オーストリアの首都ウィーンの軍事史博物館に、1台の赤いオープンカーが展示されている。
銃弾の跡が生々しく残っているこの車こそ、第一次世界大戦の引き金となった「サラエボ事件」の際に、オーストリア・ハンガリー帝国の皇位継承者、フランツ・フェルディナント夫妻が襲われた際に乗っていた車である。
*所有者の命を次々に奪った呪いのオープンカー
悲劇の発端となったこの赤いスポーツカーは、夫妻がサラエボで移動する為に造られた新車であった為に廃車とならず、その後、次々に所有者を不幸に陥れる「呪われた車」となって行く。
赤い車は、第一次世界大戦開戦後、第5オーストリア軍団の名指揮官ポティオレク将軍の所有となった。しかし、彼はその21日後、セルビア西部の都市ヴァリェヴォ近郊で起こったセルビア軍との戦闘で大敗を喫し、ウィーンへ送還。将軍はショックで精神を病み、養老院で死亡した。 次にポディオレク将軍の部下であった大尉が所有者となったが、9日目にクロアチアにて2人の農民を轢き殺した末に、自らも木に激突して死亡。 次に所有者となったユーゴスラビアの新任の知事も、4か月の間に4回も事故を起こし、4回目の事故で右腕を失った。 知事は車を破棄しようとしたが、スーキスという医師がただ同然で買い取り、6か月間、快適に乗り回した。ところが或る日の朝、スーキスは横転した車の下から死体となって発見されたのだ。しかし、不思議なことに、車には少し傷がついただけだったという。 死亡したスーキスの夫人はこの車を宝石商に売った。宝石商は1年近くの間、この車を無事に乗り回していたが、やがて自殺した。 次にまた別の医師がこの車の持ち主になったが、不吉な噂を耳にしている患者たちが寄り付かなくなり、スイスの某レーサーに譲り渡した。そのレーサーがドロミテのロードレースにその車で参加したところ、レース中に車外へ振り飛ばされ、石壁に激突して死んでしまう。 更に、車は回り回ってサラエボ近くに暮らす裕福な農民のものとなったが、或る朝、突然止まってしまい、通りがかりの農夫の荷馬車に繋いで引いてもらうことにした。すると、車が突然走り出し、暴走の末に曲がり角で横転して農夫と所有者が命を落としたのだ。
*今では、ウィーン軍事史博物館に展示されている
壊れた車は自動車修理工場所有者のティバー・ハーシュフィールドに買い取られて修理され、青く色を塗り替えられた。このティバーが最後の犠牲者となる。その車で彼は結婚式に6人を連れて行く途中で事故を起こし、本人と友人4人が死亡したのである。 その後、車は政府の費用で修理され、ウィーン軍事史博物館へと贈られた。16人の命を直接的に吸い上げ、何百万もの犠牲者を出す世界大戦の戦禍をもたらしたオープンカー.....。 もしもう1度走り出したら、また新たな不幸を生み出すのだろうか?
世界史ミステリー
迷信か、それとも..... 戦慄が走る「呪い」のミステリー