石巻白梅ししの会便り

石巻のためにできることを一緒にしようね!!

「奥松島物語第2号」発行!

2014年11月30日 | 紹介

 御無沙汰していました。

 今回は、私達の同級生しし(四四年卒業)の同級生松川清子さんが携わっている「奥松島物語り」の第2号が発行されたお知らせです。(今年の春に出版されていました。紹介が遅くなってしまいました。)

 私は、まだ全部を読んではいないのですが、目次を見ただけで、興味の感じられる項目が並んでいます。ゆっくりと楽しみながら読みたいと思っています。

 でも、清子さんの「[連載] 鳴瀬・思いで雑記帳」はすぐに読ませていただきました。

一部を紹介します。

「 あの日の津波によって土地の景色は一変し、風景の中にこっそり仕舞われていたはずの地域の思いでもまた、見えにくくなってしまった。けれど、新しい町が出来ていく時には、砂の中に埋もれている思い出を掘り起こす作業も、きっと必要なのだと覆う。...略」という文で始まり、中学時代の思いで等が語られています。木造の校舎でのストーブに火を点ける当番の話、木の床にある「だるまストーブ」に亜炭の1日分の割り当て量を考えながら点火の時刻を考える等...。 そうそう私達もそうだった。(小学校の時、)思わず懐かしく思い出してしまいました。

 そんな、現代から考えると不便といえる生活だったけど、心はとても豊かで未来に対する期待に満ちた日々を過ごしていたように思います。

「奥松島プロジェクトからのお願い」として、次のように書かれています。

「2011年3月11日、この町の海岸部は大津波に呑まれ、言い表せないほどの悲惨な姿に破壊されました。間もなく3年、住宅建設が不可能な場所は土台も撤去されて広大な跡地に雑草が生い茂っていますが、道路には災害復旧のダンプカーが行き交い、高台では住宅地と鉄道の造成が急ピッチ、野蒜では、土砂を運搬する巨大なベルトコンベアーが東名運河を跨ぎました。未来は徐々に姿を現してきています。

 住めなくなる場所を含めて、この町がどう変わっていくかを今は想像できませんが、私たちは、確かにこの場所に生まれ、学び、育ち或いは選んで住まいとし、美しい自然の中で日常を営んできました。その何気ない日々の一瞬の記憶を語り合い、書き留めて、私たちをはぐくんでくれたふるさとの情景を、未来に住む人々に伝えていければと思います。今回は友との語らいからよみがえった思いを書かせていただきましたが、今後は皆様の自由な寄稿をお待ちしています。また、お話を聞かせていただけるのでしたらお伺いいたしますので・ご連絡ください。」とのことで連絡先が書かれています。

 この言葉は、そのまま石巻にも当てはまることだと思いました。

 先日テレビのニュースで門脇や南浜町の辺りのジオラマが作られたことを知りました。以前住んでいた方たちがそこで嬉しそうに以前のことを語り合っているそうです。

「 ついにできたのですね!どんぐりさん。良かったね。」

 このジオラマはその場所で被災してしまった多くの方々の心の故郷となり得ることと思います。

 先日、久しぶりに松島の45号線の辺りから野蒜海岸の方に行ってみました。

吉田川沿いに海岸に向かう途中で何台ものトラックやダンプカーに出会いました。そして下の写真のような高架橋が現れました。仙石線の線路でしょうか?そして、河口の辺りは、やはり以前より深くなっているように感じました。(この辺りは震災後地形が変わった所です。地震でこんなに地形が変わるなんてと、実際に目にして、改めて肌で自然の脅威に触れた思いがしました。)

 海岸の方に行ってみました。

道路は整備されており、ダンプカーが行き交っていますが、人家は一つも見当たりません。そして、あちらこちらに山肌が削り取られて地肌がむき出しになっている小山がありました。海辺の砂地のような所にショベルカー等の重機がありました。まさに、「奥松島物語」の先ほどの文章のような光景です。

 仙石線の高架橋でしょうか?(写真上)

 海辺のそ側の重機類(写真上)