石巻白梅ししの会便り

石巻のためにできることを一緒にしようね!!

石巻・門脇に「いのり大佛」建立へ

2024年05月24日 | お知らせ

                    

                         大仏のイラスト(施無畏与願印)   

                                                                              景色の写真は2013年の日和山からの風景

新聞記事は2024年(令和6年)5月5日の朝日新聞より

 

どんぐりさんから、新聞記事の紹介がありました。

石巻に大佛建立の計画がすすんでいるという内容です。

 

河北新報の記事も見つけました。

それは、2023年3月15日「石巻・門脇に『いのり大佛』建立へ 西光寺などのプロジェクト始動」という見出しです。

門脇地区にある西光寺の樋口伸生住職(60)が代表を務め、西光寺震災遺族会「(蓮)はすの会」や趣旨に賛同する各地の僧侶、復興支援を機に親交を深めた石材店などが協力するということです。

市震災遺構門脇小となりの西光寺墓地にある慰霊広場「祈りの丘」に、台座や光背を含めて高さ約5メートルの阿弥陀如来坐像(ざぞう)を建立するとのことです。西光寺での計画発表会では、樋口住職が「12年がすぎても癒されない悲しみと苦しみを抱えた遺族や、人生に苦悩する人、みんなのために仏様をお迎えしたい」と話したそうです。

2年後(2025年)3月11日建立を目指しています。

事業費は、4000万~5000万を見込み寄付を募っています。

 連絡先は西光寺 0225(22)1264 です。

以上は2023年3月15日の河北新報の内容です。

 

初めの写真の2024年5月5日の朝日新聞の記事には、「いのり大佛」建立ための費用を集めるため、全国を行脚している山谷にある寺の住職、吉永岳彦さん(45)のことなどが書かれています。

吉永さんは、台東区清川の浄土宗 光照院の住職です。

光照院は全国有数の「日雇い労働者の街」として知られている山谷に近いところで、吉永さんは路上で暮らす人たちの支援を続けてきました。東日本大震災の直後からボランティアとして被災地に入り、そこで子どもを失った親たちの苦しい胸の内を聞いてきており、「苦しい時、複雑な気持ちを丸抱えしてくれる存在が欲しい」という訴えをきっかけに「いのり大佛プロジェクト」が始動したことが書いてあります。

プロジェクトの代表は、石巻市にある浄土宗西光寺の住職樋口伸生さん。吉永さんは勧進僧代表として、このプロジェクトに関わっているとのことです。

「いのり大佛」には東日本大震災だけではなく、コロナ禍世界各地の戦争や紛争で大切な人を亡くした人たちが祈ることができるよう、との願いも込められているとのことです。

 

これまでに3000万円分の寄付が集まり、残りの3000万円を募っています。

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来年3月11日を目指しているのですね。素晴らしいプロジェクトだと思いました。

次の写真は震災直後の雲雀野町海岸の風景です。

※ イラストはフリー素材です。

 

 

 

 

 


石巻市博物館開館

2021年11月04日 | お知らせ

やっと木々が綺麗に紅葉してきました。

コロナ感染も落ち着きを見せ、やっと以前の日常も少しずつ戻り始めているこの頃です。

紅葉狩りを楽しむ人々の姿も報道され、例年より暖かめの陽ざしにも恵まれほっとするひと時がありますね。

 

文化の日に向けて文化勲章受章者の発表もあり、何かと明るい雰囲気が感じられます。

 

そんな時期に石巻の明るいニュースが河北新報(2021,11月4日)に掲載されていました。

東日本大震災の津波により被災し、解体されていた石巻文化センターに替わり石巻市博物館が開館されたということです。

 

以下に大体の内容をお知らせします。文化の秋にふさわしい嬉しいニュースです。

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石巻市博物館が市郊外の開成地区の市複合文化施設内に3日に開館しました。

東日本大震災の津波で被災して解体された石巻文化センターに替わり新たな文化拠点の役割を担うとのことです。

 

展示室は常設展示室が830平方メートル、企画展示室370平方メートル、計370平方メートル。

 

常設展示室は「大海と海」をテーマに石巻の歴史を解説。

古代東北の支配拠点だった桃生城の模型や、宮城県内でも石巻地域で確認数が多いとされる中世の供養塔「板碑」を説明するコーナー、江戸時代の後期の街並みを記した「石巻絵図」の拡大パネルなどがあるそうです。

 

企画展示室では被災後に修復された彫刻や絵画など収蔵品55点を並べ、震災時に活動した「文化財レスキュー」に焦点を当てています。

 

石巻在住のある方(84)は歴史研究家毛利総七郎が収集した毛利コレクションを鑑賞して「知らなかったことを新たに勉強できる素晴らしい展示だ」と話したそうです。

 

開館時間は   午前9時~午後5時    休館は月曜、祝日の場合は翌日   とのことです。

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昔 毛利コレクションという名前は聞いたことがあったと思いますが、あえて見る機会はありませんでした。

このように新しく整備され報道されると足を運ぶ人がふえるのではないでしょうか。

 

石巻の歴史、震災後にだんだん知る機会が増えてきたように思います。

そのうちぜひ訪れてみたいものです。

 

 


「MEET 門脇 」 オープン!!

2021年03月27日 | お知らせ

  

左  「シージェッター 海斗」のモニュメント           右  「MEET  門脇」建物

 あの東日本大震災から今月11日で10年が経過しました。

その節目に合わせるように「伝承交流施設    MEET 門脇」がオープンしました。

旧門脇小学校と、今月末にオープン予定の石巻南浜津波復興祈念公園の間に位置します。(写真左  建物の右後方に旧門小の建物が見えますね。)

 

先日訪れてみました。

建物の入り口を入ると ホールにいくつかの展示がありました。

 

一つは震災当時に被災してしまった石巻日々新聞の方々が、手書きで地域の様々な情報を伝えていた模造紙の壁新聞です。

避難情報やその他生活に必要な当時の石巻の様子をとりあえず知らせようと作られたものです。

家も車も失って身動きの取れなかった方々にとって大切な情報源となったのです。

 

次に目についたのは、少し破損した水色も鮮やかなモニュメントです。(初めの写真左)

これは、「シージェッター 海斗」だそうです。漫画の主人公なのでしょうか?震災前石巻市内のところどころに建っていた漫画の人気の登場人物?の一人だったのでしょうか?

このモニュメントががれきの山の中から見つかった時の新聞記事が傍らに掲示してありました。

復興のシンボルとして被災した人々に勇気と元気を与えたモニュメントです。

 

そして、その脇にはパネルが8枚ほど展示してありました。

震災直後人の様子やがれきだらけの街 の様子。そして多くのボランティアの方々が片付けの作業をしてくださっている写真等、当時の石巻が立ち直るためにいかに多くの方々の善意やご苦労に支えられたかが分かり、改めてその当時の悲惨さを思い出しました。

 

それからシアターに入りました。

中は真っ暗で正面に大きな(大体幅8メートル  高さ4~5メートル位?)スクリーンが壁いっぱいにあり、映像が流れていました。

ここは、あの日の100名の避難行動や体験者の言葉をもとに命を守れる希望を与えてくれる場所とのことです。

避難の際の体験や思いを話す言葉に重さを感じました。

また、車で避難する道で迫ってくる津波から逃げていく時、押し寄せて広がってくる津波の映像は生々しく激しくまるで自分がその場にいて津波に飲まれそうになっているような恐怖を感じました。

その時は、前面のスクリーンだけでなく右側にもスクリーンがあり、そこからも自分の方にどっと大量の水が押し寄せ、走っていた車がおもちゃのように浮かびぶつかり合うのです。すごい臨場感でした。

 

その隣には展示室があり、震災前の南浜町・門脇の航空写真と震災直後の写真がありました。津波の勢いは本当に想像を絶するものだと改めて感じさせられます。

その他、大切な命を失った悲しみを、見ている人を守る願いにかえていく展示がいろいろありました。

 

今月28日には、隣の石巻南浜津波復興祈念公園がオープンします。

 

あの大震災と大津波から10年を経過した今、石巻のこの地には、その風化を防ぎこれからの災害に備えるための施設がそろいます。(旧門脇小学校についてはまだ工事中でしたが、外側からでもその被害は十分に見ることができます。)

 

「MEET 門脇」を設立した公益社団法人「未来サポート」の方々には被災を無駄にせず未来の人々のために生かしていける大切な場をつくっていただきました。心からお礼を申し上げたいと思います。

 

この施設設立のための整備資金がまだ不足しているとのことで、クラウドファンディングを実施しています。

(施設整備用  総額 9000万円に対して、これまでの寄付・助成金は6000万円で不足額は3000万円とのことです。)

寄付に関しては、税制優遇の対象となっており、1万円の寄付に対して確定申告により3200円の控除が受けられるそうです。)

 

現在、宮城県は新型コロナ感染者の県全体の人口に対する割合が全国ワーストとなっており、すぐにおいでくださいとは言えないのですが、感染が落ち着いたら訪れてご覧になり体感していただければと思います。

 

ホールには石巻産の食品等の展示や販売もありました。

被災により、一度はあきらめた事業を皆さんの後押しを受けて再開にこぎつけた味噌や鰹節その他の調味料やお菓子が

ありました。

おみやげに「山形屋」の味噌を購入してきました。

 

※ 「MEET」の語源は、

   Marchi.11           3月11日(東日本大震災の起きた日)を原点に津波と火災で覆われたこの場所を出会いの場へ

   Education            防災教育   つながる人々が変化する  3.11をしらない世代の子どもたちへ体験を通した学びの場へ

   Exhibition            展示   悲しみと願いを示す   大切な命を失った悲しみを、あなたを守る願いにかえて

   Theater                                              映像シアター-  命を守れる希望を伝える    

                         「あの日」の100名の避難行動をもとに、命を守れる希望を2面シアターで上映

  ということで、4つの頭文字を合わせてできたようです。

  とても考えられたネーミングですね。

 

 

 

 

 

 


白鳥の群れ出現!!

2021年02月06日 | お知らせ

 

 

 この写真の場所はどこだと思いますか?

 仙台市の住宅地の隣の麦畑だった所です。大道路の脇です。

 

 2月3日大雪の日のこと、吹雪の中を車で走っている時、同乗の人が

「アッ!あれは何?」と突然の声!

「大きな鳥がいっぱいいる!」といいました。

 

 戻る時、その場を見ると、降りしきる雪の中、道路脇の歩道の隣に白い大きな鳥がそれぞれ触れ合うほどの近くに行列のように並び続けています。

 すぐ近くのコンビニに車を止め歩道にでて眺めてみると、通り過ぎた所から目の前、そしてその先までずーっと白い鳥の群れが続いています。中には黒いものも混じってます。

 その光景は本当に圧巻です。

 

 以前見た白鳥の群れは、伊豆沼でした。岸からは離れた所に群れていたので。鳴き声だけは大きく賑やかでしたが、白鳥の姿は遠目だったのでこんなに真近でみえたのには本当にびっくりでした。

 

  あの白鳥たちは昼や夜はどうしているのだろうかと思いながら、数日後にまたあの場所を通りました。

 すると、

 

写真の通り、あの時のように道路間際までは来ていませんでしたが、広い雪野原にゆったりとくつろいでいる姿が見られました。

 2~3羽連なって飛び上がる様子は、白が青空に映えて本当に優雅です。

 通りがかる人たちは写真を撮る人あり、談笑しながら眺めていく親子ありで、思わぬ光景のプレゼントに和んでいるようです。

 

 新年になってもコロナコロナで何かと落ち着かない日々の中、そんな気持ちをすっかり吹き飛ばしてくれたひと時でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「石巻学5号」発行されています!!

2020年10月30日 | お知らせ

 

 「石巻学第5号」が発行されています。

 私が購入しようと仙台三越のヤマト屋書店に行ったら店頭にはなく注文になりました。(9月10日に発刊されていました。)通販のアマゾンでも販売されていたようです。

発売元はこぶし書房です。(☎は03-5981-8701)

 

 今回は、ページ数増(前回より50ページ増)です。

 内容も増で様々な観点からの記事が掲載されています。

 さらっと目を通してみて、内容が震災後の人々の心が表されているものが多いように感じました。

 寄稿者は若い方から年配の方まで年代も様々です。

 石巻にゆかりのある方や現在石巻で活動を続けている方の投稿で内容も様々です。

 読んでいる内に、子どものころの南浜町や門脇の町の様子が思い起こされる内容の文もあり、ふっとタイムスリップする感覚も味わえます。(大谷尚文さんの「南浜町の辺見庸さん」)

 

 私が興味を持ったのは、「短歌部カプカプ短歌集」です。

「短歌部カプカプ」は、石巻在住の若手短歌愛好家3名が集まり誕生しました。会員は現在(執筆当時)高校生から社会人まで男女8名とのこと。創作した短歌やその思いや短歌と出会うきっかけなどがつづられています。

 その中で私心にフィットした一つが佐藤さんの次の短歌です。

  「何もないと言われる土地に沢山の何かを見つけた日の走り書き」    伊藤成美さん

 

 伊藤さんは、16歳の高校1年生の時に 地域貢献などについて学ぶプログラムに参加したことがきっかけでその後「ISHINOMAKI2.0」が行っている「石巻学校」という高校生向けのプログラムを知り、町の中心にある「カフェIRORI石巻」というカフェに足を運ぶようになったそうです。それが石巻を知るきっかけになり地域や町の楽しみ方が分かり自分に対する考え方も変わっていったそうです。

そして、彼女の文章の中に次のような文があります。

「・・・略  IRORIにいるだけでも立ち寄る人を紹介してもらえて、顔見知りが増えていくのが楽しかった。石巻に住んでいるわけでもなく高校生になってからまちに出入りするようになった私のことを受け入れて話を聞いてくれることも嬉しかった。…中略・・。新しいことばかりで一気に世界が広がったように感じられた。

 はじめのうちは、そんなまちの人たちの地域について考えて行動している様子に心を惹かれているのだと思っていた。だが、そうではないことに気がついた。「石巻で」ということを意識しつつ、やりたいことをしている人が多い。そしてそのご近所同士でも仕事仲間でもない人々が、店より広く市町村より狭い規模のまちなかで仕事のような遊びのような楽しいことを日常的に行っていて、それが毎日尽きないということをとても魅力的に感じていたのだ。 

 私ははじめ、まちの一員になれたような、まちの人たちと関わることで、何かをやっているような気になっていた。だが、今のまちは震災後の大人たちの強い意志の積み重ねによってできていて、私はその土台の上で学んだり遊んだりさせてもらっているだけなのだと徐々に気がついていった、

 まちは土地だけでも人だけでも成り立たず、その土地で意志を持って暮らす人々によって作られていくのだと思う。まちで会う人と話す時、その人のみではなく後ろに見えないまちの存在を感じる。その距離感が絶妙で心地良いなと思う。

 このまちにとって私は何者でもないけれど、私にとってこのまちは存在そのものが発見で、形のない先生のように感じている。石巻を知ってからそろそろ三年が経つ。私はこのまちのことを密かに丸ごと特別に感じている。」

 (伊藤さんのいう「まち」とは石巻市全体のことではなく、主に市街地とそこで働き暮らす人たちのことをさしています。)

 

 破壊されてしまった石巻の中をこのようなとらえ方や感じ方ができる若い心があることを心強く嬉しく感じました。

 「何もないということは何でもあるということ」という言葉をどこかで聞いたことがありますが、そういうふうに思えるのはその心の中にあるものが豊かだからではないでしょうか。

 

その他にも若い感性が感じられる短歌がいくつも載っています。

 

 あの大震災から間もなく10年。

 当時は、町の惨状に絶句し、言葉も出ずにいつの間にか涙が出てきて、なんということだろうと心を痛める日々だったことを思い出します。

 一体、これからどうなるのだろう?と想像もできない思いになったものです。

 それが大急ぎでとりあえずインフラの整備が行われ、次第に回復?してきました。

 そして、設備などが整ってきた今、10年近くたっても施設のようには元に戻らない人の心があります。

 でも、そんな中でも佐藤さんの文にあるように心ある方たちの様々な取り組みが行われそれが表面には目立たなくても新しい石巻の力として育っているのだと感じました。

 とても深い意味のある短歌だと思いました。

 

その他様々な投稿がいっぱい。

少しづつ味わいながら読んでいます。

皆さんも  

ぜひ、どうぞ!

 

※ 今回「石巻学」の特集は「石巻と文学」です。

 梅里石雪氏の「日和山慕情」も親しみやすく分かりやすい内容でした。

 氏の経験(前に石巻魚市場の社長を18年歴任。現在相談役)を振り返りながら料亭「つつじ園」の思い出や日和山にある文学碑等について記されています。

 景勝地日和山の公園内に建立されている文人たちの作品の記念碑のうたが紹介されています。

  

     雲折々 人を休める 月見かな    (松尾芭蕉の句碑)

 

     わたつみに 北上川の入るさまの ゆたけきを見て わがあかなくも    (斎藤茂吉の歌碑)

 

     砕けては またかへしくる大波の ゆくらゆくらに 胸おどる洋       (石川啄木の歌碑)

 

     海のおもいいよいよ青しこのゆふべ 田しろあじしま 重なりて見ゆ      (折口信夫の歌碑)

 

     北上の尽きるところのかすみには なおとまどいの 青き波かな         (新田次郎の歌碑)  

 

 桜の時期、つつじの時期にはよく訪れ楽しんでいましたが、これらの記念碑には気づきませんでした。

 今度行ったら、探してみたいと思いました。

 

 その他、様々な方の投稿が満載。石巻に関わる人たちの心を知ることができます。震災から10年近く経った今知りたい石巻があります。

 またそのうちゆっくり読んでじっくり楽しみたいと思います。

 

     

 

 

 

 

 

 

 


旧門脇小歩みと「あの時」ー石巻・南浜つなぐ館で企画展示

2020年02月23日 | お知らせ

  写真は南浜つなぐ館の中の様子

 

 お知らせが遅くなってしまいましたが、1月から2月29日まで「南浜つなぐ館」で旧門脇小の記憶と記録を伝える企画展示が開かれています。

 校舎の一部解体が進む中、地域の象徴として親しまれた門脇小学校の歩みを知ってもらおうと、公益社団法人「3・11みらいサポート」が企画し、地元町内会やNPO法人「石巻アーカイブ」などが協力して開かれました。

 写真は会場の中の一角です。

 震災前のジオラマの他に、同地域や石巻周辺の地図、旧門小の写真などが所せましと展示されていました。

 前回まではなかったシアタールームができていました。

 震災当時の様子を知ることができるようです。

 

 

 展示の中に、旧門脇小の創立から歩みがありました。

 それによると、当校は1873年(明治6年)創立(第七大学区第二中学区第八二番)

 となっています。

 そして、1887年(明治20年)石巻小学校の分教場となる  とあります。

 そして、1892年(明治25年)門脇尋常小学校となる   となっています。

 以前、震災直後門脇小学校の校長先生に当校が石巻で1番最初につくられたと伺っていましたが、それは1873年の創立のことなのかなと思いました。

 そして「門脇」と名のついたのが1892年なのでしょうか。

 現在地に校舎が移転したのが1902年(明治35年)とのことです。

 ちなみに、それより6年前1896年(明治29年)に釜分教場が落成しています。

 1941年(昭和16年)門脇国民学校と改称

 そして、1946年(昭和21年)釜小学校独立

 1947年(昭和22年) 戦後ですね。門脇小学校と改称されたのだそうです。

   (この時にはまだ校歌がなかったのですね。だから私たちが校歌のお披露目をすることになったのですね。)

 1979年(昭和54年) 石巻市立大街道小学校が独立開校

 1982年(昭和57年) 新校舎完成・西校舎改築落成式

            (私が新校舎に入ったのは、3年生か4年生の時のように思います。その新校舎とは違うのかな?)

 そして、2011年(平成23年)東日本大震災に伴う津波及び火災により焼失

               これにより管理・普通教室棟焼失

               石巻市立門脇中学校三階を間借りし教育活動を再開

 2012年(平成24年) 仮設校舎完成(図書室他特別教室等)

 2015年(平成27年) 石巻市立石巻小学校と統合し閉校

  などとあり歩みを知ることができました。

 

 その他、当地域の昔の写真や地図等壁面いっぱいに展示され懐かしい風景もありました。

 

 ちょうど見にいらしていた年配の男性は、震災時外国にいて石巻に帰ろうとしたところ、今来ても大変だから来ない方が良いと言われた話やその他しばらく話していました。

 そんなふうに当時のことや自分の体験などを話したくなるような空間でした。

 

 間もなく終了という時期ではありますが、もし、可能であればご覧になってはいかがでしょうか。

 

南浜町・門脇の現在の様子

 

 

 

 

 

 

           


鮎川で上映 「鯨と斗(たたか)う男」

2019年11月24日 | お知らせ

    

          フリー写真より

 

 前回の記事をUPしてから、また大きな災害が起きてしまいました。

 台風19号により、千葉県や宮城県がかつてないほどの被害を受けてしまいました。

 宮城県では特に丸森と鹿島台・大郷粕川は浸水の被害が大きく今も復旧や不自由な生活を強いられていますが、ボランティアの方々の力によってとても勇気づけられているようです。

 誰でも、どこでもいつ災害に見舞われるか分からない時代になっているような気がしますね。

 こんな時は、若い方々の力強さが有難く感じられます。自然の猛威の前では、電気やITの力も及ばなくなってしまうことがあるのですね。

 ボランティアの方々、ありがとうございます。

 

ところで、前回の記事の映画「鯨と斗う男」の2回目の上映の日時等が決まりました。

11月30日(土)16:30 上映

場所: 牡鹿半島ビジターセンター[ホエールタウンおしか内]

お問い合わせ:0225-24-6644[ホエールタウンおしか]

090-2207-8185[石巻学プロジェクト]

〒986-2523 宮城県石巻市鮎川浜南 50-1

[主催]  石巻学プロジェクト/岡田劇場/一般社団法人鮎川まちづくり協会  [後援] 石巻市牡鹿支所

 となっています。

 お知らせが遅くなってしまい今からだと予定がたてにくいかもしれませんが...。

 できたばかりの「ホエールタウンおしか」どんな様子なのでしょうか?ちょっと遠いけど、その内良い季節になったら行ってみたいものです。

 昔、鮎川の友達のところに遊びにいった時、鮎川名物に「鯨饅頭(くじらまんじゅう)」があると聞き、

鯨肉が入っているのだろうか?どんなものなのだろうか?と期待して行きました。

 そして、どんなものか聞いたら普通の饅頭の皮の上に鯨の絵がかいてあると聞いて、ちょっと笑ってしまったことがありました。

 今の「ホエールタウンおしか」には、どんな名物があるのかな?と期待してしまいます。

 先日は、近くのスーパーに鯨の刺身が並んでいました。ちょっと前に鯨が石巻にあがったというニュースを聞いたような気がします。

 その時の鯨の燻製?だったりするものがあるのでしょうか?

 

 「鯨と斗う男」の上映は今回で終了なのだそうです。

 私の友達のように、思いがけず華やかだった鮎川に出会えたこと、良かったですね。

 

 

 


「鯨と斗う男」62年ぶり上映(高倉健主演 舞台は鮎川)

2019年10月01日 | お知らせ

       大海を泳ぐ鯨     (出典  フリー写真より)

 

 若かりし高倉健(当時まだ20代半ば)が石巻の鮎川や石巻周辺の海を舞台に主演した「鯨と斗(たたか)う男」の映画が62年ぶりに銀幕に現れました。 

 上映場所は、石巻のみやぎ生協文化会館アイトピアホール(中央2丁目)です。

 

 高倉健は、当時東映のニューフェイスとして入社したばかり、その後約1年の修行・研修の後デビューするのが普通だったようですが、高倉健は一か月半で主役デビューをしたそうで、その後の活躍を予感させるような輝きがあったのでしょうね。

 

 1957年公開の東映映画です。当時の鮎川の捕鯨で栄えていた輝くような活気のある鮎川の姿があふれています。

 私たちの白梅の鮎川出身の友だちYさんが、少し前に当時の映画の撮影中のことについてお母さまへのインタビューに訪れたことを話していました。

 なんでも昔鮎川を舞台にした高倉健主演の映画を撮った時のことを聞いていたとのことでした。Yさんのお家は当時鮎川で食堂を営んでいたので関係の方々がたくさん訪れていて、撮影現場にもなったのだとか...。もちろん、高倉健もきたようです。

 Yさんのお母様は、インタビューに答えて

「今でも夢に見るんですよ。高倉健、男ぶりは一番。佐野周二(主演の一人)はうちの店に一人座って、お茶のんだり、うどん食べてたんだから。」

 と答えていました。当時の印象がいかに強かったかがうかがわれますね。(94歳のお母さまの記憶にしっかり良い思い出として残っているのですね。)

 

 そのことを忘れている頃、私が車を運転している時にニュースで「鯨と斗(たたか)う男」の映画の上映会があり、関係の人々が上映会に訪れたというニュースが流れました。訪れた方へのインタビューが流れはじめました。

 ある方は、

 「本当に懐かしかったですね。あの時うちの家内が工場の職員のエキストラとして出演していて、当時の姿を見ることができました。とても活気のある町の様子をしっかり見ることができて本当にうれしかったです。」

と語っている年配の男性もいました。

 次の女性へのインタビューを聞きながら「あっ!あの映画だ!!Yさんに教えなければ。」と思った瞬間に、目の前の信号が赤になり、ブレーキを踏んだとたん、テレビの映像にYさんがアップで映っていました。インタビューを受けて答えていたのは、Yさんだったのでした。

 「とても懐かしかったです。その家も今は土台だけですから...。」というようなことを言っていたように思います。

「なあんだ!」知っていて当然ですよね。きっと、招待状が届いたことでしょう。

 

 後日、Yさんが映画の関係の資料を送ってくれました。

 その手紙の中には、

 「町はあの日、ほぼすべて消えてしまいましたが6歳の頃の私の記憶に残っている当時の様子が映画の中に息づいているようで懐かしく感じられました。 

 当日の観客の方々も映画の中に残る町の姿に目を凝らしているように思いました。

 そして、上映後、皆しばらく席を立たなかった様子から各々が感慨にふけっているのだと感じました。

 震災後、初めて町を訪れた時、土台だけになった我が家しか見られませんでしたが。、これを機に当時の町に再開することもできました。

 小さな町の小さなドラマにしかすぎませんけれども、人々の思いを大切に上映までこぎつけてくださった方々に皆感謝していると思います。 」

 との言葉が添えられていました。

 

 この映画の上映に尽力してくださった方は、ノンフィクション作家で「石巻学」を発行する大島幹雄さん.

 

                 (「石巻学」       https://twitter.com/hashtag/%E7%9F%B3%E5%B7%BB%E5%AD%A6   )

 

 震災の時まで石巻にあった映画館「岡田劇場」経営者の菅原宏さんから、この映画のことを聞きました。鮎川も津波で大きな被害を受け、街は流され多くの人が去りました。

「フィルムに残された故郷の幻像を、鮎川を離れた人たちが一緒に見る機会をつくりたい。」と考えました。

 東映に問い合わせたところ、映像の原盤は残っていたが現代の上映機にかけるためにはデータの変換が必要で費用が100万円ほどかかることが分かりました。そこで寄付金を募ることにしたのです。すると、目標を上回る額が集まったのです。

 鮎川や石巻出身者で昔を懐かしむ人や捕鯨船にかかわった人たちがお金を寄せてくれたのです。

 そして、震災で傷ついた鯨の街のかつての姿をもう一度見たいと、市民らが奔走し、実現に至ったのでした。

 

 そういうわけで、2019年8月2日の石巻での上映が実施されたのでした。

 前売りは千円、市役所庁舎1階の石巻観光協会などで販売したようです。予約は大島さん(090-2207-8185)でと新聞には書いてあります。

 今後も上映を予定しており、期日は未定ですが、必ず上映しますとのことでした。私もぜひ鑑賞してみたいと思いました。

 

   これは、鮎川の捕鯨船ではありませんが、こんな感じだったのでしょうか?   (出典  フリー写真より)

 

 小学校時代、私たちはよく給食で鯨肉を食べたような記憶があります。とても硬かったように思います。

 つい最近、日本では商業捕鯨を再開しました。世界にはいろいろな食習慣や考え方があるとは思いますが、摩擦を持たずに美味しい鯨肉が食べられるようになると良いのすが..。

 

 ちょっと前までは鯨のベーコンというのが販売されていたと思いますが、今日スーパーに行くと、見当たりませんでした。

 また、鯨肉の刺身というのも前にあったように思いますが、今日のお店にはありませんでした。

 これからもっと身近になるのでしょうか?

 

 それから、「鯨と斗う男」の映画は当時のポスターに「巨鯨を追って!!男と女・意地と恋情が火花散らす大型映画初の海洋活劇!!」とあり、なにやら一昔前の映画っぽい雰囲気が感じられますが、それとは別に、この映画には現在では目にしなくなった「捕鯨」の様子をきちんと描いているため、経済や日本の食文化を言い伝えていく意味で大変貴重な作品であるという感想を持つ方もいます。

 

 小学校時代に担任の先生が捕鯨のモリの形について説明してくれたことがありました。一度ささると中で開いてもう抜けない仕組みになっているということでした。

 

 今、考えてみるとやっぱり、捕鯨の街に近い地域らしいエピソードでした。

 AIがすごい勢いで進歩しつつある現在、銛(もり)打ちとして精進する海の男の物語は、鮎川という舞台の風景だけでなく時代の流れをも感じさせ、郷愁を誘います。

 そんな時代に私たちは育ったのだと、改めて思いを新たにさせられます。

 

 また、商業捕鯨が始まって、少しは賑わいが戻るのでしょうか?

 また、鯨肉がスーパーい並ぶのかな?

 

 

 

 

 

 

 

   


防潮堤

2019年01月14日 | お知らせ

  

 

 最初の写真は門脇から北上川に突き当たる場所の防潮堤。 次の写真は新しい野蒜駅の前の防潮堤です。

 川も海も全然見えません。本当は野蒜海岸付近はこんなに美しい風景!!

 

 北上川も、私たちが知っているのは、小学校の写生会で川べりに出かけて見た、あの船が泊まっている景色。

 もうそんなことはできないのかなあ...。

 

 昨年、気仙沼でできた防潮堤についての問題があった。

 県が造った防潮堤の高さが予定より20㎝ほど高かったのだ。気仙沼の住民は予定通りの高さに直すよう要求したが、県は造り直しはできないと回答し、結局宅地等の陸地の方をかさ上げするという方法を提案した。

 まだ、決着はついていなかっただろうか?

 なんとも、間抜けな話だ。なにしろ防潮堤を計画する段階だけでも、景観が損なわれるとか、様々な意見が出されていたのだ。

 それがよりによって予定よりさらに高くなるなんて!

 

 震災直後に、知り合いの方から聞いた話があった。その方の身内の方で三陸だったかの防潮堤の設計をした方がいらしたが、東日本大震災の大津波で防潮堤が破壊されたことを聞き、ショックを受け、その後亡くなられたとのことだった。

 絶対に壊れるはずがないと信じていたようだったとのことだった。

 でも、まさか東日本大震災のような大きな地震の津波を予想していただろうか?

 

 子どものころ、家族でよく野蒜海岸に海水浴に行きました。

 あの高いコンクリートの堤?の上を歩きながら、海の様子を見ながら胸を弾ませたものです。

 「どうしてこんな大きな壁のようなものがあるのだろう?」と思いながらも楽しい道のりでした。

 でも、あの防潮堤も徹底的に破壊され簡単に乗り越えられてしまったのですよね。

 

 そんなことが起こるなんて想像もしなかったことが起きたのです。

 この頃、世界的に地震や火災、水害等次々におきるので、今では「大きな災害は起きませんように」と祈る気持ちがありますが、何が起こるかは分からないという気持ちもあります。

 

 今までよりも高い防潮堤を造ったから安全と思い切ることもできません。

 でも、門脇からのあの上の写真のような防潮堤を目にして、「どうしてこんな所に大きな壁があるの?」という誰かの疑問に答えるたびに、東日本大震災や大津波のことが話題にのぼることは良いことなのかなあ...。

 大自然と人間の共生...難しい課題ではありますがより良い方法を見つけなければならないのでしょうね。

 下の写真は、今年の南浜町や門脇の様子です。

 

 

 

 下は北上川沿いの風景です。左に見えるのは、工事途中の防潮堤かな?

 だんだん景色が変わっていきますね。

 

 


「戊辰戦争一五〇年 ー最後の藩主伊達慶邦の決断 仙台藩の戦いー」  仙台市博物館特別展

2018年11月01日 | お知らせ

 

 仙台市博物館において10月26日(金)~12月9日(日)に「戊辰戦争一五〇年」の特別展が開催されています。

 現在、NHKの大河ドラマで「せごどん」が放映されていて、明治維新にいたるいきさつが詳しく描かれています。会津が大変な目にあったことは、様々な機会に語られ有名です。白虎隊の出来事は特に有名で私たちも小学校の修学旅行でその地を見学したものです。

 しかし、仙台藩が当時どのような状況だったのかは、考えたこともありませんでした。

 そのあたりの事情や出来事がこの特別展では資料を提示しながら披露されていました。

 仙台藩では、会津討伐を命じられ錦旗が下賜され、また、会津藩からは朝廷へのとりなしを依頼されたのだそうです。

 このような状況下で伊達藩主慶邦は征討軍の中止を求めて新政府に意見します。

 慶邦の主張  ● 鳥羽・伏見の戦いの契機となった発砲はどちらが先か?

        ● 大政奉還後の徳川慶喜に謀反の意思があるか?

        ● この決断は幼い天皇の判断なのか?

        ● かつて朝敵となった長州藩が許されたように慶喜にも寛大な処置をすべきではないか?

        ● 内乱に乗じて外国から干渉されないか?

 慶邦はこの建言書を朝廷に提出するため家臣を上京させますが、すでに征討軍が出発していたため時期を逸したとして、提出は断念されたとのです。

 当時、奥羽の多くの藩は、仙台や米沢の大藩がどう対応するか探っていたそうですが、慶邦は奥羽(東北地方)の10万石以上の藩主たちにこの建言書を送り、戦争回避への協力を求めました。奥羽の藩主たちもおおむね賛成したのです。

 しかし、建言書の提出に失敗した仙台藩は、米沢藩とともに会津藩に謝罪させるため、玉虫左太夫(たまむしさだゆう)と若生文十郎(わこうぶんじゅうろう)を会津に派遣します。会津藩が謝罪すれば「会津藩討伐」の目的が消え、戦闘が中止されると考えたからです。

 会津藩征討のため、新政府が組織した公卿(くぎょう)の九条道孝(くじょうみちたか)を総督とする奥羽鎮撫軍が仙台にやってきました。

  やがて...

 新政府は12月になると、敵対した奥羽越諸藩への処分を発表し、仙台藩は会津藩と並んで厳しい処分を受けました。62万石から28万石へと領地を削られました。翌年5月には戦争責任者として但木土佐(ただきとさ)と坂英力(さかえいりき)の2人が斬首に処せられました。また、仙台藩の内紛により、玉虫左大夫(たまむしさだゆう)や若生文十郎(わこうぶんじゅうろう)等も切腹させられたそうです。

 戦争を戊辰戦争を生き延びた人のなかには、明治時代の仙台の発展に大きく貢献した人もおり、松倉恂(まつくらまこと)は戊辰戦争時に兵器や軍艦の購入に尽力しましたが、戦後、明治11年(1878)に初代の仙台区長(現在の市長)となったそうです。

 明治維新にむけて仙台藩でもたくさんの葛藤や出来事があったことが分かりました。政変というのはやはり多くの人にとって大変なことなんですね。

 

 ところで、白虎隊の唯一の生き残りとして飯沼貞吉がいました。

 貞吉は自刃をしましたが死にきれずにいたところを同じ年ごろの息子を探しにきた会津藩士の妻に見つけられ手当を受け一命をとりとめたということです。

 その後、新政府軍に捕われましたが、見込みがあるとして長州藩士の楢崎頼三に引き取られ、長門国に連れ帰り庄屋の高見家に預けて庇護したという。会津方にも長州方にも知られないように飯沼の母にだけ生存を知らせ自らの家族や知人以外には存在を秘匿したとのことです。飯沼は当初何度か自殺を思い立ったが、ある日頼三に「今、日本には外国船が押し寄せており、会津・長州と言っている場合ではない。日本人は団結して国を強くしなくてはならず、その担い手は若者だ。国の役に立てるように勉強せよ。」と諭され、以降貞吉は一心不乱に勉学に励んだといいます。楢崎家でも貞吉の話は密かに語り継がれていたとのことです。

 貞吉はその後、勉学に励み国内各地の数々の要職を歴任し、1910年(明治43年)に仙台逓信管理局工務部長に就任。日本の電信電話の発展に貢献したそうです。

 退職後も仙台に住み続け、1931年(昭和6年)仙台にて永眠。墓は輪王寺にあるそうです。

 

 学ぶ機会を与えられた祖父にちなみ、孫の一元はNPO法人「海の会」を設立し、東日本大震災の遺児に返済不要の奨学金を与える活動をしているとのことです。

 また、次男の孫に石巻赤十字病院院長・飯沼一宇がいるそうです。

 

 なるほど...。世の中はつながっているのですね。意外なところに身近に助けがあったり、人との出会いがあったり..。

 良い出会いに恵まれるように、また、自分と出会った人が良い出会いだったと感じられるようになったら素敵です。

 そのためには...、さて...。

 

 今の季節仙台市博物館のあたりも木々がきれいです。

 

 この入り口は、博物館構内の「残月亭(旧姉歯家茶室)」のものです。仙台市の指定・登録文化財です。

 

 

 中には、茶室や水やがあります。ちょっとほっとする簡素?な設えですね。

 

 見学を終わって、博物館の門をでようとすると、交通規制をしていて出られません。

「第36回 杜の都全日本大学女子駅伝」が開催され、そのコースになっていたのです。

 「全員が通過するまで待ってください。」と言われ、その場で端により見学することにしました。

 

 一人来る毎に拍手して応援します。元気だなあ。若さは素晴らしいなあ。なんて思った秋晴れの日でした。