石巻白梅ししの会便り

石巻のためにできることを一緒にしようね!!

メロリンさんからのお便り

2014年08月26日 | 活動

 

 メロリンさんからお便りが届きました。

メロリンさんは、現在は関東に住んでいますが、生まれ育った土地は石巻です。

この度、現在お住まいの千葉県の方々と東北への旅行をなさいました。その時の様子を投稿してくれましたので、紹介いたします。

 

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     ご報告  旅(この度の旅・・・)  被災地出身者

 

 「バスツアーで被災地へ行って来たのよ」と聞けば、笑顔で「ありがとう」と答える。被災者に成り代わり。

誤解されてはならない、私は被災者ではないのです。被災地出身者なのです。支援をして下さる人々にいつも「ありがとう」を言っている。

自分が貰える訳でもないのに(笑)ふる里へのご支援の心がありがたくて。

 

 そんな被災地出身者が東北以外にも大勢おられます。千年に一度の不思議な立場。

ふる里が被災してから3年間、「ありがとう」の言葉が増えました。お蔭様です。そんな心を持ってこの度ふる里を巡りました。

 

 千葉○○○会女性部会、参加者20名のバスの旅。

 午前640分蘇我駅発。一路、木の屋石巻水産本社へと向かった。途中伊達の牛タンで昼食を摂り、午後2時過ぎ到着。玄関先で記念写真を撮り、工場見学。DVD鑑賞。

 社長、副社長の挨拶に続き待望のおいしい缶詰のお買い物。そこはまだ仮の売店、そういえばなぜか薄暗かった。本格的な売店営業は品揃えなど4ヶ月後を目指しているとの事。

おのおの大量の缶詰を箱買いして宅急便で送った後、その場で待ち合わせをしていた「なごみの会」の方々との顔合わせとなりました。

 「なごみの会」は、この3年間、避難所や仮設住宅やアパートなどへと移り住み頑張ってきた主婦の集い。もうあと1年ちょっとの辛抱だ。

心を和ませるためにお茶飲みをしながら手芸品を作っている仲間たち。それでなごみの会。

 

 あの年のあの時に支援を頂いた御礼にと千葉のボランティア団体に作品を送ったりもしている。窓口はオリーブさん。ししの会でおなじみの我等が同級生です。

これまでに門脇町や南浜町他から自然発生的に集ってきた人たちをまとめてきた。 

 この日、なごみの会の参加者6名の中に同級生が他に2名いた。

何十年ぶりの再会か!まさか、この場がミニ同窓会になるとは、サプライズでした。

生きていて良かったね。心が若返りとても楽しかった。

 旅の第1日目のお宿は松島一の坊。 

 

 翌2日目は名ガイド(学生時代NHKでアルバイトをしていたという仙台出身者)の案内で大川小へ立ち寄り、南三陸町へと向かった。 

 午前9:00一の坊前出発。バスに乗り込んだ時はまだ前日のサプライズの余韻が残っていた。

そして、大川小学校へ。

 大川小では、モダンな設計の円形コンクリート建て校舎が荒れ果てていて辺りの建物は全て流され住宅街跡地となっていた。校庭だった場所では、突然子どもを失った親達の悲しみと無念さが感じられて、じわじわと目頭が熱くなってきた。

とても人ごとではない。もっともっと津波てんでんこを伝えるべきと思いました。

 南三陸町防災対策庁舎では、あの日4階の屋上を越える波が来て、一瞬にして多くの人々が波に消えてしまった状況を詳しく聞くことができた。

いつの間にか前日のサプライズの余韻はどこかへ消えていた。お賽銭をあげたいけれども禁止されて、青い空、白い雲を仰ぎ、天国に向かって心の痛みを思いました。

物心両面においての復興を祈りました。

 

 その後一行は歌津にて「てっつぁんわかめ」を購入。陳列品が無くなり「こんなに売れるとは」の言を聞く。次に歌津地区福幸商店街で昼食を摂り、お買い物。

海鮮丼を食べて復興Tシャツなどを買う。別どんぶりに出された新鮮なほやの味は、関東人の舌にもおいしかったそうです。

私自身は子どもの頃からほやのうまさは知っていた。一角にボランティアの方が作ってくれたという小さな木造りの祭壇があり、ひっそりとお線香を手向けた。 

 

 一関でガイドさんと別れて、2日目のお宿花巻市大沢温泉へと向かう。別れ際に、ガイドさんから参加者一人ひとりに感謝状が渡されました。宮城復興支援センター長様からでした。 

 その夜は、カラオケ大宴会で盛り上がり、昼間の涙を吹き飛ばしたかのように見えた。(これでいいのだ)でもちょっと複雑な思いのまま眠った。 

 

 旅の最終日3日目は、世界遺産平泉の中尊寺参拝。阿弥陀三尊に手を合わせ、心静かに目を閉じ、高ぶり易い六根を鎮める事ができたように思いました。

ダジャレが多くウィットに富んだ姉さんガイドに連れられて本殿を参拝。レストハウスで昼食を摂り、お土産店にて最後のお買い物。

 そして、いよいよふる里東北よさようなら。東北自動車道を一気に上った。 

 

これにて23日の旅のご報告まで。忘れてはならないと肝に命じる旅でした。 

 

参加者の皆様方に感謝を致します。ありがとうございました。

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 メロリンさん、お便りありがとうございました。

ふる里に思いを寄せる被災地出身者の気持ちがとても良く伝わってきました。

直接被災したわけではないけれど、じっとしてはいられない、何かできることをしたい。そう願うのはメロリンさんだけではないでしょう。きっと日本中にたくさんいらっしゃることと思います。

 そういう中で、他の地方の方々と被災地を訪問することは、きっととても大切なことなのではないかと思います。

そして、そんな中でも旧友との懐かしい再会は心躍る出来事だったことでしょう。当時の自分たちとの再会はなによりも嬉しいことだったのではないでしょうか?

 さまざまな思いをされた旅だったと思いますが、大事なことをたくさん感じる旅であったことが感じられます。

 これをきっかけに更に東北に心を寄せてくださる方々が増えることを願いたいと思います。

 

 


『紙つなげ!彼らが本の紙を造っている 再生・日本製紙石巻工場』

2014年08月08日 | 紹介

 これは、津波被災後4月20日の日本製紙石巻工場の正門の写真です。

どんぐりさんが送ってくれました。そして、1冊の本の紹介をしてくれます。

以下は、その文面です。

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『紙つなけ! 彼らが本の紙を造っている 再生・日本製紙石巻工場』

 佐々涼子著 早川書房

 

 今年の6月25日発行のこの本の紹介が朝日新聞に載ったのは7月15日付夕刊。私よりも18歳も若く、石巻に縁もゆかりもない佐々涼子さんというノンフィクションライターによって、日本製紙石巻工場の再生の軌跡が残されたことに、誰かがやってくれないかと願っていた私は、佐々さんあなたがやってくれたのですねという感謝で胸が熱くなった。

 私はこの工場の社宅で育ってき、今の実家も社宅の脇にあって、石巻の実家に帰ればいつも否応なく社宅の中を通り道としていた。津波のあとも帰るたびに石巻工場のその時その時を見てきていた。

 現在、私も紙に関わる仕事に携わる身として、石巻工場で造られた紙の行きつく先で仕事をしていることを実感させられた津波被害だった。石巻工場の被災により、確かにあのとき、出版する本の紙がなくなって、紙を替えるということで、編集者が右往左往させられていた。

 毎日見てきた高い煙突と工場から立ち上る白い蒸気、不夜城のごとく一晩中輝いている明かり……。そこで造られ、トラックに積まれて運ばれる大きい紙のロール。

 それが当たり前の日常だった工場の、津波後の惨状はすさまじかった。敷地が広く規模が大きい工場だけに、どこから手をつければいいかわからないほどの瓦礫の山だった。

 帰るたびに見かける片づけの作業をしている方々の顔の暗いこと。黙って重い足取りで瓦礫の工場の中に集団で吸い込まれていくヘルメット姿の人々……。食事や休憩に戻ってきても無言で疲れ切っていたようだった。いろいろな会社や地域から応援にきている方も多かったようだ。

 その人たちが、被災から半年後にマシンを動かそうと、努力した闘いのさまがこの本には記録されている。こういう工場では、人間は小さな小さな存在でしかない。その小さな人間たちの努力が報われるような記録が、その方たちの造った紙に刻まれ残るということが、今回のこの本の紙の使命となった。幸運な紙たちだ。

 今後本も電子本全盛となって、そのうち紙の本の需要はなくなるかもしれない。ノンフィクションという分野も、素人がインターネットでリアルな情報を流すことによって、その需要がめっきり減ってしまったようだ。どちらも将来、先細りになる運命にあるノンフィクションの書籍『紙つなげ!……』。

 今回この本の出版で、少なくともここまで日本の出版文化を下支えしてきたのは石巻の工場で造られた紙であると、たくさんの人に気づいてもらえるのではないだろうか。

 そういう紙がまたどんどん石巻工場で造られ、紙の本が読まれ、日本の出版文化も続いていってほしいものだ。

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 どんぐりさん、ありがとうございます。

 ちなみに、昨年私が行った時には、工場はきちんと整備されていました。(写真下)それから、私達の同級生M君は、日本製紙工場に勤務していたので、その頃の様子や苦労を肌で感じながら頑張ったのでしょうね。

 ついでに、パルプ工場の近くの私たちのおなじみの階段の写真も載せます。思いでありませんか?(昨年のものです。)

 

 


石巻川開きに行ってきました!

2014年08月04日 | 活動

 1日に石巻の川開きに行ってきました。

昼に降っていた雨が上がり、浴衣姿の若者があふれている石巻駅前は、とても賑やかでした。

 こんな光景を見ると、祭りの必要性が納得できるような気がします。(非日常の世界は、何かを感じさせてくれたり、普段は気づかなかったことに気づかせてくれたり、とにかくウキウキ、ワクワクします。こんな年齢の私でもそうなんですから。)

 ところで、この石巻川開きは、治水で石巻の街を救った川村孫兵衛重吉翁に対する報恩感謝の祭りとして1916年から始められたのだそうです。ずいぶん歴史があったのですね。花火大会、流灯等も行われたそうです。

 翌年1917年に、8月の第一日曜日を開催日と決め、行事内容は、花火大会(打ち上げ花火・仕掛け花火)と水上行事(ボート・水泳)だったとのことです。それから、いろいろと趣向を凝らしながら続いてきているのです。(門中時代に、私達の同級生のお姉さんがミス川開きの準ミスになったとか、知ってましたか?)

 今年も(?)パレードで小学校の鼓笛隊も参加し、門脇小学校が参加していたようですが石巻小学校に統合されることになっており、最後なのでしょうか。

門小の校舎は、震災遺構として残すことに決まりましたが、門脇小学校は、幕を閉じるのです。卒業生としては、残念ですが、実情を考えるとやむを得ないのでしょう。

 でも、卒業生の心の中には、いつまでも楽しかった門小は存在しています。先日同級生と集まりましたが、そこの会話にも心の中にも昔のまま存在していました。

当時の子どもの頃の自分たちと、40~50年経った現在の自分たち...。ちょっと不思議な空間でしたね。

 ところで、金華山の道標、しっかり立っているところを見てきました。そして、その石碑の裏にはたくさん文字が刻まれていました。江戸時代の人が残したものです。でも、このお話は後にすることにします。

 私達が行った時、お祭り広場では丁度和太鼓の演技?が行われていました。地元の方々の太鼓でした。人数は5~6人と多くはないのですが、一人ひとりの音がとても力強く周りの空気を震わすように響いてきました。

そういえば、昨年は県外の和太鼓サークル?の方々が宮城の人たちを応援に駆けつけてくれていたのでした。今年は自分たちで太鼓を打てるようになったのだと復興の兆しを感じました。

 もう一つニュースがありました。

仙石線が来年の6月に全線開通する見通しです。とてもグッドニュースです。これでやっともっともっと交流がしやすくなります。

今日は、とりあえずこの辺で。後は写真で紹介します。