goo blog サービス終了のお知らせ 

Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

日日是好日 一日一日を大切に頑張って行きましょう

◆日本で芽が出なかった山田長政はアユタヤ王朝の王から厚い信頼を寄せられた

2024-11-20 11:55:10 | Weblog


日本人傭兵隊の図


山田長政肖像


静岡にある山田長政の像


●大人物かそれとも小人物か 無名の男は海を渡った
 山田長政(1590~1630年)の正確な出生地は確定していない。
しかし、様々な資料を総合的に判断すると、1590年頃に駿府で生まれたと云うのが有力である。
長政は現在の静岡県馬場町の比較的裕福な紺屋で育ち、
幼い頃から町道場で武芸を習ったり、臨済寺で学問を学んだりしていたという。
1603年、江戸幕府が開かれ海外政策が重視される様になると、駿府は国際都市として華やぐ様になり、長政は、海外への憧れを強くしたのだった。

青年に成った長政は、武士としての名声を得る為に徳川十六神将の一人大久保忠佐がいる沼津へ向かったとされるが、程なくして駿府へ戻って来てしまった。
要するに、何もしていなかったのである。
それから暫くして、どう云った経緯であるかは不明だが、長政は台湾に向かう船に乗っていた。
予てよりの大志であった海外へと旅立ったのである。
戦国時代に鍛えられた武士などの日本人は傭兵として重宝されていたので、
海を渡っての活躍を夢に見ていたのだろう。
しかし、実は、この海外脱出に於いては、清水で人を殺めて国外逃亡を図ったと云う説も存在する。

●渡航先で開花した才能 シャムを戦禍から守る
 1612年頃、台湾へ着いた長政は、そこから更に南方にあるシャムに辿り着いた。
当時のシャムは、朱印船貿易の活発化によって、日本人たちが居住する日本人町ができていた。
この町の初代頭領であるオークプラ純広に面会した長政は、
「自分は織田信長の縁者である」とホラを吹き、日本人町で一目置かれる存在になったと言われている。
日本人町でオークプラから貿易のノウハウを教わった長政は、
元々幼い頃より学問に通じていた為か次第にその才能を開花させて行くのだった。
アユタヤ王朝の日本人傭兵隊にも加わる様になり、1620年には日本人町の三代目頭領に就任することとなる。
長政には胡散臭い面も多かったが、シャムでのし上がって行く実力があったことは認めなければならない。
日本人町の頭領でありながら、アユタヤ港の監視も任されていた長政は、
1621年にオランダ艦隊とスペイン・ポルトガル連合艦隊の襲撃に遭う。
しかし、この時の戦いは長政の奇襲作戦によってアユタヤは勝利を収めることに成功している。
1624年にも長政はスペイン艦隊の撃退に成功。
この様に貿易家として、また軍事に於いても優れた功績を残した長政は、
ソンタム王から厚い信頼を寄せられる様になって行ったのだった。

尚、この頃、江戸幕府の年寄土井利勝と本多正純は山田長政から
「日本に送ったシャムの使節をよろしく頼みます」と云う手紙を受け取ったという。
しかし、誰も差出人の山田と云う人物のことを知らず、大変困惑したと言われている。

日本ではフリーター生活をしていた長政のことを、当然ながら幕府の年寄たちが知るはずもなかった..........。

●国王から寵愛されていたが ハニートラップで没した
 アユタヤ王朝の国王ソンタムから確固たる信頼を得た長政は、何とシャムの王女と結婚まで果たしてしまう。
更に、オークヤー・セーナムピックと云う第三位の官位を授けられ、
何不自由ない順風満帆な生活を送っていた。

しかし、ソンタム王が体調を崩し昏睡状態に陥ると権力闘争が勃発し、
長政を取り巻く状況も一変して行った。

1630年、長政は当時アユタヤ朝と反目していたパタニ軍との戦闘中に足を負傷すると、傷口に毒入りの膏薬を塗られて死亡した。
前国王ソンタムの寵愛を受けていた長政を邪魔に思った新王プラサートの差し金によって暗殺されたと言われている。
プラサートが送った美女たちに囲まれ、気を許した長政はまんまと毒殺されてしまったという。
長政らしいと言えば、らしい最期ではあるが..........。

余談だが、タイ南部の都市ナコン・シー・タマラートには、長政を歌った子守唄があると言う。
これは南タイ文化研究所長のウィチット氏が、シャム時代の古い歌を採取していた際に発見したもので、
ナコン・シー・タマラートの農家の間で代々歌い継がれて来たものだと言う。歌詞は次の通りである。

「坊や良い子だねんねしな、
 泣くのをやめないと日本人の頭領(長政)が、女や子供をさらいに来るよ。
 泣くのをやめないとこの村が乗っ取られてしまうよ」
長政は本当のところ、シャムで一体何をしていたのか........。

かくも謎多き男は、こうしてタイにその名を残したのだった。

【まとめ】
 江戸時代のフリーター、アユタヤ王朝で官職就く

         
                  「その後」の日本史
                      新天地で名を残した天才たち

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ◆キリシタン大名の高山右近は... | トップ | ◆無数の人命を飲み込み続ける... »
最新の画像もっと見る

Weblog」カテゴリの最新記事