島根県、宍道湖湖畔の亀田山に築かれた松江城は、関ケ原の合戦後に出雲・隠岐二十四万石に封ぜられた堀尾吉晴が5年の歳月をかけて完成させた山陰の名城だ。
完成当時のまま残る天守は国宝に指定され、天守正面中央上の入母屋破風と呼ばれる三角屋根が、まるで千鳥が羽を広げたように見えることから千鳥城とも呼ばれる。
実に美しい松江城の天守だが、この天守には気味の悪い伝説が残る。
吉晴による築城は慶長12(1607)年に始まった。 工事は順調に進んだが、天守の土台だけがどうしても固まらない。困った吉晴が対策を検討する為に家臣を集めて評定を聞いたところ、一人の家臣が「処女を選んで人柱にするとよい」と提案したのである。そので慶長15(1610)年夏、二の丸に城下の人々を集めて盛大な盆踊りを開くことになった。人柱の人選をコッソリ行おうというわけだ。 不幸にして選ばれたのは、城下の商人、小倉屋伝兵衛の娘・小鶴。ひときわ声が麗しい美女だったという。 有無をも言わさず拉致された小鶴は、人柱として生き埋めにされた。すると、地盤はシッカリと固まり、見事な天守が完成したのである。
*新たな松江城を天守で出迎えたのは.....
しかしその後、松江城では奇妙なことが起き始めた。
盆踊りを行なうと、誰も居ない天守が不気味に鳴動するようになったのである。
人々は怨霊だと騒ぎ、それ以来、松江城内はおろか、周辺地域での盆踊りも禁止となったのである。 松江城では更に不幸が続いた。慶長9(1604)年に28歳の若さで急逝した吉晴の子。忠氏の跡を継いだ孫の忠晴は奇行が目立ち、家中の者を困惑させた。
挙句、世継ぎのないままに寛永10(1633)年9月に病死。堀尾氏は断絶してしまう。
而も不幸の連鎖は堀尾家に止まらず、その後に松江城主となった京極忠高も世継ぎに恵まれないまま僅か在職4年で病没。京極氏までもが後嗣がないことを理由に領地を除かれてしまったのだ。
こうなると、松江城主となる人物が、この城には何か不吉なことが起きる原因があると考えるのが当然である。実際、京極氏の後、新たな松江城主となった松平直政は、城に入るや、城中を検分した。様々な場所を検分し、天守にも足を運んだ直政は、天狗の間で一人の美女と出会った。すると美女は「この城は私のものだ」と言うではないか。しかし、直政はひるまなかった。「このしろ(鰶)が欲しければ、漁師に取らせてやろう」と、実に洒落の利いた答えを返したのだ。
すると、この「オヤジギャグ」が効いたのか、謎の美女は忽然と姿を消した。
直政は早速天守の下にある荒神櫓に鰶を供え、以後、これを欠かさなかったと謂う。
日本史ミステリー
背筋も凍る.....今もなお消えない「呪い」の伝説