石巻白梅ししの会便り

石巻のためにできることを一緒にしようね!!

「いづおんつぁんの謎 -その①」 ひまわりさんからのお便り

2020年02月29日 | お便り

          

               ひまわりさんの庭のカエルさん

 

 久しぶりにひまわりさんからお便りが届いていました。

 先月忙しくてupできなかったのですが、そこから現在までの間に世の中は随分かわりました。

 新型コロナウィルス感染症が広がりはじめ、あれよあれよという間に各地に感染者が出てこれからもさらに増える気配です。学校も休校する事態となり、この感染症の影響はまだ計り知れません。

 昔、高校で世界史の初めての授業で担当のJ先生が、「これから歴史を勉強していくときに『歴史は繰り返すか?』ということを考えていってください。」と言われたことを、この頃時々思い出します。

 当時は、「違う人間が生きているのだから同じになるわけはないではないか。」と思ったものでしたが、歳を重ねてくるとなんだか繰り返すことがあるのかもしれないと思うようになってきました。

 戦争もその一つですが、いわゆる疫病?もその一つのようです。世界の人口が増えてくると、戦争や疫病(伝染病?)などによって人口が激減するということでした。

 結局、いずれ治療薬が開発され収まるのだと思いますが、その日が1日も早く来てほしいと祈らずにはいられない状態になってきています。

 

 さて、ひまわりさんからのお便りは、新型コロナウィルス感染症が話題になる前に送られてきたものです。今ほどは戦々恐々とした世相ではない時のことです。

 読むと、ほっとします。

 

 前置きが長くなってしまいましたが、以下に紹介いたします。 

 さて今回は、どんなお便りなのでしょうか?

 

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 こんにちは、私は石巻生まれで現在は関東在住です。

 

 昨日TVで天皇家の食卓についての番組を見ていて、とてもガテンした思いがひとつありました。

 

 室町時代の末期、後醍醐天皇はカエルを焼いて食べるのが大好物だったというお話でした。当時は牛や馬が農家の働き手だった為にとても食べる事ができない。カエルを焼くと焼き鳥の味に似ていてとても美味なんだとか。

 

 以前私が四十才代の頃に台湾旅行中にカエルの喉ボトケのスープを食べた事がありますが、カエル焼きの味を私は知りません。カエルを見て、美味しそうと思った事がありません。

とてもお粗末な物が天皇の大好物だと聞いて天皇を可哀相だとも思いました。

    あの後醍醐天皇がカエルを食べるんですよ。そう思ったとたんにハタとガテンする物がありました。

 石巻で育った子供の頃、湊の大門崎に一皇子宮(いちおうじみや)という小さな神社があり四月下旬に行われる年に一度のお祭りが楽しみでした。「いづおんつぁんのおまづり」と呼んでいました。あの頃の屋台にあったハッカ飴や飴細工を最近見ることが出来ませんね。        

 小さな鳥居の側に小さな舞台が造られて奉納演芸も有りました。その中に男舞いの上手な中年女性がいて、私は子どもながらにその人のファンでした。石巻の人は芸達者な方々が多かった。舞台上の顔が忘れられない。

 

 今でもお祭りは続いていて、同級生が中心になっていると聞いています。

 

 小学生の頃に、このお宮のこの場所に昔々、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の一王子の護良親王(もりながしんのう)が住んでいたんだよと教えられました。へぇ、こんなところに何故?と思いながら長い年月が過ぎ去りました。 

 境内の石碑には歴史的な経緯が刻まれており、この宮の存在理由が伝えられていますが残念ながら教科書で習った史実とは反しているようです。どちらが本当なのかは定かではありませんが、鎌倉には明治天皇が護良親王を祭ったとされる鎌倉宮があります。

 

 でも、私はガテンしました。妙にガテンしてしまいました。 

 

      もしも護良親王が本当に石巻に来てあの大門崎という土地を選びそこに住み着いていたんだとしたら、その理由は、食べ物が美味しかったからだと!

 

 鎌倉の地で死んだはずの護良親王が数人の家来達と命逃れて大門崎で暮らした晩年は、美味しい食事に包まれてなんという幸せに恵まれた事 でしょうか!海の幸、山の幸、川の幸を豊富に食していたのではないでしょうか!         

 こう思うと何故か変な確信が有りました。初めて私は護良親王に親しみを感じて安堵しました。一人勝手に納得して想像しました。いづおんつぁんは食に恵まれて幸せになれる運の良い神様かも知れません。

関東では戦後の食糧難の時に食用カエルを食べたかたが沢山おられたと聞きます。石巻ではあり得ませんね。

 

 同級生のジュンちゃん、(男性)いづおんつぁんのおまづり頑張ってね。機会があったらおじゃまいたします。

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 ひまわりさん、ありがとうございます。

 また、このような夢のあるお話にゆっくり浸れるような日々が早く戻ってきてほしいです。

 


旧門脇小歩みと「あの時」ー石巻・南浜つなぐ館で企画展示

2020年02月23日 | お知らせ

  写真は南浜つなぐ館の中の様子

 

 お知らせが遅くなってしまいましたが、1月から2月29日まで「南浜つなぐ館」で旧門脇小の記憶と記録を伝える企画展示が開かれています。

 校舎の一部解体が進む中、地域の象徴として親しまれた門脇小学校の歩みを知ってもらおうと、公益社団法人「3・11みらいサポート」が企画し、地元町内会やNPO法人「石巻アーカイブ」などが協力して開かれました。

 写真は会場の中の一角です。

 震災前のジオラマの他に、同地域や石巻周辺の地図、旧門小の写真などが所せましと展示されていました。

 前回まではなかったシアタールームができていました。

 震災当時の様子を知ることができるようです。

 

 

 展示の中に、旧門脇小の創立から歩みがありました。

 それによると、当校は1873年(明治6年)創立(第七大学区第二中学区第八二番)

 となっています。

 そして、1887年(明治20年)石巻小学校の分教場となる  とあります。

 そして、1892年(明治25年)門脇尋常小学校となる   となっています。

 以前、震災直後門脇小学校の校長先生に当校が石巻で1番最初につくられたと伺っていましたが、それは1873年の創立のことなのかなと思いました。

 そして「門脇」と名のついたのが1892年なのでしょうか。

 現在地に校舎が移転したのが1902年(明治35年)とのことです。

 ちなみに、それより6年前1896年(明治29年)に釜分教場が落成しています。

 1941年(昭和16年)門脇国民学校と改称

 そして、1946年(昭和21年)釜小学校独立

 1947年(昭和22年) 戦後ですね。門脇小学校と改称されたのだそうです。

   (この時にはまだ校歌がなかったのですね。だから私たちが校歌のお披露目をすることになったのですね。)

 1979年(昭和54年) 石巻市立大街道小学校が独立開校

 1982年(昭和57年) 新校舎完成・西校舎改築落成式

            (私が新校舎に入ったのは、3年生か4年生の時のように思います。その新校舎とは違うのかな?)

 そして、2011年(平成23年)東日本大震災に伴う津波及び火災により焼失

               これにより管理・普通教室棟焼失

               石巻市立門脇中学校三階を間借りし教育活動を再開

 2012年(平成24年) 仮設校舎完成(図書室他特別教室等)

 2015年(平成27年) 石巻市立石巻小学校と統合し閉校

  などとあり歩みを知ることができました。

 

 その他、当地域の昔の写真や地図等壁面いっぱいに展示され懐かしい風景もありました。

 

 ちょうど見にいらしていた年配の男性は、震災時外国にいて石巻に帰ろうとしたところ、今来ても大変だから来ない方が良いと言われた話やその他しばらく話していました。

 そんなふうに当時のことや自分の体験などを話したくなるような空間でした。

 

 間もなく終了という時期ではありますが、もし、可能であればご覧になってはいかがでしょうか。

 

南浜町・門脇の現在の様子