*虐げられていた黒人奴隷たち
19世紀のアメリカでは、南部を中心に多くの奴隷が働かされていた。
その多くがアフリカ大陸から運ばれて来た黒人奴隷で、その数は1200万人にも上ったとされている。
彼らはプランテーション農業などに従事させられたが、その扱いは過酷かつ非人道的だった。公衆の面前での暴力は日常茶飯事で、奴隷所有者は気に入らないことがあると奴隷を鞭で打つなどして憂さを晴らしていた。また、家主から強姦される奴隷女性も少なくなかったが、奴隷の所有者が幾ら残忍に扱っても罪に問われることはなかった。こうした過酷な暮らしを強いられた奴隷たちを北部の州やカナダまで逃がすのを手助けしていたのが、地下鉄道と呼ばれる秘密結社であった。
地下鉄道という組織名は、「地下に隠れる、潜る」といった意味から名付けられたもので、主に奴隷解放論者が参加していた。彼らは地域ごとの班に分けられていた為、逃亡した奴隷たちは最初から最後まで同じ人物にエスコートされるわけではない。その地域ごとに異なるメンバーからの手助けを受けながら逃げて行ったのである。
*各地のメンバーが連携していた
地下鉄道のメンバーは、判明しているだけでも数千人はいたとされている。
奴隷たちの逃亡ルートは、アメリカ東部から北西部一帯にかけて網の目のように張り巡らされていた。
地下鉄道では、秘密を守る為鉄道の用語を使っていた。「駅」「停車場」は奴隷の隠れ家、「乗客」は逃亡中の奴隷、「駅長」は奴隷を隠まった人たち、そして「車掌」は奴隷を誘導した人のことを指す。逃亡中の奴隷は、昼間は地下鉄道メンバーの家に隠まってもらい、暗くなったら次の「停車場」に向かって移動した。こうした巧みな手段を用いていた為、奴隷たちは無事に逃げることができたのである。
*奴隷たちは追っ手をかけられた
ただし、彼らは毎日必ず停車場に滞在できたわけではない。近くに隠れ家がない時には森や沼地に潜むこともあった。また組織名は地下鉄道だが、実際に鉄道を使って逃げた奴隷はほとんどいなかった。
更に南部では、奴隷に逃げられると新聞が逃亡奴隷の情報を細かく掲載し、奴隷を捕まえた者には主人から賞金が出るなど、徹底的に追及した。
*黒人奴隷を助けた黒人たち
地下鉄道は19世紀に入った頃から活動が活発化した。特に自由黒人で商人のウィリアム・スティルは、月に約60人の頻度で奴隷を逃亡させ続けた。その為彼は後年、「地下鉄道の父」と崇められる存在となった。
更に、逃亡した奴隷が逆に助ける側になったケースもある。
ハリエット・タブマンという女性奴隷は1849年、北部への逃亡に成功したが、その後彼女は何度も南部に潜入し、数百人もの奴隷の逃亡を手助けしている。その功績からタブマンは「黒人のモーゼ」と呼ばれるようになった。
地下鉄道は1810年から1850年の間に、3万~10万人の奴隷を逃がしたと謂われている。
南部では奴隷が少なくなったことで奴隷の価値が高騰し、安価で奴隷を買えなくなった。その結果、工業技術が進んだ北部との格差が広がり、南北戦争へと繋がったのである。
第16代アメリカ大統領のリンカーンは奴隷解放宣言を発表し、南北戦争で北軍が勝利すると奴隷を逃がす必要もほとんどなくなった。こうして、地下鉄道はその役割を終えたのであった。
*画像
太線の部分に地下鉄道のルートがあった
「黒人のモーゼ」と呼ばれたハリエット・タブマン
黒人に対する誘拐注意を促すポスター
最下段には1851年と書かれている
本当に恐ろしい地下組織
歴史を変えた地下組織