ロシア語で「畏怖すべき」「恐ろしい」を意味する「雷帝」の異名をつけられたイヴァン4世。
モスクワ大公国の君主として君臨し、文化的業績を残したり、公国の内政を整えたりと云った「名君」と云うべき顔を持つものの、残忍で狂暴な振る舞いから「暴君」のイメージで広く知られる様になった。
イヴァン4世は、1547年に「ツァーリ」(皇帝)に即位した際には、法制や身分制議会、軍政など、数多くの政治改革を行なっている。見事な政治的手腕を持っていたが、1560年代頃から次第に恐怖政治の色を帯びて行く。その裏には、イヴァン4世の性格に暗い影を落す様な幾つかの切欠があったのだ。
先ずは彼の生い立ちを振り返ってみることにしよう。
母のエレーナが摂政を務める下、僅か3歳で大公に即位するが、8歳の時にその母が急死する。そして、多感な時期を血生臭い権力争いの中で過ごし、周囲の貴族たちの策謀にトラウマを抱いて育って行ったのだ。そして17歳でツァーリに即位するが、その直後に重病で倒れてしまう。命は取り留めたものの、その際に目の当たりにした側近や貴族たちの変心と横暴な態度に、更に不信感を募らせて行った。
加えて1560年に最愛の皇后アナスタシアを失ったことも大きな影響を与えたとも謂われている。
イヴァン4世は、妻の死は、部下の誰かが毒を盛ったからではないかとまで考える。そんな周囲への根深い猜疑心が、イヴァン4世の思想に強く影響を与えたことに因り、政治的手腕は鈍り、終いには残酷な処罰を容赦なく行なう「暴君」へと変化して行ったのだ。
そして、1564年には、悪名高き「オプリーチニナ制度」を導入する。それは「ツァーリの忠実な手足」を意味する犬の頭の印をつけた黒装束の部隊が、ツァーリへの裏切りや反抗、屈辱的な態度が見られた人物に暴力行為を行なうものである。無実の者も数多く犠牲になり、国中が「雷帝」イヴァン4世の恐怖政治に怯えたのだった。
更に1570年には、ロシア史上最悪とも云える大粛清を行なう。ノブゴロドと云う都市全体に対して、敵国であるポーランドに寝返ったと云う濡れ衣を着せ、狂気的な虐殺と略奪を行なったのである。連日連夜、1か月以上の長期に渡って、生きたまま熱湯を浴びせて皮膚を剥ぐ、裸の女性を張り縄にまたがらせ、時間をかけて切断すると云った処刑を実施した。何とその際には、イヴァン4世が自ら街の住民に声をかけて集落し、その処刑を見世物に仕立て挙げて悦に入っていたと云う。
こうして徹底的な残虐行為が行われた結果、当時の市民の半数に当たる1万5000人もの死者を出した。
イヴァン4世の狂気は止まらなかった。そして、遂には唯一信頼をおいていた最愛の息子までも、口論の勢いから杖で殴り殺してしまう。わが手で犯した子殺しの罪ーーーそれ以降、彼は深い後悔と絶望感に苛まれ続けることになる。
1584年、戦場で手傷を負ったイヴァン4世は、立ち上がる力もなく、イルトゥイシン川の支流で溺死する。息子を手にかけた3年後のことであった。
世界と日本の怪人物FILE
暴虐と狂気に魅入られた者たち