SJesterのバックステージ

音楽関連の話題中心の妄言集です。(^^)/
もしよろしければ、ごゆっくりどうぞ。

次代を拓く才能の萌芽の発掘

2010年10月17日 23時58分57秒 | 高橋多佳子さん
★シューマン:クライスレリアーナ、謝肉祭、トロイメライ
                  (演奏:高橋 多佳子)
1.クライスレリアーナ 作品16
2.謝肉祭 作品9
3.トロイメライ 作品15-7
                  (2010年録音)

ショパンの命日の今日・・・
開催中のショパン国際コンクールにおいて日本人のコンテスタントが残念ながら姿を消したという報を高橋多佳子さんのブログで知りました。
このところかならずといっていいほどファイナリストは輩出していた我が国ですから、第三次の予選を前に全員が通過できなかったという事実は・・・参加者のみなさんの想像を絶する努力に敬意は表しつつも・・・やはり残念に思います。


私の場合・・・今回もそうですが・・・コンクール途中の情報は追っても、その場の演奏を直接聴くことまではしていません。

すべてが終った後に、ディスクになって出てきたウィナーの、あるいは印象的な入賞者たちのフレッシュな商品を楽しむのが常、それだけでも膨大な情報量であるので、そこまではちょっと追いきれません。

そのディスクさえ、審査員による公明正大な振るいにかかっているとはいえ、私の流儀、審美眼に照らしてみればなお玉石混交と感じることが普通です。


ブーニンのワルツを聴いたときはこれはまさしく天才だと思いましたし、ヨッフェのワルツにはこれをキライなひとはいないだろうという普遍的な魅力を感じましたし、フリッターのノクターンにはノーブルで静謐な魅力を感じましたし・・・
ことほど左様に、このコンクールの入賞者の顔ぶれを眺めてみるとには『泣く子も黙る』というより、『泣く子もはしゃぐ』『泣く子も血沸き肉踊る』『泣く子も笑う(微笑む)』ような演奏をする人が多いように思います。

ぐうの音もでないほどに黙らせちゃうのではなく、少なくとも泣き止ませ落ち着かせるような資質が、正統的な表現方法の中で成就されていることが求められている・・・私にはそう感じられます。

とはいえ・・
「なんでそこをそんなふうに弾くの、あんたそんなに上手なのに!?」という鼻っ柱の強い演奏家がいるのも確かであり、それも楽しみの一つといえばそういえなくもないので、そういうことにいたしましょう。

その演奏家の正義であり審美眼に誠実な演奏が成し遂げられているのなら、そしてそれを受止める器量のある識者なりオーディエンスがいるのであれば、とても尊いことに相違ありません。



さて・・・
問題は邦人入賞者が久方ぶりに途絶えてしまったことでしたが、これはどうしたことでしょう?
今回のコンテスタントの準備が以前に比べて不十分であったとは(聴いたわけじゃないけど)思えません。

ずばり・・・
いろんな意味でショパン国際コンクールが求めている資質を満たした奏者が減り、我が国の風俗・慣習の中からは培いにくくなっているのではないか・・・これが私の思っているところです。


ショパコンと言えば「ポーランドの・・・」と冠が付くのが常であるとはいえ、私にはウィナーの顔ぶれはむしろポーランドを意識しないわけではないとはいえ、むしろ自己の偽らざる資質を開陳しようと努力している人が殆どであるように思います。
高松宮様の世界文化賞を受賞したポリーニ、泣く子も音楽の世界に取りこまれるアルゲリッチ以下オールソン、ツィメルマン、ダン・タイ・ソン、ブーニン、ユンディ・リ、ブレハッチと、ポーランドの至宝はいるにせよ、これこそポーランドなんていう演奏をする人はいない・・・代わりに、これこそこの演奏家の真骨頂という奏楽で私たちの耳を楽しませてくれるアーティストばかりであります。


要するに・・・
ショパンコンクールとは、そのような「次代を拓く才能の萌芽」を見つける役割を伝統的に担っているコンクールなのではないでしょうか?

そしてそのウィナーは、次代に合った演奏をする人ではなく、次代を自らの音楽性で切り開いてトレンドとなる人・・・

そうなると弾けるだけじゃダメということで、先の民族性の風俗・慣習のなかから必要なエッセンスを学び、足らない部分はどこかで補わなければならない・・・
そして、自分の芸術を普遍的でありながら突き抜けたものに昇華させる、少なくともそれを予感させるまでに準備しえた人がなるのだと思います。


少なからぬ例外もありますが、私にとって曲の解釈それ自体は、日本人ピアニストの感覚がもっともしっくりきます。これは私と同じ風俗・慣習の中にあり、日本語を話すように演奏してくれるからであるのかもしれません。

しかし、音楽を聴いてハッとしたり、思わず心ときめかせてしまう非日常的な感覚にいざなってくれるアーティストには、なぜか外国の演奏家が多いのは不思議です。

自分にない要素を、風俗・慣習あるいはそれ以外の要素を自分のものとして身につけてらっしゃるからでしょうかね。(^^;)

つまり、ノーベル賞の科学者じゃないけれど、我が国の風俗・慣習だけではなく、積極的に自分の資質を開花させるにふさわしい舞台へ打って出て、自らの慣習を習慣づけによってより色合い豊かなものに肉付け・深化させることが必要なのではないか・・・ということです。

傍で言うのは簡単ですけど、するほうはタイヘン・・・ですけどね。

何も外国に行けというのではなく、自分の中に眠っている未知の普遍的な資質を見つけて開花させる努力をしないといけないということなんですが、勝つためになすべきことはそんなことではないかと思ってしまうのです。

次代のニーズを読んでそれに見合ったものを身につける・・・
これでは本末転倒で、自分の流儀を次代のメインストリームにする、それを可能ならしめるぐらいの気概と実力をもってコンクールに臨まなければ・・・。

きっと今回の国籍に関わらずどのコンテスタントもそう思って臨んで必ずしもうまくはいかなかった人もいたのでしょうから、いわゆる武運に左右されるところもあるんでしょうけどね。


その解釈に共感できるといいながらも、突き抜けた恍惚体験みたいなものを感じさせてくれるアーティストが我が国に少ないといいましたが、もちろんいないわけではありません。

これだけ名のあるアーティストが、コンクール歴を持っているいないに関わらず露出している中にあっては、新人とて新味を維持することは難しい、いや、新人であるからこそ難しいのではないかと思います。

いわゆる神童の演奏は、やはり神童どまりの演奏であることが殆どで、見事飛び切りのアーティストに成長を遂げることを得た元神童のアラウにせよキーシンにせよ、この脱皮こそがもっともタイヘンだったと述懐しているとおりですから、タイヘンなお墨付きを得た・ウィナーやファイナリストとて安閑としていることはできますまい。


何がいいたいかといえば・・・
既に功成り名遂げたアーティストがたゆまぬ研鑽を続け、自らのウリである資質はそのままに、新しいレパートリーを開拓したり、再録音すればさらなる納得の深化の境地を見せている現実を目の前にして、それでもなお新進のアーティストが自分の演奏を世に問わねばならない必然性を主張できるかということであります。

そして・・・
評価するのは自分ではなく、往々にしてオーディエンスであることを受け容れることができるのか?

それでいてよくいわれる、昔のすし屋の親方のごとく「オレの鮨が食えねぇっていうのか!?」という演奏ではないだろうというところも難しいかもしれません。

自分の王国でしか通用しないような流儀・・・

ポゴレリチなんかはそれに近かった(支持も多かったようだけれど)のかもしれませんが、コンクールに勝つためには普遍性を備えていること、あるいは普遍性を気にさせないほどにユニークなことが必要で、普遍性と対決したところにユニークさを求めると、それが誠心誠意を込めた芸術であったとしても商品としては成り立ってもウィナーという権威は手に入れられないのではないぁ・・・
とまぁ、そんな気がするのです。


次代を拓く才能の萌芽を培うためには時間も必要でしょう。
ぜひ次回はヒーローに登場してもらって、日本人のウィナーが誕生することを期待したいと思います。



今日はいっぱいショパンを聴きました。

このバックステージで紹介したものはさすがに“ヘビーローテーション”でして、メジューエワのスケルツォ、りかりんさんのSONATA、レオンスカヤのスケルツォほか、ケフェレックの作品集、ザラフィアンツのバラード集、アモワイヤルのノクターン集・・・は手近においてあることもあって、この順番で私の耳を楽しませてくれました。

これらの境涯にあるひとが、全身全霊を込めて目の前のレパートリーに対峙し取り組んでいるわけですから、新人さんたちにいかに才能と時間と自由があるとはいえ、厳しいなと思わずにはいられません。

私とて、そんなに間口を広げることは物理的にムリですから、これらの気になるアーティストを追いかけるだけで実際のところ需要はいっぱいいっぱいですからね。。。

特に新星が現れなくても、きっと不満に思うことはありません・・・。


そして・・・
最後に高橋多佳子さんのバラード&スケルツォ集を聴いて寝る・・・と。(^^;)



いまさらではありますが・・・
冒頭に多佳子さんのシューマンのディスクを置いたのは、何度か聴き込んでの感想を未だここに書いていないからにほかなりません。

一言で言って、とってもすっきり耳馴染みのよいシューマンで、特にクライスレリアーナをこれほどすんなり気持ちよく聴けたことはこれまでにありませんでした。

潤いも華やかさも感じられるのに、シューマン特有の灰汁というか暑苦しさとは無縁の本質的なエッセンスだけを掬い取った好演だと思います。

シューマンのそういうところがお好きなかたにはもしかしたら・・・という気もしないでもないですが、想像するにシューマンのほだされたようなところがお好きな方には、多佳子さんの演奏には独特のパッションにインスパイアされて、それにご自身のシューマン体験を重ね合わせて楽しまれるのではないかと思うのです。


謝肉祭はさすがにクライスレリアーナより派手ですが、それでも乱痴気騒ぎとも、ミケランジェリのような超微視的な演奏とも一線を画した演奏、それでいてクールとか客観的な演奏に陥っていないのでシンプルに聴きやすかったと記しておきましょう。

ストレートにさわやかな印象を与えてくれる名演、私にとってはリヒテルの色とりどりの小品、ポリーニの交響的練習曲やアラベスクと同じぐらい素晴らしいと思った演奏でありました。

トロイメライで余韻を残して締めくくるのも、多佳子さんらしくてナイスアイディアです。


しかし・・・
幻想曲ハ長調、これはアラウとボレットの演奏をもっともしっくりくる演奏と思っているのですが、思っているだけでなんかこう決定盤という気がしないでいるのが実情であります。

エドナ・スターン嬢の演奏には「おぉ!」と思わされましたが、現代ピアノの演奏によるものとなると、もしかしたら決定盤とはまだめぐり合っていないのかもしれません。

多佳子さんには続編も期待したいものですね。 ←期待ばっかり膨らんでいきますが。。。(^^;)


幻想曲の実演では、そういえば揚原祥子さんのリサイタルがすばらしかったことを思い出しました。
そのとき一緒に聴いた幻想小曲集作品73もすばらしかったのですが、なかなかこの曲をディスクにしている人がいないのでもう一回聴きたいなという思いがあります。

でも・・・
ダヴィッド同盟舞曲集は・・・何枚もディスクを持っていますが・・・どなたが弾いても好きになれそうな気がしません。

ショパコンの日本人コンテスタントがいなくなってしまったこととあわせて残念です。