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Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

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鄭国と尉繚が秦の国力を増大させた富国強兵策に成功した秦

2018-03-12 03:54:38 | Weblog

◆連綿と続く秦の政策
 始皇帝が秦の実権を握ってから周囲の6か国を滅ぼすのにかかった年月が、驚くほど短かった。最初の韓を倒してから最後の斉を平らげるまでに、僅か9年しかかからなかったのだ。
この秦の国力の背景には、鄭国による灌漑事業などの成功があったのであるが、そもそも秦の歴史に連綿と続く、「商鞅の変法」以来の富国強兵策があった。始皇帝の6代前の孝公(在位は紀元前361~338年)は広く天下に人材を求めた。これに応じて秦に入った、衛の生まれの商鞅は、変法と呼ばれる改革を断行した。変法は2度行なわれ、法律の強化、戸籍づくり、農地拡大、儒家経典の焚書、戦争での褒美と罰の制度化、度量衝(単位)の統一、更には咸陽への遷都などが行われた。これにより、秦は中央集権の軍事国家へと生まれ変わったのだ。商鞅自身は孝公の死後に守旧派から反撃されて処刑されたが、彼が作り上げた制度は生き続けた。また、秦には革新的な軍事技術があったと云う説も最近では提唱されている。その切欠となったのは、兵馬俑から出土した青銅剣だ。兵馬俑の刀剣の中には、今でも切れ味を失っていないものがあったのだ。而も、出土品の多くにはクロムメッキが施されていたと言う。そして、秦が西の山岳地域に進出する過程で歩兵主体の軍隊を確立した点も重要だと言う。それまでは馬が引く戦車が主体だったが、歩兵中心であれば山道でも容易に行動でき、更には大兵力を備えることも難しくなくなったのだ。
これらの様々な要素が合わさって、秦の富国強兵は成し遂げられたのだ。

(画像・商鞅)

     


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