12月はじめ、私の住んでいる町内会の婦人部研修の一環として震災の語り部阿部憲子さんの講演会が催されました。
1丁目のイベントということで、1丁目会館に80名ほどの座席を設けての小さな場でしたが、女将は、快く承諾してくださり当日の講演会となりました。
講演に先立って、インターネットに紹介されている「南三陸町・ホテル女将『町民を救った180日間』」の内容のコピーが配布されました。
南三陸の「ホテル観洋」の名前は何度も耳にしていて、被災した人たちのお世話をしたことをなんとなく知っていましたが、紙面を見てそのきめの細かさや地域を思う洞察の深さに驚きました。
ご自身も被災し、ホテルのスタッフも笹かまぼこ1枚をみんなで分け合う状況の中で、3階以上は無事だったホテルを開放し、避難者全員を客としてもてなそうと決めたそうです。
全てが不足していて、道路も寸断され物資が届かない中、1つのおにぎりを数人で分け合って食べ、ペットボトルの水は、一人キャップ゚一杯ずつという風にして提供したそうです。
食事の時は避難者は多い時で、1000人がいたということでした。
そして、驚いたことは、先を見越して援助内容に優先順位を決め、地域の存続を考えた手だてをとったことです。
「学生と経営者の家庭を優先してお世話します。」
そう言って、5月からは、学生のいる家庭と経営者の家庭の受け入れを優先して申し出たそうです。
その理由は、「ライフラインが途切れたままでは、人がよその町、都会に流出してしまい、町が消えてしまうと思ったからです。人がいなくなってしまったら町ではありません。子どもは転校してしまったらすぐに戻ってこられない。地元の経営者が立ち上がってくれなければ、雇用が生まれず人が生活できない。だから子どもと経営者が優先だったんです。」とおっしゃっていました。
600人の被災者を受け入れました。
また、子どもたちにも目を向け、子どもらしい毎日をおくれるように、学習の場を設け、寺子屋、そろばん教室や英語教室を始め、また、全国から送られてきた本で図書コーナーを作ったそうです。
そのようにして、そろばん教室で学んだ子どもたちの中から、現在全国大会で優秀な成績を収めたお子さんがいるとのことで、そんなニュースを聞くことは何より嬉しいとおっしゃっていました。当時の苦労が大きく報われた瞬間ですね。
避難生活においては、避難生活が長引いてもなんとか過ごせるようにと水の使い方の約束を決めたそうです。また、不足する水の調達に来る日も来る日も足を運び、ついには、企業の支援を取り付けるなどし、近隣住民を守り続けたのでした。
不便を強いられている毎日の中でも、少しでもほっとするひと時を持ってほしいと考え、定期的にお風呂も提供しました。そして、それは、被災者が仮設住宅に移り始めてからも続け、仮設に移った人たちのためにはホテルのバスを動かし各仮設を回るようにしたそうです。そして、仮設に移った人達が、孤立することがないようにお風呂もそれまでのように入れるようにしました。それによって、避難していた時の知り合いと示し合わせて一緒に入浴する約束したりして交流を続けることができたそうです。
そのような細やかな心遣いをしながら、次々と、必要なことを私費を投じて行った実行力に感嘆する思いでした。
行政の支援を待っていてもなかなか進まず、1日1日時は過ぎ、悪い方に向かっていってしまう。一刻も早く人が流出しないように手を打たなければと、奔走した女将の気持ちが伝わってきました。
ちなみに、ご主人は地震が起きた時、気仙沼でお姑さんと会っていたそうですが、道路の状況を見て、とりあえず(女将の)お父様の自宅に避難したそうです。お父様は過去に地元の津波を経験していたので、自宅を高台に建てていて、避難するための屋上も設けていました。しかも近隣住民も避難できるように、家の外に屋上に続く階段を外に設けていたそうです。2人が自宅についた時にはもう近隣の人達が屋上に避難していたそうです。
そんなことから、海辺に暮らす人たちにはそれなりの備えがあるということを知りました。
東日本大震災の際、南三陸で犠牲者が多かったのは、海が見える場所ではなく海が見えないところに住んでいる方々だったということです。
海の近くに住む人々の間には「つなみてんでんこ」の言い伝えがあり、地震が起きてすぐ避難をしたそうです。祖父からいつも聞いていたとか、家族で話題にのっていたからすぐ避難したと語っていたそうです。、津波に備えた意識が育っていことが命を守ったのです。
「つなみてんでんこ」というのは、人をおいて逃げるのではなく、信頼から成り立っているのだということも話されました。家族はどこにいても、きっとまわりの人たちと一緒にすぐ避難しているに違いない。そう考えて家には戻らない。そこには家族全員が「てんでんこ」の意味をよく理解し、それぞれが自分で自分の命を守ることを信じているからこそのの言葉なのだそうです。
今回の震災や津波で私たちは気づかせられたことがあったと思います。
災害の際には、その土地柄が深くかかわるということ。天災にしても事故にしてもそこに伝わる言い伝えや歴史に学ぶことがあるのではないかということです。地名や言い伝え等、住人の方が行政等に携わる人よりもよく知っていることもあるかもしれません。
責任の所在を追及するだけでなく、これから地域の歴史や言い伝え、その声も聞いて備えをし、必要に応じて修正をしていく姿勢がすべての人々に求められることなのだ..。」と感じました。
今回女将の話で印象的だったことです。「いざ災害が起こった時には、こうすれば良いという正解はないのです。避難訓練をしていたことによって、助かる可能性は非常に増えるけれども、訓練通りにすれば絶対に助かるとは限らない。災害の度合いによっては更に自分の判断も求められる。」という言葉でした。マニュアルが重んじられる昨今ですがマニュアルだけではダメな時もあるということです。「答えは一つではない」とのことでした。
実際女将は以前聞いていた中越地震にあった人の話を思い出して、避難場所に指定してあった駐車場から近くの保育所の方に避難誘導したそうです。寒い日だったのでそこにいては体調を崩したり感染症の恐れがあるとの判断からでした。
その他、「1000年に1度の災害は、1000年に1度の学びの場」とか、聞くほどに当時の混乱に全力で立ち向かったからこその重みのある内容がいっぱいでした。地元を大切に思えばこその行動に頭の下がる思いがしました。
最後に、女将は、現在の南三陸の復興のための取り組みについて話してくれました。その取り組みから生まれた町のパンフレット「南三陸てん店マップ」は「観光みやぎおもてなし大賞」をいただいたそうです。嬉しい副産物です。
南三陸のお店等を訪れると1つスタンプがもらえ、何個か集まる度にプレゼントがもらえます。
支援を受けるだけでなく、訪れる皆さんに楽しんでもらおうというアイディアです。
女将は、「とにかく足を運んで1軒のお店でも良いから訪れてみてください。」とおっしゃっていました。
JR気仙沼線が途切れてしまっているのが残念ですが、1度訪れてみたいと思って帰ってきました。パンフレットにアクセスが掲載されていたので、ブログに載せました。(ぼんやりした画像や縦横うまくいかなくてごめんなさい。)
バスで直通で生けるのですね。車で行くのも億劫なので、行くとしたらバスの方が良いかな?と思っています。
ホテル内に作った図書コーナーで子どもたちが本を選んでいる様子の写真の紹介
子どもたちが避難中にホテル内で学習している様子の写真の紹介
パンフレットの一部より
パンフレットより
パンフレットより
パンフレットより
パンフレットより