石巻白梅ししの会便り

石巻のためにできることを一緒にしようね!!

② 町内会「石巻被災地ガイドツアー」に参加しました!!

2019年09月14日 | 活動

 

    湊の津波避難タワー

 

 前回に続き「石巻被災地ガイドツアー」の第2部です。

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 日和大橋に向かって走ると、右手には防潮堤が続いています。

 高さ7メートルということで海は見えません。

 左側には、「石巻南浜津波復興祈念公園」予定地があります。更地や重機等が見えます。雨天のせいかあまり作業している様子は見えません。

 バスはどんどん進みます。

 日和大橋の上から見た景色です。

 

  右側海の方の景色です。

 港の方に入り、初めの写真の建物が見えてきます。

 これが東日本大震災後に造られた「津波避難タワー」です。

 津波が起きた際、まだ高い所に避難できなかった人や観光客等地域の情報が少ない人たちが避難でき るように建てられたものです。海から300メートルほどの所にあります。 

 ガイドさんの話よると、普段誰かにいたずらをされないように鍵がかかっているそうですが、震度5以上の地震が起きると、自動的に上の階の鍵が開くようになっているそうです。

 そこまで考えられているのですね。

 魚町1丁目津波避難タワー、魚町3丁目津波避難タワー、大宮町津波避難タワー、西浜町津波避難タワー(石巻工業港)等いくつかできています。

 

 また、しばらく進むと新しい魚市場があります。

 壁面の絵の魚がステキです。立派な魚市場ができて本当に良かったです。

 「昔、このへんでは魚を運ぶトラックが通ると、そちこちに魚が落ちていて住民がみな拾っていったそうです。」とガイドさんが話していました。 

 バスで私の隣に座った方は、ご主人が石巻の湊出身の方で、よく「魚は買うものじゃない。」と言っていたそうです。さぞ、生きの良い魚をたっぷりいただいたことでしょう。

 旧き良き時代のお話ですね。なにか微笑ましいエピソードです。

 

 この辺りの建物には、緑の四画の中に押し寄せる波と、人が高いビルに向かって逃げる図案が描かれているマークがついている建物があります。

 「津波避難ビル」です。

 東日本大震災津波の際、避難する高い場所がないため、犠牲になった人達が少なからずいたため、そこここに背の高い建物を一時避難場所として整備した建物です。

 第一号は「大興水産株式会社」その他、高齢者住宅、企業の建物等々に次々に整備され現在では、石巻市内に30数か所にもなっています。

 ヘリコプターの発着できるヘリポートがある避難ビルもあります。素晴らしいです。

 

 また、湊の川沿いの道路からは、左側にブルーシートが見えましたが、そこはかさ上げして造っている道路だそうです。東部道路のように、避難場所としての役目の他、津波をせき止める効果を期待しています。

 

 石巻だけでなく被災地は随分かさ上げ工事が進みました。

 以前お知らせした北上川沿いの「いしのまき元気市場」の所もすっかり防潮堤が出来上がっていました。市場のそばにできた「石巻市かわまち立体駐車場」から撮った防潮堤です。(緑の部分です。)

 やはり川は見えませんね。

 

 ここの駐車場からバスに乗ってガイドツアーに出発する頃、雨が激しくなりました。土砂降りの中、穀町の方を通る頃には稲妻が光る荒れた天候に。道路には水が溜まり初め道路脇の側溝のあたりからは水が噴き出し始めました。

 これから海沿いに行こうという時に...。思わず「引き返した方が良いのではないでしょうか?」と言ってしまうと、ガイドさんは、

 「水が溜まるところは決まっているんです。まだ治水工事が充分ではないんですね。」

とおっしゃて、そのまま進んでいきました。

 側溝の水の処理量以上に雨が降ったのでしょう。

 

 ガイドツアーによって、久しぶりに眺めた湊あたりの風景でした。

 ガイドさんに説明されて津波対策が着々と進められていることが分かりました。

 そして、やはり工事中や更地のところも目立ちました。

 復興途上なのだと感じました。

 

 でも、無くなったためにまた新しいものができていくという様子も感じられます。

 

 変わってゆく石巻。

 そこに新たな価値を持つものができてきています。

 災害が増えてきている現在、大勢の人たちで知恵を出し合って乗り切ろうとしています。協力せざるを得ない環境になってきています。そこにも何か価値あるものがあるように思います。

 私の後ろの席のお年寄りの方が石巻のことをいろいろ隣の方に説明していました。随分詳しいと思ったらご主人が8年間ほど石巻で過ごしたそうです。小学校5年の時、門脇小学校に転校したとのことなので、ちょうど青春を石巻で過ごしたのでしょう。今でも当時の友達との交流があるということでした。思いがけないご縁でした。

 

 この「石巻被災地ガイドツアー」は、昨年町内会の「婦人防火クラブ」主催で企画されていた行事でしたが、ちょうど出発の日に大型台風が東北地方を通過する見込みのため中止になってしまいました。今年は、ちょっと危なかったのですが無事実施、参加できたので良かったです。満足!

 被災地では、まだまだ、いたるところで防災のための取り組みが行われています。

 私の知人で、以前小学校の教職についていた方が、たまたま縁があり大学主催の子どもたちへの防災教育の取り組みの一環に携わっている人がいます。その取り組みも初めは石巻が現場でしたが、今では仙台にも広げてきているそうです。

 

 たゆみなく続く防災対策ですが、千年たっても忘れられないようになると良いと思いました。

 

 

 港にある建物。中ほどの青いステッカーのようなものに津波の高さが記されています。2階の上まで上がったのですね。

 

 「白謙かまぼこ門脇工場」

 

 

 

 

 

 


町内会「石巻被災地ガイドツアー」に参加してきました。

2019年09月14日 | 活動

 

      左の建物は「南浜町つなぐ館」。右側の白いポールはこの地を襲った津波の高さなのだそうです。

 

  皆さんは、

 「えっ!! うそでしょ!!・・・・・」

と思う瞬間を経験をしたことはありますか?

 多くの人たちが一斉にそう思った出来事 「東日本大震災」の後の大津波!!

 その声を生で聞かせていただき、そしてその後の石巻の対策の一端を知ることができました。

 先日、台風15号が関東で猛威を振るっているさなか、町内会主催の「石巻被災地ガイドツアー」に参加しました。

 初めは、雲雀野(ひばりの)海岸海岸から1キロメートルの場所に位置している「白謙かまぼこ門脇工場」の見学。

 平成7年頃にできた新しい建物です。かまぼこ製造の工程やその設備等のビデオを視聴し、衛生面での厳密な管理に感心しました。ここまでして作られた製品なら安全安心と感じられます。ビデオを見ながら、熱々のささかまぼこをほおばりながらその美味しさもあってか本当に復興して良かったと今さらながら思いました。

 震災後も製造が続けられ石巻の産業の一つとして業績を上げていることに安堵しました。

 

 その後、知人と一緒に震災津波が起きた時の工場の様子を伺いました。

 地震の揺れが起こった時、工場にいた職員の人たちは、2階の休憩室か何かの部屋に避難したそうです。

 津波は2メートルほどの高さで、2階には浸水しなかったそうです。しかし、建物は孤立してしまい、職員の方たちは、検査用?の少量のかまぼこを分け合って食べて空腹をしのいだとのことでした。

 隣に建っていた倉庫は破壊され現在のものは建て替えたものなのだそうです。

 工場は平成になってから建てられ比較的新しい建物だったので、その後まもなく立ち直ることができたのかもしれません。

 玄関入り口には、詰め合わせのかまぼこセットがいくつか展示してありました。

   

 

 写真にあるように様々な種類のかまぼこがあります。

 我々団体客のためには、お得なセットが用意してありましたが、その他にバラのものも並んでいました。

 私はとりあえずセットのものを購入しましたが、一つひとつ選んで買っている人もいて、40人近くの団体なので大変ですよね。

 でも、工場直営なので自宅の近くのお店にあるものよりも何より新鮮だし、もしかしたら近くのお店では売っていない種類もあるかも・・・ネ。

 材料はすべて高級魚の「きちじ」とのことで美味しいはずですね。

 

 

 さて、次は白謙工場を後にして海沿いの道路を日和大橋の方向に進んでいって、左手に「日本製紙工場」の敷地が見えてきます。

 海側から工場の奥を見たのは初めてです。ここの「日本製紙石巻工場」の広さは「日本ドーム〇十個分」とか説明していました。とにかく広いということです。

 ここにももちろん大津波は襲いました。以前どんぐりさんのレポートで石巻の「日本製紙工場」の復旧についてお知らせしたことがありましたが、まさにその時のことです。

 

 こんなに大きな工場なのに、大津波当日ここでは数人のけが人の他には誰も犠牲にならずに避難できたそうです。

 そのわけは、日ごろから実施している津波避難訓練によるものだったようです。

 この工場では、海のすぐ近くにある工場ということで常に津波避難訓練を行っており、津波発生の際に慌てることなくすぐに訓練通りに行動できたのでした。

 門脇小学校に通っていた人ならばほとんどの人が知っていると思いますが、工場の正門側から山に登る階段が二つ、そして少し広い上り坂があります。そこから避難するようになっていて実行できたのでした。

 大きな工場なので随分大人数の方々が勤務していたことと思いますが、一人の死者も出さずに速やかに避難できたことは誇れる事実だったと思います。 

  

 しかし、工場の被害が甚大で、もう復旧は無理ではないかと言われたそうですが、様々な所から支援を受け、結果3年で復旧できたのです。とても素晴らしいことでした。犠牲者がでなかったということも社員の励みになったのではないでしょうか。

 それにしても、あの紙の原料のチップのもとのたくさんの大丸太が津波の時は次々に流れて凶器にもなるのだという話も聞き、驚きました。

 

 ここでは、普段の避難訓練がいざという時にいかに大切かということを強く感じさせられました。

 それと同時に、逆に海から少し離れているからと油断していてはいけないのだと感じました。

 ガイドさんは、震災の時自分の家は海から離れているから津波がくるという感覚は全くなく避難が遅くなったが、実際は川から津波が押し寄せてきたとのことでした。(「河川津波」というようです。海から川をさかのぼってくる津波です。)

 

 おりしも現在千葉県では、台風15号による被害で、電気等のライフラインの供給がストップしています。

 この猛暑のさなかに電力がストップするなんて本当に命の危険を防ぐ手立てがストップしたということです。

 あの東日本大震災の直後の東北の様子が思い出されます。

 あの時は雪が降りだして寒かった。でも、今年のような猛暑では寒さよりもっと防ぐ手立てがないようで、どうしたものかと思います。

 そして、災害の前では、電気に頼った現代の生活のもろさを感じさせられます。

 電気の復旧が遅れている原因として、電力会社の「想定外」という言葉ももうあまり説得力を持たなくなってきているように感じます。

 どうか、少しでも早く復旧しますようにと祈らずにはいられません。

 そして今後もこのようなことが起こりうるという考えで対策を立てておく必要を感じます。

 

 話がそれてしまいましたが「油断大敵!」という言葉を思い出させられた出来事でした。

 海のすぐそばでなくても津波が襲うことがあると思い、どこでも避難経路の確認をしておくことによって命を守れる可能性が高くなるということですね。

 

 さてここからバスは日和大橋に向かって進んでいきます。そのお話は次回にしたいと思います。

 

  あっ!そうそう。

 昼食をとるために道の駅「上品の郷」に着いた時、隣のバスに乗ろうとしている高校生らしい男子生徒たちがいました。よく見るとバスには「高知」という表示がありました。

 高知県からこちらまで来ているのですね。「南海トラフ」による地震が心配されている四国。やはり備えの一環として勉強にきているのですね。しっかり学んでいってほしいと思います。