征なんか思いつきもしなかった。
というか、1演目の複数公演鑑賞自体というものが、時間とお金の無駄で、視野の狭さのあらわれだ とすら思っていた。

2014年11月、そのすべてに私はNOと言おう。
価値観はかくもあざやかに変容する。


==

いよいよ終幕の時が来たセカンドシーズンの、最後の姿を見届けてきた。
さいたまスーパーアリーナ最終日、ドリームライブ2014に行ってきました。

ドリームライブに行った人累計何十万人かの中で感想を述べた人のうち
8割以上がそのように語ったであろう表現で表してしまうが、確かにそうだから言うしかない。
本当に夢の空間だった。

出演者、衣装、音楽、構成、演出、カメラワーク、客席、すべてが協力的だった。
すべてがこの日のこの時を見届けるために集まっているのだった。

内容に関してはもういちいち細かい事は言わない。(覚えてない)
この日のために購入したペンライトに加え、公演グッズの「ドリームライト」を購入し
首にはドリライタオル、両手で持ったライトの色を曲目に合わせて
カチカチカチカチ変えまくった3時間は幸せでしかなかった。もちろん、泣いた。


私はドリライ前に総復習をしようと思い、セカンドシーズンの最初のころのDVDを見直してきていたのだが、
目の前のドリライの舞台上ではもはや、初期の倍くらいの速さと手数のダンスが繰り広げられているようにずっと感じていた。
これはおそらく、全員でちょっとずつ、上に前に進んで来たということなんだろう。
演じる人々が入れ変わっても、「テニミュセカンド」という入れ物が進む速さは変わらない。
本当にレベルアップした演目を全員がこなしてどんどん加速してきた。そんな感じがする。

しのぎを削ってきた数十人の出演者のすべての青春空間。
そして、弱冠二十歳のリーダーが、心の芯を強くもち、舞台という名のコートで己を鍛えてきた、唯一無二の人生劇場。
彼らが動いて、舞台上の世界に命が吹き込まれ、躍動して、光を浴び、そして役目を終えた。
そして輝かせ続けたスタッフのプロフェッショナリティに感服する。
世界観が徹底して守られ、統率が取られていることがどこでも当たり前ではない、ということは、
テニミュ以外の演目を観に行くようになって気づいたことだった。
この市場の開拓者として蓄積されたノウハウの賜物なのか、安定した運営はすべての基盤だったと思う。

本当に、すごい4年間だったのだろう。
私が見届けられたのは後半の2年半ほどではあったけれど、
いつの間にやら身と心を乗り出し、全力で夢中で応援するものとしての楽しさを味わう人になっていた。
私にとっても、人生において非常にまれなる熱い時間だったと思う。


今日で本当に最後。
ぜったいにもう、全員は集まらない。
たとえもし叶ったとしても、いまと同じ価値観を持っては集まれない。
そう思うとどうしようもなく感傷がわいてくるけど、

「離ればなれになるんじゃないよね ただ目指す道が違うだけ
 いっしょに過ごした日々に押されて 前に進もう」


という前向きな歌詞を聞かされれば、たとえ応援席の一員としてだって、
べそべそしているのはテニミュの画にはそぐわないということが身につまされる。
一期一会のすばらしさ、袖振り合うも多生の縁、
仲間の絆と競い合いの美学、
闘志を持つ意味と、自分自身に挑む姿勢、
そして勝負がつけば笑顔で潔く終わり、次の世界へと足を踏み入れる勇気。
なんだこれ、なぜなのかはわからないが、
相変わらずテニミュには、人生への希望と前向きに挑むことの素晴らしさを教え続けられてしまう。

公演終了後にはキャストがぞくぞくと、自分たちの心のこもった言葉で、
演じたキャラクターやテニミュにお別れを告げているようすが伺えたけれど、
彼ら出演者にとっても、テニミュが与えている作用がすさまじいことがわかる。
だって、正しすぎる。
言ってることがまっすぐすぎて、嘘がない。
スポーツのプレイヤーというキャラクターを、身をもって演じているうちに、
彼ら自身が自分の人生のプレイヤーとして、意志を持った人間になっていったんだなあ
ということがよく伝わる。
(どの公演だったか、「これからの役者人生、大きく言えば人生、、、」
 というスピーチをしていた和田琢磨くんのことをふと思い出した)


うらやましいことだ。
私もそんなの、身をもって体験してみたい! 
観念的な感想書いてる場合じゃない!! テニミュ出たい!!!
来世での野望としてとっておく!!!


アンコールの挨拶、「これでもう最後になります」という言葉に対し、
終わってしまうことへの戸惑いで返答のできない客席に、
「あれー? 返事がないなあ」
と笑った座長。
最後まで明るく涙の無い、完全に消化しきったかのような、
さわやかなぬけがらにも思えるようなスピーチと、
全力のファンサービス(ウインクと投げキッス)だった。
最後まで「テニミュ好きな人みんなで」過ごせて、ほんとによかったね。


「今の俺 突き抜けたところにいるから 別世界にいるから
 新しい時の流れが ここから始まるから」


という歌詞そのままに、完走の笑顔とともに手をふってくれた、
会場を駆け抜けてくれたキャストたちのことを私は忘れはしない。
すばらしいテニミュセカンドシーズンの、幸せすぎる幕引き。
前向きに走り続けた男たちと、それを見守る女たちの素晴らしい世界に溺れられたことで、
自分の中の新しい扉が開いた、ほんとうに、そう思う。


ありがとうテニミュ。
きっとまたお会いしましょう。


わたしとテニミュのシークエンス

2014-09-10 | テニミュ
絶賛公演中のテニミュである。

ノンフィクションではテニス世界一を決める戦いに日本人が挑むゲームが展開されるという奇跡を横目に見つつ、
個人的には、中学生のテニス全国一を決めるフィクションへの夢中がとまらない。
7月に初日を皮切りに東京で3回観てから、大阪で1回、
そして名古屋公演にいたっては、結局5公演中4回見に行くという出席率8割を達成しており、
ほんとうに心より溺れている次第である。

このブログを読んでいただいている(変わった)方には今更すぎる話だと思うが、
わたしはセカンドシーズンの途中で突然出会ってからこの2年半、
坂を転がり落ちるように、沼に足を取られるようにこの「テニミュ」という装置の虜になっているのだが、
このエンジンはいったい何なのだろうか、とさすがに自分でも不思議になってきた。

これは観察記録なのか? それとも単なる欲望のはけ口なのか?
(心ある方は「これは運命なのか? それとも必然なのか?」の節回しで読んでください)
正体不明の衝動に突き動かされながら劇場に足を運んできたのだが、
ここでちょっと一旦おちついて、ここまでテニミュに対して感じて来たことを、フェーズを4つに分けて整理してみたい。
誰にも求められていないが、このいまのパッションでならどこまでも行けるような気がするので俺は上へ行くよ。
(上なのかな??)

ちなみに見方としてなにが一番偉い、正しいというのはないとは思うのだが、
自分的には1→2→3と進んで来て、いま、4が見えたというところで、
なんだかどんどん足していったものが、急激に削ぎ落されて、神聖なものを帯びつつあるような気がしている。
平たく言えば宗教だと思う。一種の宗教体験を私は今、しているのだと思う。



1:珍妙な祭りとしての発見
テニミュを初めて見た人は、基本的に失笑を押さえる事ができないだろうと私は思う。
半分ぐらいは成人した20~30人ぐらいの男の人たちが、
すね毛をつるつるに剃って、丹念にメイクをほどこし、テニスラケットをぶんぶん振り回しながら歌って踊っている。
扮装だけではなく、言動やアドリブまで含めて
人気漫画だったという原作のキャラクターになりきっている。

どうみても、世界の珍祭の一種に見えるであろう。

しかも、動画サイトを開けば、過去に行われた公演における、
歌や踊りのパフォーマンスの未熟さを面白がる向きもあり、
そういった点からも珍妙さが刷り込まれていく。

しかし、落ち着いて見てみると彼らはなかなかに激しい動きをしているのに気づいてくる。
こんなに珍妙なのに、この人たちは何をそんなに一生懸命なのか。
「ちょっとよくわかりません」というところから、興味がじょじょにこみあげてくる。

++

2:キャストとキャラクターの多重構造への萌え
見た目の面白さへの耐性がついてきたころ、見えてくるものがある。
この池は、平たく言えば「2.5次元地獄」である。
熱くて深い、この4つのフェーズの中でもっとも大きな面積を占めるパートであるといってもよい。
テニミュを見ている人たちは、役者が「ちゃんとあのキャラになっているかどうか」細部にわたりチェックしている。
うまく出来ると褒められるが、なりきれていないと文句を言われる。
キャラクター像について観客の中に絶対的な理想がある、それが時にはキャストの人格よりも大切である、
というのは、正直これまで年に数本レベルで見て来た一般的な観劇のスタイルとは、一線を画すものがあった。

絶対像であるキャラクターを獲得するために、若い一見チャラついた男子が四苦八苦している姿を見るのは
原作を知らない身で入ると当初びっくりするのだが、徐々にそれを見守るのが快感になってくる。
じっと眺めていると、キャラクターと向き合っているキャスト本人のパーソナリティも見え隠れしてくる。
どんなふうにアプローチするのか、そこには大きな特徴が出る。
その中で見せる素の魅力に心を動かされたりする。
そんなふうにして少しずつそのキャラクターの上に、キャストが徐々に重なってくるのである。
そしてあるとき、彼の演じる様子が、キャラクターのスイートスポットにガツッと合致する瞬間がある。
本セリフなのか、アドリブなのかはわからないが、たしかにあるのである。
その瞬間を見届けること。それは大きなよろこびだ。
子育てで言えば、子供が初めて言葉をしゃべった。
人類で言えば、初めて月面で一歩歩いた。
それくらいの快挙に感じられてくるわけである。

もうこの段階になると、取り込まれ方がはんぱないものになってくる。
キャストもキャラクターも、どちらもかけがえなくいとおしいものに感じさえする。
キャストとキャラクターというふたりの男の間で生まれるハーモニーとシンパシー。
妙味もあれば雑味もある、いましか見られない貴重なゾーンである。
そのふたつのゾーンの中で、生まれる商売があるとするならば、
よろこんで写真集も買いましょう、トレカも生写真も、イベントも行きましょう
(人によっちゃ、プレゼントもあげましょう、手紙も書きましょう)となってくるのである。
仕掛け側の商魂のたくましさに恐れおののくこともあるが、最終的にあの頑張っているキャストとキャラクターの
足しになるのなら、いくらでも貢献したい、という気持ちになってくるのだ。

(※ちなみに、テニミュには必ず「卒業」があるので、どうやったってそこでキャラクターとキャストが
  シンクロするように出来ている。
  どんなにイマイチに感じていたとしても、「最後」に向かう人間は等しく美しいからだ。
  そのあたりは非常に計算されており、いい商売である。)

おそろしいパートである。
ただ、ここから出られないのは、
テニミュファンにとって最大の不幸にして今生で最強の幸福ともいえるので、なんともいえない。

+++

3:意味付けからの深読み
キャストとキャラクターでの俗な妄想ばかりしていることへの反動なのか戒めなのか、
自分の知性の限界に挑戦という妙なプライドなのか、意味付けが始まるのである。
パフォーマンスにどのような意図が込められているのか。
音楽に、照明に、セリフの配置に、なんの謎が掛けられているのか。
上記のように、キャラクター理解のために原作も読み始めているので、
材料は揃っている。
あとは空想の翼を広げればなんだって可能なのだ。

仲間の、先輩後輩の関係性、ライバル、チームというもの。
信念、大事にしていること、彼のなかのルール。
ふるまい、あの動作の意味、旋律の重なりやリフレイン、
主線以外に舞台上でこっそり描かれる物語の把握と紐づけ。

もはや自己満足の境地なので、これもどこまでもつづく不毛で幸せな試みである。
このあたりにハマってしまった場合、考察を中心とした文章等の創作物を生み続けていくことが出来、
生みの苦しみに苛まれながらもアドレナリンを大量に噴出することができるのである。

そしてインターネット上で時折すれちがう、
吟遊詩人のように、はっとする考察をふりまいては去っていく、同好の士の方々。
こうした考察に触れられることはまたもや幸いである。
テニミュにハマったことで、インターネットという人類の叡智に改めて感動している日々だ。
集合知はすばらしい。そして、個人的な実感というもの以上に切実なものはない。
同じものをみたあとでの十人十色の昇華のしかたに、感銘を受けるのである。

++++

4:人生
「ユーレカ!」という言葉がある。
アルキメデスがアルキメデスの原理に気づいた際、思わず叫んだとされる言葉である。

今回、一番多くの回数を見ているのだが、
名古屋公演の初日に、それはとつぜんきた。「ユーレカ!」
あ、もうわかった。
もう、誰が出ているかとか、何の話をやっているかとか、どんな深読みができるかとか、ほぼ関係がないわ。
彼らはよりましでしかない。テニミュも枠組みでしかない。
ただただ、メッセージだけが強烈だ。
身体性と、言葉と音楽だけがまっすぐなのだ。
人が集まって、なにものかと戦っている。そして、全力で向かっているのを、私は見ている。
それ以上でも以下でもない。
それこそが人生なのだ。
私と彼らの、人生なのだ。
たまさか、舞台のあちらがわとこちらがわで共有する機会を得た。
それだけのこと。
しかしそれこそが奇跡であり、なによりも美しいのである。

もしかすると、ライブや舞台芸術そのものがそういうものなのかもしれず、
誰にとってもテニミュがそうなるとは言えず、
たまたまわたしの中で溜まって来た自分なりの鑑賞眼と暮らしへの感傷と嗜好が
タイミングよくそうさせているのかもしれず、
そうなると今このように捕らえたものもすべて幻なような気もしたりしていて、恐ろしいものであるが。

ただ在るものを、あるがままに受け取ってそのままに感動するのである。
古今東西の至言の中にあまたありそうな普遍的なことを、体感したのである。
たどり着いた感がある。見えた気がする。

テニスは俺、俺はテニス

とリョーマが歌っていたが、すなわち、

テニミュは私、私はテニミュ

なのである。



・・・と、いう感じで、これがここまでに得たものの全てなのだが、
一方で、ここまで観念的なものにたどりついても、
不意に「1」みたいなところの関心(例:えっ、血まみれでテニスしてるんだけど(笑))や、
衝動的な「2」(例:うわ!かわいいっ!!)がわいてきたりすることもある。
理性的な分類は試みはするものの、やっぱり自分の中の爆発的な興味がわく瞬間というのは理屈ではなく
「おもしろい!」という事だと感じる。
まてまて、越前リョーマはなんと言っている?

「みんな、楽しんでる?」

なんということだろうか。本質の問いかけはそこにあった。
そのメタ的なメッセージに改めて驚愕である。

「楽しむ」なんて、ものすごく普遍的であるが、
体感することではじめて『わかる』のである。
教えてくれたのが、意外すぎる「テニミュ」だった、というところが人生の妙である。

まさかこんなところに、というところに、世界を知るスイッチはあるのである。
人生をかけて、探していこう。分かっていこうと思うのである。

ミュージカルテニスの王子様 全国大会 青学VS立海 感想2(頑張れ負けるな必ず勝て問題)

2014-07-29 | テニミュ
今回の新アンコール曲「頑張れ負けるな必ず勝て」について。
(曲名ってなんですか??)

歌詞を聞いた感じだとこんな流れ。

青学
きしむテニスシューズの音を憶えていてね
 弾んだテニスボールの ラリーを憶えておいてね

 試合が終わった後も人生は続いていくよ 
 できればこのままみんなで 励まし合い エール交換しつづけたいぜ
 頑張れ負けるな必ず勝て よっしゃそこだ突っ走れ
 頑張れ負けるな必ず勝て よっしゃそこだ突っ走れ」


立海
にじむ悔し涙のきらめき忘れないで
 決まった勝利のポーズ 瞳に焼き付けておいてね

 今後も俺たち全員 この日を忘れはしないよ
 みんなばらばらになるけど 離れててもエール交換し続けたいぜ
 頑張れ負けるな必ず勝て よっしゃそこだ突っ走れ
 頑張れ負けるな必ず勝て よっしゃそこだ突っ走れ」



歌詞だけで泣いてしまう。(歌詞違ってたらごめんね)
最終日に号泣することは明明白白だ。

というのは脇に置いておいて。
この曲を初めて聞いたときに思ったのは、まず「違和感」だ。
最初の呼びかけ「憶えていてね」「忘れないで」が、ものすごい違和感。
ちょっとやさしすぎる。
テニミュの曲で、これくらいやさしいやつってありますか?
少なくとも2ndシーズンでは私は思い当たらない気がする。
なぜ、この口調なのだろうか。試合が終わったからか?
いや、それだけではなくて、ここは「視点が違う」のだと思う。

2ndシーズンでは、これまで2曲のアンコール曲があった。

まずは、関東大会決勝まで使われた、Jumping up high touch。
私が初見のテニミュ六角戦で衝撃を受けた、キャストとハイタッチが交わせる「おさわり曲」でもある。
(というと語弊があるので、「ふれあい曲」ぐらいにしておきましょうか)
これは、意図がどういうものだったのかわからないけど、察するにテニミュをもう一度いちから始めるにあたり、
キャストの顔見世、距離を縮める みたいなのもあったのじゃないかなと思う。
(ハイタッチのときの公演2回しか知らないんで、誰か詳しい人は教えてください)
歌詞は、試合も終わったしみんなでハイタッチしようよ! というそのまんま系。

そして、全国大会に入ってからは、We are always together。
ハイタッチは廃止され、「セイヤー」というコールアンドレスポンスが追加された。
歌詞の内容は、「テニス最高」テニスがあればいつまでも俺たち(みんな=客席)は一緒、いつでも仲間というメッセージだった。
けっこうメッセージが濃くなったなと感じたものでした。


そして今回。
この曲、これまでのアンコール曲との完全なる違いは、「解散宣言」であるということ。
歌詞は、「今が終点、そしてここから先」について触れている。
「試合が終わった後も」「みんなばらばらになるけど」と、この時間が終わってしまうことを強調している。
それは全国大会が終わるということだけではなく、言うまでもなくテニミュ2ndシーズンの終焉だ。

そして、どこかで見てなるほどな、と思ったのが
「きしむテニスシューズの音」というのは、屋外のコートではまず起こらないことで、舞台上だから感じられることだということ。
確かに!
ということは、この冒頭の呼びかけも、キャラクターのアフタートークではなくて、
「テニミュキャストの立場からのメッセージ」という意味合いが存分に含まれているということだ。
その視点の違いが、違和感を呼んでいるような気がする。
(ちなみに青学、立海が歌い、そのあと四天宝寺とライバルズが歌うのだが、
 ここの歌詞はさほどそうしたメタなメッセージはなく状況説明的なものが多かった気がする。)
今回の公演、このようにすべてテニミュキャストからのメッセージと読み取れる曲が多くて、すっかり感傷的になるんです。

そんな中、面白いのが、
この冒頭に感じる違和感、聞くたびに感じ取ってしまうメタな立ち位置からのメッセージの感傷をすべて吹っ飛ばすように、
サビが単純明快で力強いことである。
「がんばれ」「まけるな」「かならず勝て」
ちょっと笑ってしまうぐらいそのまんまの歌詞だ。
ものすごく暑苦しいし、逃げようがない。
英語とかかっこいい言葉じゃなくて、ド直球。

けど、これ以上のメッセージもないと思う。
この直球勝負のところがテニミュの魅力の一つ。
男の子の綺麗なところだけを切り取って夢の世界に仕立てているようでいて、(まあ、仕立ててるんだけど)
実際にストーリーは汗臭いし戦ってるし、しかもその最終目的は「部活日本一を決定する」というやつだ。
異世界の魔物を倒すわけではない。世界の終末を救うわけではない。まして正義の味方ではない。
テニスで勝ちたい。うちのチームが戦って勝ちたい。それだけである。
めっちゃストレートだよな。
そりゃあ、「がんばれ」「まけるな」そして「かならず勝て」になるよなぁ。

そしてこの濃いメッセージ、直球すぎるがゆえに、観客にものすごい刺さってくる。
私はちょうど仕事がめんどくさいことになったタイミングで初日を迎えたこともあったので、
このメッセージが刺さりすぎて涙が止まらなかった。

最近って、あまり頑張れって言ったりしないじゃないですか。
でも頑張らないと何も進まないんですよ。
だから頑張れ。
そうだよな。頑張るよ。
大人になって「頑張る」って言うのって、「頑張る」が醸し出す無計画ながむしゃらさのニュアンスを考えてしまって
なかなか人にも言えないし、文字にも書きづらい。
もっと計画的にやれよ、というセルフツッコミを入れずに居られない。
でも、そういうぐちゃぐちゃした言い訳とか考えているのがそれこそ無駄だ。
明日には死ぬかもしれないんだ。
頑張ろう。


テニミュにはいろんなことを教えられるよな、という話でした。


ミュージカルテニスの王子様 全国大会 青学VS立海 感想1

2014-07-25 | テニミュ
いよいよ書いてしまおうかと思う。
だけど、まだ終わりは始まったばかりだ。
まだ結論付けることはできない。
できればずっとやっててほしい。終わらないでほしい。
だけど終わってしまうからこその輝きもあるよね。
私に出来るのは、可能な限りその、ロウソクの火が1本ずつ消えていくカウントダウンの現場に
立ち会うことぐらいだなあだと思っています。
いや、むしろ、選挙の当確者に花つけるみたいに、真っ白なボードを一個ずつ勝ち星で埋めていく
そんな幸せな現場なのかもしれないけど。

ということで、思考回路はショート寸前、今すぐ会いたいよ状態が止まらない、
テニミュ2nd最終公演「青学VS立海」が始まりました。

今回の公演、セカンドシリーズ最後の公演ということで、案の定壮絶なチケット購入合戦が繰り広げられました。
テニミュサポーターズクラブに入るも、全然取れないチケット。笑っちゃったぜ。
そんな中自力でなんとかもぎ取った13日(二日目)のチケットで立海デビューをキメるつもりでしたが、
ありがたや、ネットで広がるテニミュの輪………… 
初日のマチネ、ど初回の公演を見られることになりました。レッツテニミュケーション。

上演時間3時間40分という、グアムへのフライト時間と同等の驚異の長時間公演であることが発表され
騒然となっていた今回の公演。
でも、考えてみて。グアムへの移動中にずっとテニミュ見れてると思ってみて。
めちゃくちゃハッピーになれるよね。

で、わたしはここまでで、7/12マチネ、7/13マチネ、7/18ソワレ の3回観ました。
名古屋に住んでいるのに、1週間のうちに3日も東京ドームシティホールに行ってしまった。なせばなるものだ。

まず初日に立ち会えた喜びはなんというか、筆舌に尽くしがたいものがあった。
場所は2バル右手。ハンカチを握りしめて観た。
初回感想としては、「完全に小越勇輝の物語だ」これに尽きた。
とにかく彼に「ありがとう 愛してくれて」と言われたら、もう私たちは袖を濡らすしかないのである。
天衣無縫の小越勇輝の笑顔しか覚えていない。

2回目に観て、だいぶ腑に落ちた。
場所はアリーナ、中央付近だった。
映像演出がそこそこあるので、中央から観るとかなり効果がよくわかる。
あと、南次郎役が森山さんだったので上手かった。3人観た中では、やっぱり彼がしっくりくる。役者だから。
上島先生は、なんだか周りの芝居に比べると言動がリアルすぎて、ちょっと冷たい父ちゃんに見えた。
新之助先生はほんとに「2ndシーズンの父」という感じがあるので、小越リョーマの実父みたいなイメージなんだけど、
とにかく本公演のもっとも重要なセリフとも言える『なあ、リョーマ。テニス、楽しいか?』を
緊張感と優しさをこめて発することができるのは森山父ではないだろうか、と思いました。わたしは。
初回と異なり、新曲を聞いても「あ、新曲だ」という違和感を感じずに全体として観れたので、
ストーリーとしてのまとまりが見えてきた。
S2のイリュージョン以降が異様に際立って見えた初回だったが、S3もD2もしっかり血の通った試合だということがわかってきた。
しかしこれだけは言いたい。
「それを見ている立海レギュラー」はSNSでのバズらせ用に作った歌詞だとしか思えないことを。

3回目は初めて3バルに入った。また右手。
全体構成を把握してからこの場所で観るのはなかなか面白かった。
フォーメーションが美しく組んであるな、ということ、キャストがよく走っているなということ、
テニミュ舞台の床のデザインの秀逸さを改めて確認したこと、などなど。
イリュージョンの入れ替えタイミングをずっと見つめていた。久保田くんはどんどん仁王になってくる。
そして今回、アンコールの「セイ!」にすべてを懸ける柳生くんのことを忘れない。
四天宝寺は自分たちで頑張って観覧席を移動させている。かわいい。
そして幸村。幸村、幸村だな。睥睨する神様。この試合をずっと見ていたい。

ファーストシーズンは2回に公演を分けたものだったのを今回は1本にまとめられたということで
この尺のこの演目、最初は不思議な感覚だったが、3日間観て、なじんできた。
だってさ、漫画世界の決勝戦だって1日の出来事なんですよ。短期間にミラクルを起こしているのですね。
越前を必死で覚醒させるのも時間勝負だから。
リョーマの「早くサーブを打ってよ 時間がないんだ」という歌詞も、記憶をなぞるだけでなく、時間と戦っているから。
「時代を変えちまえ!」(by目の据わった跡部様)もよかったですね。


しかし私はほんとうに、こんなものを観てしまって、これからどうしましょうか。
5800円でここまでのクオリティのものが見られる場所に生まれてきたことは本当に幸いである。

これから地方公演で立海戦を見る人もいっぱいいると思うけど、今回に限っては複数回見ることをお勧めしたい。
ただでさえチケット争奪が激しいので、今から買うのは大変だと思いますが、少なくともライブビューイングで見てほしい。

私、ほんとに、みんなにテニミュ見てもらいたいんです。
男の人にも見てほしい。部活してた人には特に見てほしいと思う。
多少なりとも高校野球応援できるマインドを持っている人は、誰でもそれなりに胸にくるものがある気がします。
ワールドカップ見て、甲子園見て、テニミュ観ようよ。
で、一緒に泣こう。笑いましょうよ。


思いついた事いちいち掘り起こして感想を書いていると
軽く土日がつぶれる気がするので、なんか散漫だが今回はこれで終わっておこう。私も生活があるので。
もっともっといろいろ感じた事はあるような気がするが、細かく分けようと思う。

そんなわけで、ちょっと他に書きたいことがあるので、じわっと続く。

備忘録(TSCPP東京4/29)

2014-05-07 | テニミュ
時の流れがはやすぎるから何もかもは綺麗に記憶に残せないよね

↑J-POPの歌詞みたいなこと書いてしまった

1回目程の動揺はなく、わりと冷静に見つめることができた、4/29の
東京のTSCPPについて、自分が携帯にメモしていたことを転載しておきます
ちなみに1回目(16:00-)のほうです


<トーク部分>
いきなりバク宙みずき
おごラダーはやい細い
安西あしプルプル
きみさんジュースこぼす すぺあベッドでねる
まりおの発言にうなずきまくるいっけー
いっけーといながきのからみ
あててもらえないさっきー
やたちゃんぴーす!をやたちゃんにむかいやりまくるおご
やたぴ攻めで前列にこさせない
コールドスプレーをかけあうおごたわにビビるとんちゃん おご覚えてない
おご合宿六回目
オーハッピデイうたいまくるかいたを前面がぶりつきでみるすぎえ

<お見送り部分>
こうだいきゅん手を握ってくる「いっぱいみにきてなー!」(まじで両手握られてびっくりした。当選確実)
みずきお見送りで「メンディー!」(※関口メンディーがザイル加入日だった)


メモは以上です こうして文面を見ると本当に、ただの豚のようだ(いや豚でしかない)
今回は本当に、割と落ち着いて全員の眼を見ていきました
お疲れ様でした
みんな表情が疲れていた気がするけど、たわちゃんと東くんはピカピカしていたと思う

大変楽しかったです
運動会から中1日しか経っていなかったので、
夫には友達に会うと言ってごまかして行きました
ごめんやで