石巻白梅ししの会便り

石巻のためにできることを一緒にしようね!!

門脇の本間家の蔵

2014年09月27日 | 紹介

 

                                          (本間家の蔵...なまこ壁が重厚さを示す)

 上の写真は、どんぐりさんが撮影した、石巻の門脇に現在ある本間家の蔵の写真です。

この蔵について、どんぐりさんが取材?してきてくれました。門脇にお住まいだった方はもちろんご存じでしたよね。

でも、あの大津波の後の蔵のことは知らない方が多いのではないかと思います。

その様子を紹介してくれます。

それでは、どうぞ!

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        門脇の本間家の蔵 

 この夏、石巻の友人たちと、門脇町2丁目の本間英一さんの蔵を訪ねました。日和山のすぐ下にあります。3・11の震災の際、津波で本間家の母屋も周辺の家々もすべて流されたなか、この蔵だけが、2階の一部まで浸水しながらも、奇跡的に残ったのでした。 

 その後、全国の220人の方たちの合計360万円ほどの寄付と願いを受けて修復され、震災を伝える蔵として甦り、殺風景な野原となった門脇地区に、ぽつねんと建っています。蔵の中は無料で公開されています。

 蔵の中には、東日本大震災のときのこの蔵周辺の被害の様子を伝える展示をはじめ、石巻の繁栄を物語る江戸時代の地図や、幕末1868(慶応4)年に箱館に向かう途中に石巻湾に立ち寄った開陽丸の歴史の紹介もあります。

 また、本間さんのご先祖は、江戸時代回船問屋をなさっていたそうですが、ご祖先が千石船の船主だった方たちによって歴史の掘り起しがされている若宮丸に関する展示もありました。

 若宮丸は、1793(寛政5)年に江戸を目指して米と材木を積んで石巻を出発した千石船です。途中遭難して、漂流の末にアリューシャン列島の中の小島に着き、石巻に戻るまで結果的に乗組員のなかの4人が、日本で初めて世界一周をしたのだということです。 

そういう石巻のあれやこれやの歴史がその狭い蔵の中いっぱいにつまっていて、資料を丹念に読んでいくと、異空間にいるような錯覚に陥ってしまいます。

 本間家のこの蔵には、回船問屋を営んでいた時代の貴重な古文書がたくさんあったのだということです。水に浸かってだめになったものもあったそうですが、箱に入っていて、まったく濡れなかったものもあり、見せていただきました。そういう意味でも、蔵というのはなんと丈夫な金庫かと今更ながらに驚いてしまいます。

 津波の後、北上川の川岸を歩いたときに、川から50mくらいの場所に、相当古いもので傷んでいましたが、やはりがっちりした蔵が残っていました。江戸時代の人たちが、蔵を火事や水害、泥棒にも対応できるりっぱな金庫としていたことがこの事実からもよくわかります。

 本間さんが震災当日から撮られた写真は、津波の恐ろしさを生々しく伝えていました。石巻の歴史を冷静に伝える語り部の目ではありましたが、それは門脇に生まれてこの土地や家を愛する人の愛着と哀しみの表れでもありました。本間さんの手製の写真集(コピー)は、コピー代相当でそこで分けていただけます。特に門脇の出身者にはぜひ見ていただきたい写真集です。

 今後、3・11の津波の悲惨さを物語るこの蔵は、石巻の過去の栄枯盛衰の歴史をも語っていくことでしょう。

 泥をかいてくださったボランティアの方たち、蔵の前に花壇を作って花を植えてくださったボランティアの方たち、蔵の補修の費用を出してくださった方たち……etc、そういう方たちの思いを一つに合わせ、津波で亡くなった方たちへの鎮魂と祈りを後世に伝えていく蔵は、今こうして門脇にしっかりと残っているのです。

       蔵の中の展示パネル(上)と若宮丸についての展示パネル(下)

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 私が震災1か月後に日和山から眺めた門脇の辺りにこの蔵もあったのですね。でもあの時はまだ瓦礫が片付いていなかったせいか印象に残ってはいませんでした。

 でも、こんな風にきちんと津波に耐えたことに驚きました。本間英一さんと全国のみなさんの温かい応援のもとに、このように後世に伝えるべき貴重な資料が残されるということは、なんと素晴らしいことでしょう!資料とともに江戸時代の蔵の性能の素晴らしさも確認できるという、まさに生き字引のような

存在です。

 津波と縁の切れない日本にあって、津波被害を免れる方法の示唆となりえるのではないでしょうか?

 そして、若宮丸の当時の雄姿と門脇の賑わいが目に浮かんでくるような気がします。

 そのうち、是非見に行きたいと思いました。


コスモスさんの東日本大震災被災体験

2014年09月21日 | 紹介

 

 前回は、門脇にお住いのオリーブさんの津波体験をお伝えしました。

 今回は、蛇田にお住まいで、あの日の地震の時に門脇にいらしたコスモスさんの体験を紹介します。

 上の写真は、門脇から蛇田の方向に続く道路です。道路の右側が海に続く土地であり、左側が山側になっています。写真は震災後のものですが、地震直後はこの道路が車で渋滞していたのだと思います。

 それでは以下に、コスモスさんの体験を紹介します。

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東日本大震災被災体験          

                                                                                 2014年08月07日

    

 3月11日、あの地震が起きたとき、私は門脇町にあるパソコン教室にいました。長くて大きな揺れが続き、これは津波が来る!と直感的に思いました。パソコン教室の先生も、これはただごとではないと思ったのでしょう、すぐ家に帰るよう促してくれましたので、急ぎ帰り支度をしました。

 外に出たら、パソコン教室の先生のご主人が、落ちた屋根瓦をほうきではいて集めていました。屋根瓦が落ちるほどの地震の強さだったのです。あのあとご主人は、屋根に上がって瓦の落ちたところを修繕しようとされたのでしょうか。あとから知人に聞いたところでは、ご主人が屋根の上に取り残されて屋根ごと流されていくのを見た人がいたというのです。そしてそのあとの消息はないということでした。

「足元気をつけてね」と言って送ってくださったのが最後になりました。その教室で指導の補助をしていた先生も亡くなられました。なんとも痛ましいことです。

 私はと言いますと、車で来ていたので、急いで運転して蛇田の自宅に向かいました。

 石巻の旧市内は、日和山をはじめとする小高い丘が、細長く海岸に沿うように連なるその周りと北上川を挟んだ両岸に発達していました。その山の上が文教地区であり住宅地区でもあり、商業地区はその山の周りを回る道路に沿って発達してきましたので、人は山を回るメインの通りを通ろうとするのかもしれません。

 メインの道路は車が渋滞してほとんど動きませんでした。津波が来るので高台に逃げるように、避難を促す市の防災放送が何度も流れているのに、不思議なことに、皆、山を回り込む道路を通ろうとして、山に上ろうとする車がいないのです。車の中にいるということは、妙な安心感があるのかもしれません。ラジオはすでに津波が他地域に到達していて、鮎川何メートルとか言っているのに。

 私はラジオを聞いて、電柱を見上げて目測してみました。「1,2……、わあ、こんな車の高さじゃない……」

 私は津波がすぐそばまで来ていることを知って、車線変更のためあわてて何度もハンドルを切って、水道坂(浄水場へ通じる坂)を上りました。ほかの車の人たちだって、同じ防災放送もラジオも聞いているはずなのに、そしてその坂の上には避難所に指定さている門脇中学校(通称門中)も石巻中学校もあるのに、どうしたことか高台に上ろうとしないのです。

 私はすぐに目的地に着きました。仕事で何度も来ている山の上の法務合同庁舎の駐車場です。ここに車を置かせてもらって坂を下りて行くと、坂の中腹のホスピタルこだまの近くまで津波が押し寄せていて、そこからが海だといわんばかりにきらきら光っていました。 

 渋滞して止まっていた車はことごとく流されてしまっていました。そのときどれくらいの人が車を捨てて逃げ出して助かったでしょうか。私はわかりません。

 私はこれでは家に帰れないと悟って、また合同庁舎に戻ることにしました。途中、トイレを借りようと門中に寄ると、避難してきた人、人、人であふれていました。トイレも長い行列ができていたので、これはダメだと諦めて、法務合同庁舎に戻りました。合同庁舎は避難所になっていないけれど、職員の方が、開放すると言ってくださったので、私は家族と再会するまでの4日間をここで過ごしました。

 ここに避難できたことは、ほかの方に比べれば大変幸運なことでした。職員の方が部屋の真ん中にストーブを置いてくれ、各人にそれぞれ毛布を用意してくれました。食事として小さな乾パン2個をもらい、その晩は避難してきた20人くらいの人たちと過ごしました。

 あとで聞いたところでは、避難所に指定されていた門中では、近くのお豆腐屋さんが寄付してくれた油揚げを、1枚を7人で食べるように言われてそうしたとか。たくさんの人が避難したので、寒さもトイレも食事も大変な状況を強いられたとのことでした。

 私たちと一緒に合同庁舎に避難していたご夫婦がいました。2人で避難所に向かう途中、坂の下のコンビニに車を止めているときに津波に巻き込まれたそうです。奥さんは、片手に持っていたかばんは流れてしまったけれども、もう片方の手に持っていた傘の柄がフェンスにひっかかって流されなかったというのです。泳いで上に上がって、坂の上にある友達の家で乾いた服を借りて着て、今度はご主人を探そうと下りて行ったところで、偶然とぼとぼと歩いてきたご主人と再会したそうです。

 また、おばあさんに2人のお子さんを預けたという、大曲に自宅のある女性がいました。地震後に携帯で一言お子さんと話しただけで、その後どうなったかわからないと心配で泣いているのを、周りのみんなが勇気づけていました。

 翌朝、合同庁舎の職員の方から、ここは避難所に指定されていないので中学校へ移るように言われました。

 そのとき、避難者の中に、たまたま義父の葬儀で石巻に来て葬儀のさなかに被災されたという農林水産省のお役人がいました。喪服のその方が、誰の指示でそう言うのか、こういう非常時に指定の避難所でなくても避難所が足りないのだから国や自治体の施設を使って対処すべきだと、市と掛け合ってくれて、避難者はそこに居ていいことになりました。

 それは水戸黄門のドラマのような、ちょっと胸のすくような場面でした。「誰に言われてこの人たちを追い出すのか。君たちはこの人たちの納税で食べているんだぞ」なんて、何事も縦割り意識で考える地方公務員と、国の大事と考える副大臣秘書官だという霞が関の官僚のやり取りが、見ていて対照的でした。その方は、机の置き方から、水を大街道浄水場(通称水道局)まで交代でもらいにいく手配とか、私たちにてきぱきと指示し、市と交渉しにも行ってくれました。

 4日目、同じ大街道の方が帰るというので、私はその方の車に乗せてもらって帰ることにしました。途中、大街道の道は流された車数台が折り重なり、だんご状になっていました。進めなくなったところで知人の家にその車を置かせてもらって歩きました。 

 今回の地震と津波で、私の家も家族も無事でしたが、多くの知人を亡くしました。

 今、E・Aさんが月1、2回仮設住宅の集会室で開いている手芸の会に一緒に参加させていただいています。みんなで集まって何かすることは、気が晴れますし元気になります。できることをささやかにさせていただいていることに、心より感謝しております。

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 コスモスさんが、避難中に考えていたことが書かれていて、考えさせられました。

どうして他の大多数の人たちはすぐに山の方に逃げようと思わなかったのでしょうか?

 その私の問いにコスモスさんは、答えてくれました。コスモスさんの親御さんは、桃浦(海岸地帯)出身であり、叔父さん叔母さん等親戚の方がたくさんおいでになり、チリ地震津波等も経験していて、「地震がきたらすぐ津波が来るから高台に逃げる」ということをよく聞いていたのだそうです。そのことが、避難の明暗を分けたのかもしれません。

「今は関係ないから、、」という発想ではなく、私たちは過去からも他の人たちの言葉にも耳を傾けながら未来を考えることが大切なのだと思わせられました。

 また、偶然災害現場に遭遇してしまった、霞が関のお役人の方の現実的な対応には、今後現場の役所の方々にも見習って対応を考えてほしいものです。

 コスモスさん、貴重な体験をお知らせくださってありがとうございます。被災地以外では、日ごとに風化していきそうな震災の記憶が改めて甦ってきます。

 体験を伝えることは、未来に向けてできるとても重要なことですよね。

 また、コスモスさんたちが集って、作った小物等は震災直後に支援をしてくださった海外の方々にお礼として送られていることを付け加えたいと思います。

  

  金華山の道標の向こうで車のそばにいるコスモスさんです。


東日本大震災津波被災体験

2014年09月15日 | 活動

 

 写真は、石巻市門脇の自宅あとに立つオリーブさんです。

オリーブさんは、東日本大震災の津波で九死に一生を得る体験をされました。私達が小学校時代に慣れ親しんだ門脇地区、そこにお住まいでした。

その時の体験を綴って送ってくれました。

以下に紹介します。

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東日本大震災津波被災体験

2014/08 

 

 2011年3月11日午後2時46分、間をおいての2度の大揺れを伴う長い地震に、いつもと違うものを感じ、これは津波が来ると思ったのですが、あんな大津波とは予想だにしませんでした。

 私の家は石巻市門脇町の北上川の河口に近い所にあります。ランドマークを市立病院とすればその北西に位置しています。

 揺れが落ち着いた頃に、近所のガス屋さんに会いました。町内の一人暮らしのお得意さんの安否を気づかい、見回りに行くところだと言います。私も同じ門脇町のわが家よりもう少し北上川に近い所にいるおばとおじのことが心配だったので、行ってわが家に連れてきました。津波が来るとしてもそれほどでもないだろうから、よりわが家のほうが安全と思いました。

 ところが、家の中に入った途端、東側の窓から黒い大波が壁のように迫ってくるのが見えました。あわてておじおばと一緒に2階に駆け上がりました。

 2階の半分、私たちは3人一緒にテラスが見えないように覆いがついているほうにいたのでそれが防波堤になって波を避けてくれたので大丈夫だったのですが、金属製の柵になっていたほうは波が通過し、北側の窓が壊れ、私たちはそのまま家ごと東方向に流されました。そして家は、すぐ近くの石油配送センターのブロックの囲いの中にある、石油の備蓄タンクに引っ掛かって止まりました。

 備蓄タンクは15本ほどあったそうですが、残っていたのは4本だけでした。4本のタンクには石油が入っていたので、その重さで流されなかったようです。もしタンクがすべて流されていたら、家はタンクの場所に留まらずに、そのまま北上川の本流にのってどこまでも流されて、濁流にのまれてしまっていたことでしょう。

 その後、何度も余震と津波が繰り返し来ましたが、幸いにも大きなブロックの囲いの中に引っ掛かったので、家はそれ以上流されずにすみました。

 ほっとしたのもつかの間、しばらくしてあちらこちらでボンベの爆発音がして、火の手が上がるのが見えました。私たちの100mほど前の、市立病院の薬品センターも炎に包まれました。暗闇の中で、目の前のその炎が不気味にあたりを明るくしました。それは私たちを恐怖に落とし入れました。風向き次第ですぐにもこちらに飛び火しそうです。私たちは石油備蓄タンクという爆弾の上にいるようなものですから、火が付いたら吹き飛びます。

 はらはらどきどきしながら、いつここを脱出すべきか、その機をうかがいながら、まんじりともせず夜を過ごしていました。夜中の3時ごろでしょうか。津波の押し寄せる波が引いて落ち着いてきて、道路が光って見えてきました。

 早く安全な日和山に逃げなければと、この時を待っていましたので、急いでこの場を離れることにしました。私たちは靴を履いていませんでしたので、危険な瓦礫の中を行くため、家の中に残っていた毛布を敷きながら、その上を歩くことにしました。

 ちょうど八間道路と呼ばれる広めの道路に来たところで、おじおばの家が残っているのが見えました。中はどうなっているのか、私たちはその様子を見ようと近づきました。隣のSさんの家も残っていました。その2階に人の気配がし、Sさんのご夫婦が出てきました。2人も逃げないで、大変な思いをして地震と津波の中に残ったのでした。1階は波が通過していましたが、家は倒れないで2階が残っていました。

 私たちとSさん夫妻は、手を取り合って無事を喜び合いました。私とおじおばはひとまずおじおばの家で休んで、朝になってから一緒に称法寺に向かうことにしました。

 5時ころ、瓦礫の中を歩いている人がいたので、「日和山に上がれるだろうか」と聞いてみると、靴と軍手がなければ無理と言われたので、とりあえずSさん宅に残っていた靴を借りることにしました。私とおじおばは靴を履いていませんでしたので。軍手はおじおばの家の2階にありました。

 明るくなるにつれ、信じられないような瓦礫の山が目の前に広がっています。私たちは瓦礫とヘドロの中を、夢中で安全な所を目指しました。Sさんのご主人が先導して、棒で足元を探って安全を確認してくれた後を、軍手で保護した手で瓦礫の中で安全を確保しながら、少しずつ前へ進みました。普通なら10分ぐらいで行く道を、5人で40分かかって進みました。それにしてもSさんのご主人がいてくれたことは、なんとも心強いかぎりでした。

 寒さと不安の中を必死で歩きました。午前中になんとか日和山にたどり着けたことは、不幸中の幸いでした。助かったと思いました。

 ひとまず私たち3人は、日和山に住む親戚の家に身を寄せました。被災してすぐは、日和山もライフラインが寸断されて瓦礫とヘドロの中で孤立していました。水道も電気も止まっていましたので水の確保が難しく、市民は大変な思いをしました。私もおばも大街道浄水場(通称水道局)に、空のペットボトルを持って6時間並びました。

 被災4日目に、仙台の息子が迎えに来たので、私はその後は仙台に避難しました。

 私は、避難所ではなく親戚や息子の家に避難できたので、食料や寒さでそれほど苦労はしなかったのですが、多くの人は被災後すぐから食べ物・飲み物・トイレ・寒さなど大変だったと聞きます。

 同じ門脇町の町内の方々の大半が、避難所で不自由な生活を強いられていることを思うとき、胸を締め付けられる思いでした。申し訳ないと思いました。

 また、私たちの家族や親戚は誰一人欠けることなく無事だったことは幸いでしたが、友人や町内の知人たちをたくさん亡くしたことはとても悲しいことです。地震の後にお会いしたガス屋さんも、今も行方不明です。

 3年以上たつ今、私はまだ仮設扱いの借り上げ住宅に住んでいますが、ようやく再来年にはわが家が建つ見込みができました。

 たくさんの人命が失われたこの地震と津波の経験を踏まえ、その教訓を、ほかの地域の方たちにも伝えていかなければならないと、今は強く思っています。

 石巻は50年程前にチリ地震津波で被害に遭いましたが、今回ほど大きな被害ではありませんでした。その過信が、企業や学校で被災して団体で行動した人たちと違って、家で一人でいた人たちに避難する勇気を起こさせなかったのかもしれません。

 それは私自身を含めた反省点です。昔からの言い伝えに、「津波てんでんこ」というのがあります。津波が来たらその場からそれぞれすぐ逃げなさいということです。

 現在の日本は、これから大地震と津波が来ると予測されています。また、豪雨で川が氾濫したり山崩れが起こったりします。日ごろから災害の可能性を予測して、緊急時に何が必要か、どう逃げるか、準備しておくことが大切です。

 

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 オリーブさんの息遣いが聞こえるような、その場にいた者だからこその言葉が心に迫ってきます。

 信じられない光景とは、まさにこのようなものなのでしょう。門脇小学校が焼けたと聞いただけで私にはショックで、でもその状況がよく呑み込めなかったものですが、オリーブさんの体験を読むとその時の様子が浮かび上がってくるような気がします。

 オリーブさんは、最後に書いてあるように実際に自分の体験を、様々な機会に伝えていると聞いています。

その生の言葉は何よりも強く人々の心に響くことでしょう。是非ともこれからも伝え続けてほしいと思います。

 オリーブさん、本当に貴重な体験をまとめていただいてありがとうございます。「津波てんでんこ!」この言葉をみんなが知っているようにしたいものですね。