石巻白梅ししの会便り

石巻のためにできることを一緒にしようね!!

DVD「まだ見ぬまちへ -石巻小さなコミュニティの物語」の映画を見ました

2018年11月17日 | 紹介

 

  

 写真は2015年頃の門脇・南浜町。復興住宅建設中の頃ものです。

 このころ門脇辺りに住んでいる方たちは何を考えどのように暮らしていたのでしょうか?

 

 少し前に届いた「まだ見ぬ町へ -石巻小さなコミュニティの物語」のDVDには、震災直後から数年間にわたる住民の様子等がドキュメンタリー形式で伝えられています。

 どんぐりさんは、ドキュメンタリー形式による制作姿勢によってか物足りなさを感じたとの感想をくれました。そのことや忙しさもあってか私はそんなに大きな期待を抱かずに開いてみたのでした。

 映画はいくつかの項目に分けて描かれています。

 

 初めの映像では昔の街並みや通りの写真があり、子どものころの記憶と重なります。

 

 そこに住む方たちの言葉は石巻弁で(仙台とはちょっと違います。)ぬくもりを感じました。

 

 3.11の時の門脇、その日をその場所で迎えた方々の様子の記録。門脇地区は、本当に日和山のすそのの十数軒しか住めるような建物は残らなかったのですね。

 その中に、私たちの2年上の上級生の本間栄一さんがいました。

 小学校でも中学校でも一緒に学校生活を送ったことのある方です。

 以前どんぐりさんのレポート「本間家の蔵」の持ち主です。

 蔵は二つあり、一つは流されもう一つは津波に耐えて残ったという記事でした。

 県外の方々の募金や寄付があり修復され、現在は以前から収蔵されたいた古文書などと一緒に津波の記録などがおさめられ無料で一般公開されています。

 蔵の壁には、そこにきた津波の高さの印がつけられています。

 

 2階の一部まで水が上がったそうです。

 

 

 さて、映画ではその地でかろうじて住むことのできる何世帯かの方々が震災直後からどのように過ごしてきたか、また何を考えどのような活動が行われてきたかが詳しく記録されたものです。

 145分にわたる長いものなので、2回にわけて視聴しましたがその中で初めて知ることもいくつかありました。

 

 その内の一つとして「北向き地蔵」があります。

 このお地蔵様は昔からあったものだそうです。

 門脇や南浜町に住んでいた方はご存じでしたか?私はその存在を全く知りませんでした。

 

 実は、このお地蔵様は海を見てたっています。

 昔から、聖人堀(しょうにんぼり)より南側は昔から水難事故が多いので「これより南には人は住んではいけない。」その目印として北向き地蔵がたてられたそうです。

 そして、2003年当時のお地蔵様の写真が紹介されています。

 度々水害に見舞われた先人たちが後世の人々のためにたてたものだったのです 

  

 でも、やがてだんだんその南側に人家がたてられたのだそうです。

 どうやら、初めは戦後引揚者のための市営住宅が初めだったようです。でも、その後普通の住宅が建てられ、人が住めば店もでき...ということで広がっていったようだとのことです。

 

 「先人の教え」は、そのようなきっかけがあり、崩れ忘れられてしまったのですね。  

 

 数年前にある方のお宅を訪ねるためその方の住所を見たら「門脇...」と書いてあったので、「ああ、門脇か」と私の知っている地域を思い浮かべていたのですが、見つかりません。よく地図を見ると大街道の海側にその地番があります。聞けばそこも門脇なのだそうです。いつからあったのでしょうか?ちょっと驚いたものです。

 でも、あそこも海に近い。北向き地蔵はなくても大きな津波被害を受けたはず...と心配になりました。

 

 「災害は忘れた頃にやってくる」  北向き地蔵の話でこの言葉を思い出します。

 

 

 その他、津波によって、自然環境の中で起こった良い変化についても知ることができました。

 それについては、機会がありましたらまた記したいと思います。

 

 今日は、このへんで終わりにしたいと思います。

 この映画の中には、自分たちの生活を向上させるために住民が力を合わせて工夫していく過程が記録されていて、人と人の関わりの可能性を感じさせられます。

 青池監督は、このテーマは普段の地域社会づくりに通じる普遍性を持っていると語っています。

 

 

 

 

 

 

 

 


「カラス なぜ泣くの 」  メロリンさんからのお便り

2018年11月03日 | 活動

 

                 写真①

 メロリンさんからお便りが届いていました。

 アップするのが遅くなりましたが、10月頃の原稿なので、台風があいついできていた頃のものですね。

 それでは紹介いたします。

 

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      「カラス、なぜ泣くの」

 

  酷暑の夏が過ぎ巨大台風が去り、今はカラスの声が少々気になる秋。あれからもう一年が経ったのですね。

  昨年の10月に一羽のハシブトカラスが庭にやって来た。奇妙なやつで異常に人懐こい行動をするので、ハシブトカラスのハシブローと名をつけた。

  スマホのカメラを向けるとこっちを向く。シャッターを押す瞬間にカメラ目線だ。写真①

  人の直ぐ近くに降り立ち、全身を右左に揺らしながらノソノソと歩く。

  おやっ不思議と思い追いかけると逃げるのに、フェンスの上に止り、又こっちを見る。

  ハシブローの鳴き声は一度も聴いていないのに、それなのに無言のメッセージを感じてしまった。

  アニメじゃないけれど、こいつは何か重要なメッセージを持って伝えにやって来たのではないかという気がした。

 

 もしや、ジョー君が死んだのではないかと思いハッとして、心の中で必死に打ち消したものでした。

 

 ジョー君とは、ジョービタキのオスのジョー君の事だ。冬の渡り鳥であるジョービタキは秋に日本にやって来て冬を過ごして、翌年の春に大陸に渡ってゆく元気で美しい小鳥だ

  大陸では夏に家族をつくり繁殖をするというが、日本では縄張り意識が強く単独行動をする。希に日本で廃屋に繁殖をした例があるという。

 

  ジョー君は3年続けて我が家にやって来て、テラスの吐き出し窓に飛びゲリをしていた。

  プランターに止り、窓に映る自分の姿を敵と見なし飛びかかるから、家の中から見てると飛びゲリとなる。

  笑った、笑った。楽しかった。ジョー君のお陰で震災による心の悲しみを忘れる事が出来て、とても慰められました。1日に何度もやって来たものだ。

 ジョー君との不思議な思い出

 

  四年目になる去年はとうとう来なかった。

 

  その代わり、ジョー君の代わりにジョー子ちゃんがやって来た。ジョー子ちゃんは何故だかジョー君の寝床を使うのだ。 

  隣の空き地の藪の中に寝床があり、夕方暗くなると寝床に向かってテラスの前を横切り、スーッと斜めに低空飛行する。

 

 その姿、その行動はジョー君とピッタリ、まるでそっくりだったので、そうだ、ジョー君の娘のジョー子ちゃんに違いないと思ったものでした。 

  四年目の冬となった去年の秋から今年の春まで、ジョー子ちゃんと共に楽しく過ごす事が出来ました。 

  そうして、三月下旬にはジョー子ちゃんも大陸に渡って行った様子でした。

 

 ジョービタキは地鳴きの他に囀ずりを持っている。ジョー君との四年前の出会いの時に、テラスに迷い込んできて聞かせてくれたあの囀ずりは一生涯忘れない。

  胸を大きく膨らませて、まるでテノール歌手の様な姿勢で囀ずりしていた。

  私はそっと隠れて見ていた、聴いていた。

 

 ハシブトカラスのハシブローがやって来た日から一年が過ぎ、ジョー子ちゃんが去ってから半年がすぎ今日までに、野口雨情作の「七つの子」の替え歌が五つ出来ました。宜しければ歌いながらお読みください。

 

 

② カラス  あっち向けホイ 

          こっち向け   丸い顔 

      カラスのハシブローと 

      遊ぼうよ 

      それなのに  それなのに 

      ハシブローは逃げる 

      それなのに  それなのに 

       逃げてゆく 

       山の古巣へいてみてごらん 

      丸い顔してかくれんぼ

 

 

③ カラスなぜ来たの 数えて廿 

     いつのまにやら大家族 

     かぁちゃん  かぁちゃんと 

     とぉちゃんが呼べば 

     かぁちゃん  かぁちゃんと 

     子がさわぐ 

     山の古巣へいてみてごらん 

     丸く囲んで一休み 

 

④ カラスごめんなさい 

     パチンコぶっつけて 

    カラスは  相手を覚えてる 

   こわい  こわいよ  

   空からつつく 

    こわい  こわいよつつかれた 

    山の古巣へいてみてごらん 

    仕返し  済んだら 仲直り

 

 

①カラスなぜ泣くの カラスは 

    山に  可愛い七つの子がある  

    からよ   可愛い  可愛いと 

    カラスは鳴くの  可愛い 

    可愛いと鳴くんだよ 

    山の古巣へいてみてごらん 

    丸い目をしたいい子だよ 

 

⑤  カラスなぜ泣くの 

      カラスの勝手でしょう 

      野口雨情さんも苦笑い 

     かぁ かぁ かぁ、かぁかぁか 

     ぁとカラスも笑う 

     かっ  かっ  かっ、かっかっ 

     かっとバカ笑い 

     山の古巣へいてみてごらん 

     真昼のおっ月さんも笑い 顔

 

⑥  カラス お眠だよ夕陽が沈む 

      今日も1日ありがとう 

      お腹一杯食べて遊んで 

     夕陽が沈む 

      お腹一杯食べて遊んで 

       日が暮れる 

      山の古巣へいてみてごらん 

      七つ揃ってお眠だよ  

こうして見ると①番の歌詞のすばらしさが一段と感じられますね。                 おしまいです😃

 

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 メロリンさん、ありがとうございます。

 おなじみの鳥さんが今年は現れるのでしょうか?それにしてもユニークな替え歌ですね。

 なんでもお仕事関係のバス旅行の際にメロリンさんが披露した替え歌だとか、、。

 みなさんが一緒に歌いだし大盛り上がりだったとか...。くつろいで旅行を楽しんでいるみなさんの姿が浮かんでくるようです。

 

 カラスは身近な鳥ではありますが、不気味に感じられることもある鳥ですよね。

 先日、私もある建物に入る時、カラスが二羽電線に止まっていて

「ギャオ、ギャオ。 ギャオ、ギャオ。」と大きな声でしばらく泣き続けていて、周りの人と一緒に

「不気味ね。」と話したばかりでした。

 その数日後には、今度は何羽ものカラスたちが同じ場所の空間を飛び回りながら

「かあ、かあ、かあ、かあ、かあ、かあ。かあ、かあ、かあ、かあ、かあ、......」と騒ぎ続けていたのです。

 今度は、建物の中から見た私たちはやはり

「いったいなぜ騒いでいるのだろう?」と嫌な気持ちで眺めたのでした。

 

 そこで、カラスについて調べてみると、意外なことが分かりました。

  カラスがクルミを食べるために、道路において自動車のタイヤにひかせてわれたところを食べるという話は有名です。

 カラスは頭が良いのでしょうか?

 

 カラスについて調べている杉田昭栄氏によると、体重あたりの脳の重さは、人間で1.8%なのに対してカラスは1.4%。鳥類では圧倒的に多いし、馬などに比べても体重比で大きいそうです。

 カラスにできてイヌ、ネコにできないことは山ほどあるそうです。人の顔を見分ける実験をすると、カラスは2日位で覚えるそうです。

 「自分をいじめた人間の顔を覚えていて仕返しをする、という話を聞いたことがありますが。」という質問に対しては、「仕返しをするかどうかは別として、人間相手に分が悪いのは察しているので、見かけたらきっとガーガー泣きたてるでしょうね。」と答えていますが、メロリンさんの話によると、替え歌のパチンコでたまを当てられて仕返しするカラスの歌詞は、身近な人の実話をもとに作ったとのことなので、敵を覚えていて仕返しをすることがあるのは確かなのでしょうね。

 また、米国での実験報告によると、次のようなものがあります。

 怖い形相のマスクをかぶった人がカラスを捕え、恐怖心を与えてから放す。すると以後、怖いマスクの人が歩くとカラスが一斉に甲高く泣き叫び、羽をばたつかせた。時間が経つほどに反応するカラスは増え、直接その経験をしていない1~2キロメートル離れた別の群れのカラスまでもが反応し始めたとのこと。

 つまりカラスは自らの直接体験、親から子への情報伝達に加え、他の群れとの情報交換という3つの情報伝達を持つというここと。どのように伝えるのかはわかっていませんが、コミュニケーション能力があるということなのだそうです。

 また、群れの中での自分の立ち位置、や他の個体とのかかわりを理解する能力があるとのことです。そういえば、カラスは集団で裁判をするという話を聞いたことがあります。このような社会的な概念があるのですね。

  視覚についても述べられています。人間の色覚は赤緑青の三原色ですが、カラスはその他に紫外線を加えた四原色だそうです。

 それから、怖い話も述べられています。

「鳥類では例外的に共食いをする」のだそうです。

 「数羽のカラスを同じ檻に入れておいた時、ケンカが始まって1羽が負けて死んでしまうことがあった。その後どうするか見ていたら、勝ったカラスと周りにいたカラスで、死んだカラスを残さず食べてしまった」ということです。

 また、公園でカラスがネコをもてあそんだりちょっかいを出したりすることもあるそうです。人間と同様にカラスにもそういう部分があるのだそうです。

 

 こうしてみていくとカラスは思ったより 油断のならない存在なのですね。

 ハシブロウくんのカメラ目線は、まさにカメラを向けている人をじっと観察しているのかもしれませんね。

 日本の童謡にはかわいらしいカラスの歌がいくつかありますが、そのイメージとはちょっと異なる面がありますね。

 

 カラスについて勉強してしまいました。

 メロリンさん、今年もきれいな囀りをぜひ聴きたいものですね。

 

  仙台七北田川付近のカラス  ハシボソガラスかな?                     近くの電柱にたくさんのスズメが...?

  

 こんなにたくさん!                   近くの別の電柱にも!どうしてかな? 今飛んでくるものも...?。

 

  答えは。↓

                  

 電柱の下には、刈り取ったばかりの田んぼがあったのです。        近くの七北田公園の木立 きれいですね。(スズメに関係ありません。)

スズメがひっきりなしに電柱から下に降りています。食べ物がいっぱいだったのですね。

 

 

 

 

   

 

 

 

 

 

 

 

 


「戊辰戦争一五〇年 ー最後の藩主伊達慶邦の決断 仙台藩の戦いー」  仙台市博物館特別展

2018年11月01日 | お知らせ

 

 仙台市博物館において10月26日(金)~12月9日(日)に「戊辰戦争一五〇年」の特別展が開催されています。

 現在、NHKの大河ドラマで「せごどん」が放映されていて、明治維新にいたるいきさつが詳しく描かれています。会津が大変な目にあったことは、様々な機会に語られ有名です。白虎隊の出来事は特に有名で私たちも小学校の修学旅行でその地を見学したものです。

 しかし、仙台藩が当時どのような状況だったのかは、考えたこともありませんでした。

 そのあたりの事情や出来事がこの特別展では資料を提示しながら披露されていました。

 仙台藩では、会津討伐を命じられ錦旗が下賜され、また、会津藩からは朝廷へのとりなしを依頼されたのだそうです。

 このような状況下で伊達藩主慶邦は征討軍の中止を求めて新政府に意見します。

 慶邦の主張  ● 鳥羽・伏見の戦いの契機となった発砲はどちらが先か?

        ● 大政奉還後の徳川慶喜に謀反の意思があるか?

        ● この決断は幼い天皇の判断なのか?

        ● かつて朝敵となった長州藩が許されたように慶喜にも寛大な処置をすべきではないか?

        ● 内乱に乗じて外国から干渉されないか?

 慶邦はこの建言書を朝廷に提出するため家臣を上京させますが、すでに征討軍が出発していたため時期を逸したとして、提出は断念されたとのです。

 当時、奥羽の多くの藩は、仙台や米沢の大藩がどう対応するか探っていたそうですが、慶邦は奥羽(東北地方)の10万石以上の藩主たちにこの建言書を送り、戦争回避への協力を求めました。奥羽の藩主たちもおおむね賛成したのです。

 しかし、建言書の提出に失敗した仙台藩は、米沢藩とともに会津藩に謝罪させるため、玉虫左太夫(たまむしさだゆう)と若生文十郎(わこうぶんじゅうろう)を会津に派遣します。会津藩が謝罪すれば「会津藩討伐」の目的が消え、戦闘が中止されると考えたからです。

 会津藩征討のため、新政府が組織した公卿(くぎょう)の九条道孝(くじょうみちたか)を総督とする奥羽鎮撫軍が仙台にやってきました。

  やがて...

 新政府は12月になると、敵対した奥羽越諸藩への処分を発表し、仙台藩は会津藩と並んで厳しい処分を受けました。62万石から28万石へと領地を削られました。翌年5月には戦争責任者として但木土佐(ただきとさ)と坂英力(さかえいりき)の2人が斬首に処せられました。また、仙台藩の内紛により、玉虫左大夫(たまむしさだゆう)や若生文十郎(わこうぶんじゅうろう)等も切腹させられたそうです。

 戦争を戊辰戦争を生き延びた人のなかには、明治時代の仙台の発展に大きく貢献した人もおり、松倉恂(まつくらまこと)は戊辰戦争時に兵器や軍艦の購入に尽力しましたが、戦後、明治11年(1878)に初代の仙台区長(現在の市長)となったそうです。

 明治維新にむけて仙台藩でもたくさんの葛藤や出来事があったことが分かりました。政変というのはやはり多くの人にとって大変なことなんですね。

 

 ところで、白虎隊の唯一の生き残りとして飯沼貞吉がいました。

 貞吉は自刃をしましたが死にきれずにいたところを同じ年ごろの息子を探しにきた会津藩士の妻に見つけられ手当を受け一命をとりとめたということです。

 その後、新政府軍に捕われましたが、見込みがあるとして長州藩士の楢崎頼三に引き取られ、長門国に連れ帰り庄屋の高見家に預けて庇護したという。会津方にも長州方にも知られないように飯沼の母にだけ生存を知らせ自らの家族や知人以外には存在を秘匿したとのことです。飯沼は当初何度か自殺を思い立ったが、ある日頼三に「今、日本には外国船が押し寄せており、会津・長州と言っている場合ではない。日本人は団結して国を強くしなくてはならず、その担い手は若者だ。国の役に立てるように勉強せよ。」と諭され、以降貞吉は一心不乱に勉学に励んだといいます。楢崎家でも貞吉の話は密かに語り継がれていたとのことです。

 貞吉はその後、勉学に励み国内各地の数々の要職を歴任し、1910年(明治43年)に仙台逓信管理局工務部長に就任。日本の電信電話の発展に貢献したそうです。

 退職後も仙台に住み続け、1931年(昭和6年)仙台にて永眠。墓は輪王寺にあるそうです。

 

 学ぶ機会を与えられた祖父にちなみ、孫の一元はNPO法人「海の会」を設立し、東日本大震災の遺児に返済不要の奨学金を与える活動をしているとのことです。

 また、次男の孫に石巻赤十字病院院長・飯沼一宇がいるそうです。

 

 なるほど...。世の中はつながっているのですね。意外なところに身近に助けがあったり、人との出会いがあったり..。

 良い出会いに恵まれるように、また、自分と出会った人が良い出会いだったと感じられるようになったら素敵です。

 そのためには...、さて...。

 

 今の季節仙台市博物館のあたりも木々がきれいです。

 

 この入り口は、博物館構内の「残月亭(旧姉歯家茶室)」のものです。仙台市の指定・登録文化財です。

 

 

 中には、茶室や水やがあります。ちょっとほっとする簡素?な設えですね。

 

 見学を終わって、博物館の門をでようとすると、交通規制をしていて出られません。

「第36回 杜の都全日本大学女子駅伝」が開催され、そのコースになっていたのです。

 「全員が通過するまで待ってください。」と言われ、その場で端により見学することにしました。

 

 一人来る毎に拍手して応援します。元気だなあ。若さは素晴らしいなあ。なんて思った秋晴れの日でした。