石巻白梅ししの会便り

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一皇子神社のミステリー  「いづおんつぁんの謎」

2024年02月25日 | 紹介

                                 

 

タイトルは「海街さんぽ 石巻市・東松島市・女川町  海、街、人をめぐる海街さんぽ」のブログとひまわりさんのプログからお借りしました。

 

 ひまわりさん!どんぐりさん!グッド ニュース(?)です!

 2020年2月29日のひまわりさんからのお便り「いづおんつぁんの謎」という記事を覚えていますか?

 ひまわりさんの出身地石巻の湊の地域で毎年「いづおんつぁんのおまづり」と呼ばれるお祭りがあって、ひまわりさんは楽しみにしていたということです。

 屋台にあったハッカ飴や飴細工、そして小さな鳥居のそばには小さな舞台が造られ奉納演芸もあったとのこと、子どもながらにその中の芸人(?)さんのファンになったとか。子どもの頃の良い思い出になったようです。

 

 そのお祭りは、史実とは違う「一皇子宮(いちおうじみや)」のものでした。

 一皇子とは後醍醐天皇の一皇子の護良親王です。その一皇子が住んでいたんだよ。と教えられていたとのことです。

 そして、ひまわりさんは「へえ、こんなところに何故?」と思っていたとのことでした。

  境内の石碑には歴史的な経緯が刻まれており、この宮の存在理由が伝えられていたが、それは、教科書で習った史実とは反しているようだとのこと。どちらが本当なのか定かではないけれど、鎌倉には明治天皇が護良親王を祀ったとされる鎌倉宮がありますとのこと。

 

 ここで、ひまわりさんの想像は、食の内容になってきます。一皇子すなわち護良親王が逃れて大門崎という土地を選び、そこに住みついていたとしたらその理由は食べ物が美味しかったからだと、ガテンしたのでした。と書いています。

 そして、護良親王が数人の家来たちと逃れて大門崎で暮らした晩年は、美味しい食事に囲まれてなんという幸せに恵まれたことでしょうか!海の幸、山の幸、川の幸を豊富に食していたのではないでしょうか!(そもそもひまわりさんは、テレビ番組「天皇の食卓」の中で後醍醐天皇の好物がカエル焼であったという話から、出身地の湊の一皇子宮を思い出したのでしたから。食に繋がるのは納得です。)

 

 そうして、ひまわりさんは変な(?)確信を持ち、護良親王に初めて親しみを感じて安堵したと言っています。「一人勝手に納得して想像しました。いづおんつぁんは食に恵まれて幸せになれる運の良い神様かもしれません。」と。

 

 その話を聞いた私が友達に伝えると、「昔は情報網が発達してなかったから、誰かが自分は護良親王と名乗ってなりすましたんじゃないの」と言い、私も「ああ、そうかもね。」ということで終わっていた話だったのですが...。

 

  なんと、その真実(?)に近づくような書物に出会いました。

 少し前に古本市で購入した「いしのまき散歩」という本の中に「一皇子」という単元で記録があったのです。

 そして、さらに「 海街さんぽ 石巻市・東松島市・女川町  海、街、人をめぐる海街さんぽ」というブログにはそのことについての説明の他に所縁の場所や建物の写真までも少なからず載っていたのです。超巨大ミステリー!一皇子神社 | 海街さんぽ (umimachi-sanpo.com)

 

 「一皇子神社」の話は、日本の歴史の南北朝と言われる時代のこと。南北朝とは朝廷が南朝と北朝の二つに分かれていった時代のことです。

         

 ことの発端は、次のようです。

 力を合わせて鎌倉幕府を倒した足利尊氏と後醍醐天皇でしたが、後醍醐天皇が施いた天皇新政が失敗し、足利尊氏と争って吉野に逃れたのが始まりです。

  そして、後醍醐天皇の息子の一人が一皇子です。私が所蔵している「日本の歴史」によると、大変すぐれた王子だと書いてあります。

 その一皇子が南朝の実質的盟主だったが、足利直義により、鎌倉で幽閉され、やがて直義により淵辺伊賀守が殺害を命じられ、親王は殺害されたという歴史になっています。

 

 しかし、石巻に伝わる伝説では、一皇子は当時雄勝湊と呼ばれた現在の湊地区に逃れたということになっています。

 そして、湊にはそれらしい地名があります。

【御所の浦 (ごしょのうら)】(護良親王が海から上陸したと言われるあたり)

【御所入 (ごしょのいり)】(護良親王の住居があったとされる地域)

【吉野町 (よしのちょう)】(父、後白河天皇の『南朝』があった吉野にちなんで)

 

 ひまわりさん、そういう地名を聞いたことはありますか?

 

 また、大門崎にある一皇子を祀った「一皇子神社」の近くには、関係社寺がたくさんあります。

1 熱田神社  (写真あり)

 石巻への渡航の途中であった嵐の際、熱田神宮に祈ったところ暴風雨がおさまったことから感謝の意味を込めて建立したと言われる神社 (しっかりとした形の綺麗な平安式?の神社です。)

2 【朝臣の宮 (あそんのみや)】(写真あり)

 鎌倉から護良親王を守って共に石巻へやってきた家臣たち、日下、日野, 比羅塚、福原、遠山、志摩、岡本、淵辺の8人の霊を祀ったものといわれる。現在も、石巻にはこれらの姓を持つ旧家が残り、一皇子神社の神官も日野姓だとのこと。一皇子神社の境内にある。

 ブログの写真によると周りの建物がほとんどなくなってしまったが、ここだけ健在とのこと。社殿が新しくされたとのこと。

(私は一時渡波で勤務していたことがありますが、その時地域には日下さん、福原さん、日野さん、が居ましたし、知り合いで湊に平塚さんもおりましたし、同級生には岡本さん、そして遠山さんは湊ではなくても良く聞く名前です。)

3 【吉野先帝御菩提碑 (よしのせんていごぼだいひ)】(写真あり)

  一皇子神社の近くにある【多福院 (たふくいん)】にある。柵には菊の紋章。

 この碑は後醍醐天皇崩御の悲報が伝えられた時に親王が近臣と共に建てられたという。

4 【多福院】の隣の【慈恩院】にある、鎌倉からやってきたといわれる家臣の一人平塚家の墓碑。一皇子伝説についても書かれている。

5 護良親王の墓と言われる盛り土が一皇子神社の裏にある。

 護良親王が何故石巻に逃れてきたのかについては、当時の東北地方はもともと南朝勢力の根拠地の一つであり、当時の石巻に居城していた葛西氏家は南朝派だったので、何等かの繋がりがあったとしても不可解ではないと書かれている。歴史が降って嘗て南朝の系列だった伊達藩になってからも代々藩主の中で藩主の「多福院」詣でが何度もあって藩主参詣の当日だけは多福院寺僧侶は着座格の身分で扱われたと記録されているとのこと。(いしのまき散歩より)

 

 随分一皇子の足跡があったのですね。でも、一番の足跡は「いづおんつぁんのおまづり」かもしれませんね。子ども心にしっかりと根付いていたのですから。

 「いしのまき散歩」では、一皇子は湊村に御所を構え世の形成を窺いながら志を果たせず、正平元年にその地でみまかられたられたというのが石巻に残る伝説だと書いてあります。

 一皇子の生活がどのようだったのかは定かではありませんが、一面ではひまわりさんの言う通り美味しい食べ物に恵まれた毎日であったことも考えられますね。カエルをたべたかどうかは分かりませんが。そう考えたほうが何かほっとします。

 

 湊にこんな秘話が存在していたとは思いもしませんでした。

 石巻には知られていない謎の歴史が結構あるのかもしれませんね。

 

 本当に驚きました。

 「いしのまき散歩」は面白い本です。まだまだ興味のある話が書いてあります。それはまた機会がありましたらお知らせしたいと思います。

 子どもの頃は「社会」の教科というと地理に興味がありました。でも、今では歴史が面白いと思えるようになりました。

ひまわりさん!ぜひ読んでね。

 

※参照文献 「いしのまき散歩」 二佐山連 著

      ブログ 「海街さんぽ 石巻市・東松島市・女川町  海、街、人をめぐる海街さんぽ」

      「人物探訪  日本の歴史」 第4巻「争乱の群像」