ここ1ヶ月ほどの間に、何度かMさんが夢にでてきました。何故そんな夢を見るのだろう?Mさんに何かあったんだろうか?等と思っていました。
Mさんは小学校時代の友達です。1・2年と5・6年生で同じクラスで、特に高学年になってからはよく一緒に行動したものです。
東日本大震災後に、40年ぶりくらいに顔を合わせました。すぐタイムスリップしたように当時の気持ちになれましたが、話してみて40年の間の様々な経験を経て、自分の知っている無邪気だった彼女がとても大人になっていることを感じました。
でも、やっぱり彼女らしさは変わらず、懐かしいものでした。
「その彼女が何故?」
と思っていたのですが、一昨日はハッと思いあたりました。
ちょうど2日前に旧・門脇小学校の校舎の一部解体が始まったというニュースがあったのでした。
「そうか?無意識のうちにそんな思いが影響していたのだ。」と気づきました。
先月半ば頃から、一部保存に向けて、校舎を覆っていたカバーが外されていたのです。その間に一度見にいけたらと思っていましたが、行けないうちに解体工事が始まったのです。
東日本大震災直後に同級生同士で集まった時、高学年の時、やはりよく一緒に様々な遊びや仲良し喧嘩をしたHさんが、
「あそこが私たちの原点だから...。」
と言っていました。
そうそう、あの頃は、まだ大きなことは分からず日々のことが最大の関心事でした。
グループで友達の家に遊びに行って、一体何をしていたのか今はすぐには思い出せませんが、友達の家の様子などははっきり覚えています。Mさん曰く
「廊下が長かったから喜んで走った!」
とか、そんなものだったのですが、毎日がワクワク、ドキドキで目を輝かせていました。
あと覚えているのは、当時新校舎の3階が教室だった私たちは屋上でよく遊びました。(現在の学校はおそらく屋上は通常は出入り禁止になっているのではないでしょうか。)
屋上の一角が他の部分より高くなっていました。音楽室の上の部分です。
そこが鬼ごっこの格好の場所となりました。高い部分から手すりを使ってひらりと低い部分に飛び降りて逃げたり、また、低い部分から飛び上がって高い部分に逃げたりと、それはもうキャーキャー言いながらはしゃいだ休み時間でした。
時には膝小僧がコンクリートの端にぶつかり一直線の傷がついたこともありました。そんなことはものともせず学校生活でのルーティンの一つとなっていたりしたのでした。
あそこの屋上部分は取り壊されます。中央部分67mの範囲を保存し、両端20mほどは解体されるのですから..。
夢に出てくる学校だったり建物だったりは何故かいつも建物正面に向かって左側が入り口です。
それもわけが分かりました。
小学校の左が昇降口だったのです。
あの、日和山(ひよりやま)に続く丘?の道路から学校に続く獣道のような細い道を降りて毎日校舎左の昇降口から入ったのです。
途中、太い木の根の半分がむき出しになって、ちょうど雨宿りができるくらい下にスペースがあり、その下に入ったりしていましたが、ある時先生に「崩れたりしたら危険なので入らないようにしましょう。」と注意をされたことがありました。
また、あの道はお墓があった場所だとも言われ、ある時は骨があったとかなんとか..。本当かどうか分かりませんが、半分本気にする雰囲気の所でした。
現在はきちんと階段になっていました。当たり前ですよね。昭和じゃないんですから。
確かに、潜在意識の中に刻み込まれたたくさんのことを体験した場所であり、いろいろな意味で自分という人間の原点になっているようです。
そんな大切な場所が、テレビの何分かの映像の中とはいえ崩されていく様を見るのは、分かっていたことであってもなんとも言えないものです。心の中に懐かしい様々な出来事等が浮かんできます。
そして「ありがとう!門脇小学校!」という感謝の思いがわいてきます。
本間さんたちは一部保存では、その津波の恐ろしさを伝えきることはできないと全体保存を要求しましたが、結局は最初の案の通りに計画は実施が始まりました。耐震工事や維持に費用が掛かりすぎるということです。
津波の他に火災にもあったということで、より費用がかかるのでしょうか?本当の恐ろしさを伝えることはなかなか難しいことなのかもしれません。
でも、3ディーで当時の様子を見られるようにするとか言っていたような気がします。
旧・門脇小学校の整備は来年度中に完成する予定だそうです。
昨日、この記事を書き始めましたが翌日(つまり今日)とても良い天気だったので、ドライブがてら直接行って見届けようと思い出かけてきました。
やはり道路がまた工事中のところが多く、砂山と呼ばれていた場所はショベルカーで崩されている最中でした。
復興住宅らしい建物には、多分「避難ビル」の表示と思われるマークのついている建物が2か所ほどありました。
それから、網地島行きの船着き場?の表示が随分先の方にありました。
堤防が高くて見つけにくくなったからでしょうか?
門小の近くの海側の道路脇に、小高い山のように土を盛り上げた場所がありました。小さい公園なのかな?
門脇から川沿いに曲がるあたりに「新しい堤防を造っています」というような表示がありました。その部分の堤防が次の写真です。
この堤防の裏側が川なのですが、全く見えません。見えないのも不安な気がしますが..。
以前、新聞に東日本大震災後に各地に造られた様々な堤防の形が紹介されていたことがありましたが、その中に堤防の壁の中に海が見えるような窓のような部分がつけられているものがあり、面白いと思いました。これなら海の色も見えます。
海の色は、その部分の深さだったりその他様々な情報を与えてくれるものだったような記憶がありますが..、それこそ津波が来る前の引き波が見えないのでは...?と思ってしまったり...。
それから、「女川原発稼働反対」という表示もどこかにありました。
先日、原子力規制委員会が女川原発に事実上の「合格」を示す審査書案を取りまとめました。これにより、今後パブリックコメント等を経て正式に審査に合格する可能性(or恐れ?)が出てきたのです。
でも、今日も日本では地震が起きました。いくら安全と言っても「想定外が起こること」を想定すれば、絶対安全はあり得ないように思い不安になります。
その他、街で見かけた風景は次のようなものがあります。
石巻小学校から立町通りに向かう道路沿いにこのような漫画のキャラクターが立っていました。
その近くにはカラフルなフルーツの模様の建物があり、よく見ると果物店「もりや」でした。
ちょとステキです。街が明るくなります。
私はちっとも覚えていないけどなあ。私は放送部だったから、朝会のたびにあのテラスの上走り回ったこと、あの上からマイクをするすると下に下ろしたような気がする。学校あげてベルマーク集めて、初めてのテレビが放送室に入ったこととか、そんなことが学校校舎の思い出だよねえ。
このごろボランティアとしてこちらの小学校に関係しているのですが、小学生も学ぶべきことなど多いですねえ、驚き。
門脇地区の小学生よ、頑張ってね。地域的に震災受けたハンディあっても強く生きてほしいな。
もう、どこも自然災害の危機の中にあるしねえ。
私が昔のことを覚えているのは、時々石巻に行ったり当時の友達と会ったりするからかもしれません
そう考えると、石巻に住んでいる人たちはそれ以上に門小解体で思うことが様々あるかもしれません
でも、みんな門小で育まれたものを大切にしながら力強く前に進んでほしいと思います