石巻白梅ししの会便り

石巻のためにできることを一緒にしようね!!

林子平の墓  

2019年07月30日 | 活動

 上の写真は鞘堂(さやどう)の中の「林子平の墓」です。龍雲院の墓所にありました。

 

 前回、「林子平祭」について書きましたが、先日八幡町付近の道を通っている時にたまたま「林子平の墓」の方向を示す表示を見つけました。

 そこで、用足しの帰りにちょっと寄ってみようと思い、矢印の方向の道に入ってみました。途中二股に分かれている道があり、一応太い方の道を進みました。

 確か東北福祉大学の近くと知っていたので、そちらを目指しましたがなかなか見当たらず、途中のコンビニで聞いてみたところ、林子平の墓や龍雲院は近くにありそうなのですが、その辺の道路は昔の道で狭く一方通行が多く車の私にはすぐ行けそうもありません。

 今回はあきらめてまた出直そうと考え、家に戻りました。

 インターネットで地図をみると、どうやらあの分かれ道で太いほうにいったのが悪かったようです。細い方にほぼ真っすぐにいくと良いようです。

 そうと分かると、ぜひ行ってみたいと思い、(どうせその日はこの夏一番の暑さとなり、家にいても汗がたらたらで何かをする気になりません。家の中でのエアコンも嫌いだし、車のエアコンで涼みながら林子平の墓に行けるならその方が良いと思い)出発しました。

 北山トンネルを抜けてその近くからも行けそうですが、やはり一方通行だったりするので遠回りでも表示のあった大学病院を過ぎたところから行くことにしました。

 午前中と同じ道に入り、今度は二股の道で細い方に進みました。

 そして進んでいくと正面に龍雲寺が見えました。近くコインパーキングに車を置き、歩いていきました。

 

 あたりを見回しても、林子平の墓らしきものは見えません。

 脇の駐車場の方から境内の方を見ると、なんとそれらしい鞘堂が見えました。

 

  (写真、どうして縦にならないのかな?)

 

  縦に見たときに左奥の方に見えるのが子平の墓がある鞘堂です。

 まず、五重塔の前にあるものを見ました。

    

 

 柵の中には、子平が長崎から持ち帰った日時計がありました。

 また、表示には子平の言葉もありました。

    

 

   

 

 鞘堂の両脇には、石碑があります。一つは伊藤博文の寄進したもの、もう一つは大槻文彦寄贈の顕彰碑なのでしょう。漢字だけで書いてあるようで意味は分かりません。

 

 そして、そばには「林子平先生 仙台海に記念日祭典 令和元年度 寄付者 ご芳名 」という掲示がありました。

 町内会の他、輪王寺やその他他区のお店や会社、企業等、様々な方々の名前が連なっています。たくさんの方々からの寄付で成り立っているのですね。

 

 お墓はしっかりお参りできました。

 

 さて、このすぐ近くには、「子平堂」という老舗の和菓子屋さんがあるはずです。

 せっかくなので行ってみたいと思い歩き始めました。

 途中のお米屋さんに尋ねてみました。店主らしい年配の男性が中から出てきて、快く親切に教えてくれました。

 その通りに歩いていき「まだかな?」と思い始めている頃に、

 「あっ!ありました。」

   

 昭和の香りのほっこりするような店構え。

 入ろうとすると、入り口には幕のようなカーテンが閉まっていたので、「今日はこれだけでも良しとして帰ろう。」と思ったときに、

 店の前に止まっていた車の中の中から店主の方らしき年配の男性が「今、開けるから。」と声をかけてくれました。

    

 中に入ると、「子平饅頭」それから表示の「おはぎ団子」「黒豆大福」その他の和菓子がありました。

 店内には、「林子平祭」のポスターの他、子平の肖像画や子平についての書等が展示してあります。老舗の香りがします。

 

 

   

 「子平まんじゅう」                      「おはぎ団子」きれいな色どりです。ずんだと餡です。

 

  白いものが黒豆大福。いくつかずつ買って代金を払おうとしたら小銭がちょっとたりませんでした。

 すると、店主の方は、「いいからちょっきりで良いから。」と言ってくれました。辞退はしたのですが「いいから、いいから」とのことなので、「それでは、」とちょっと足りない小銭をだしてありがたくおまけしてもらってしまいました。

 こんなところも何か旧き良き時代の香りのする温かい雰囲気を味わいました。

 

 このへんは、昭和の頃の懐かしい建物と新しいモダンな建物が混在しています。

 住人もこの建物と同じ時代のような人達なのでしょうか?

 「林子平祭」に参加する人が減っているのもこの建物の比率と同じなのかもしれません。

 

 帰宅して、和菓子を味わってみました。

 「おはぎ団子」はご飯の粒の細かさが絶妙で舌ざわりが素晴らしいです。ずんだや餡は甘さがそれほど強くないのに、餡の味がとてもよくまろやかで上品な味わいです。子平まんじゅうも後味の柔らかな美味しい味でした。

 近くであればいつも食べたいと思わせる味わいです。

 

 旧き良き時代を味わった一日でした。皆さんにもぜひ体験してほしいと思います。

 

 

 

 

 

 


林 子平 祭

2019年07月30日 | 紹介

  

  仙台博物館の園庭の林子平の碑

 

 去る7月20日、林子平が眠る仙台市青葉区子平町の龍雲寺で供養祭「林子平祭」が開催されました。

 例年、十数人の僧侶が本堂で子平だけでなく東日本大震災などの物故者供養のため読経、焼香し、墓前でも読経と焼香をするそうです。

 林子平については、教科書で知っていても詳しいことは知らずにすぎてきました。

 昔、友達と北山のあたりを散歩している時に林子平ゆかりの碑かお墓に出くわし、「こんな所にあるんだ!」と意識したことがありました。

 そこは、現在は「子平町」という町名ですが、この地名は林子平にちなんで元の「半子町」という名前を昭和48年(1967年)変更されたそうです。(そんなことも全く分からず今まで「子平町」の名前を自然に受け入れていました。)

 林子平について調べてみると、その業績が大変素晴らしいものだったということが分かりました。

 日本各地を旅し先見の明がを持ち「三国通覧図説」とか「海国兵談」を著し、海防の必要や人材の育成などを説いたのですが、時の江戸幕府は、その思想をいたずらに人心を惑わすものとして、版木没収や蟄居を命じるなど、子平にとっては、不遇な状況になってしまいました。

 自らのことを「親もなし、妻無し、子無し、はん(版)木無し、かねもなければ、死にたくもなし」と述べ、「六無斎(ろくむさい)」と号し、失意のうちに寛政5年56歳で没しました。

 子平は龍雲院に葬られましたが罪人のため墓を建てることも許されなかったのです。

 

 子平は蒲生君平、高山彦九郎とともに「寛政の三奇人(この場合、奇人とは変人という意味ではなく優れた人という意味だそうです。)」と呼ばれますが、時を得ないということは奇人にとっては本当に不幸なことですね。

 でも、やがて時代が進むにつれて、子平の言ったことが現実のものとなり、その優れた才能も認められ、幕府から赦免され墓の建立が認められました。おいの林珍平が建立しましたが子平の死後48年後のことでした。その後、政府の要人伊藤博文が立ち寄った折、自分の慕う子平の墓のあまりの荒廃ぶりを見て嘆き、その偉業を後世に残すべく墓のそばに碑をつくり寄進しました。(それが、私たちが出会ったものだったのかな...?)

 墓は、昭和17年に国の史跡に指定されました。

 

 そんな子平の業績をしのび、祭りが行われてきました。 

 

 「林子平祭」は昭和の初めから命日の6月21日に実施されており、当時は子平の海防論が軍国主義と結びつき、市民、海軍、海洋消防団が参加し、盛大に行われたそうです。

 これが昭和17年(1942)年、海の記念日が制定されたことなどにいり7月20日に変更されたのだそうです。

 戦後、祭りも復活し、子どもたちも参加し、パレードが商店街を行進したそうです。

 ある方のブログに「林子平祭」についての記事があったので紹介します。祭りの写真が掲載されておりその様子がうかがわれます。

 https://blogs.yahoo.co.jp/sai4asamima9/13173544.html?__ysp=5p6XIOWtkOW5syDnpa3jgoo%3D

 

 子供たちが喜んで参加できる小さな手作り感のあるお祭り、懐かしいです。

 「青葉祭り」や「仙台七夕」「六魂祭」等は、観光客向けのお祭りで盛大で豪華さは見事ですが、家族連れで徒歩で参加できる地域の住民たちの小規模なお祭りはまた違った良さがありますよね。

 昔、子どもの頃毎年参加した春頃のお祭りを覚えていますか?どこまでの地域のお祭りだったかよく覚えていませんが、あの頃小学生頃からの参加だったでしょうか?4年生以下?は男女ともはっぴ姿、そしてたしか6年生の女子が巫女さんの姿で白い着物に朱色の袴でとてもあでやかだった記憶があります。

 そして行列を作って地域を歩きながら各場所場所でお菓子をいただきながら最後日和山の鹿島御児神社に着きます。家に帰って、いただいたお菓子を兄弟で出し合うと、普段は手に入らないくらいの量になり、とても嬉しかったものです。

 そんな子どもの頃の楽しい思い出が忘れず残っています。

 そんな体験を今の子どもたちにも味わってほしいと思います。(もしかすると、どんぐりさんはそれに類するような思い出を子どもたちに提供しているかもしれませんね。)

 

 龍雲院の近くに「子平堂」という和菓子屋さんがあります。「子平まんじゅう」が看板商品です。

 

 「林子平祭」は以前に比べてだんだん参加者が減ってきており、以前のように盛んにしたいと願っている方々がいます。

 

 仙台の観光の一つとして「林子平」にちなむ場所を歩くコースも設定されています。

 

 また、初めの写真は、仙台市博物館の園庭にある碑ですが、博物館は、仙台藩主・伊達氏の居城だった仙台城の三の丸跡にあります。中には林子平の肖像画や「海国兵談話」(寛政3年原刻本)、「三国通覧図説」(仏語訳、1832年刊)等を所蔵しています。

 

 子平まんじゅうをいただきながら、子平の偉業をしのぶ ・・そんな散策が楽しめそうな「林子平祭」のお話でした。

 


ー日和山で砲弾が鳴り響く!!!ー 戊辰150年

2019年07月03日 | 紹介

 昨年は「戊辰150年」とうことで、様々な催しがありました。

 河北新報には、「戊辰150年」という特集記事が掲載され私もそれまでに知ずにいた歴史の一端を垣間見ることができました。

 その中に、石巻に関する出来事もあり、改めて石巻の時代的な意味づけを知るきっかけにもなりました。

 今回は、その中の一つ、あの当時の石巻での様子、日和山でのことです。

 

 以下に、2019年1月20日の河北新報の記事を紹介します。

 この中に石巻の名前がでてきています。その関わりを見ることができます。

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 「奥羽の義」  戊辰150年 35 第6部 仙台藩降伏

   「徹底抗戦派が石巻に集結」  「遅すぎた榎本武揚」

 

 仙台藩が新政府に降伏する直前の1868(慶応4)年旧暦8月26日、旧幕臣の榎本武揚率いる海軍が松島湾に入港した。奥羽越列藩同盟を支援するためだった。

 6日前に8隻で江戸・品川沖を出港した榎本艦隊は房総沖で暴風雨に遭い、咸臨丸など2隻を失った。難を逃れた旗艦の開陽など6隻も破損し、修理が必要だった。

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 艦隊は多数の砲門を備え、兵数は1500.さらに会津から新選組副長の土方歳三、旧幕府軍の伝習隊や彰義隊ら各戦線の敗残兵、フランス人の軍事顧問ブリュネら、新政府の徹底抗戦を主張する集団が仙台に続々と集結し始めた。

 9月2日、榎本と土方は仙台城で藩主の伊達慶邦と対面。榎本は「奥羽の地は日本全土の6分の1を占め、兵数は約5万に上る。新政府など恐れるに足りない」と力説した

 しかし、劣勢の仙台藩は藩論が降伏に傾き、主戦派は失脚していた。榎本と議論した勤皇派の執政遠藤文七郎は、「官軍に抵抗するなど大逆無道。今は伊達家の危機を救うとき。諸君も帰順すべきだ」と一蹴。土方に対しては「斗屑の小人。論ずるに足らず」と酷評した。

 榎本らの到着は遅すぎたのだ。

 9月15日、仙台藩降伏。榎本らは同藩に見切りをつけ、蝦夷地(北海道)行きを視野に石巻へ移動、豪商の毛利屋理兵衛の屋敷に寄宿した。

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 石巻市の旧家の古文書萬方記」によると、石巻に集結した兵らは約4300人桑名藩の「谷口四郎兵衛日記」には、土方やブリュネの指導下、市中心部の日和山(現在の日和山公園)一帯で軍事演習を行ったと記されている。降伏した仙台藩に対する怒りのデモンストレーションだったとも言われる。「戦争が始まるのか」大砲の音に住民はおびえ、近隣に家財を避難させる者もいた。

 榎本らの勢力がもし、石巻で新政府と衝突したらー。既に降伏した仙台藩首脳にとって、彼らはやっかいな存在となった。

  文  酒井原雄平 

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 その他の記事

 ※  石巻市住吉町にかつてあった旧毛利屋敷。老朽化のため2008年に解体され、現存していない。(阿部和夫さん提供)

   (家屋の写真げ掲載されています。私たちが中学時代の頃はありましたね。もう解体されていたのですね。)

 

 ※ 仙台藩の降伏直後、石巻に4000人を超える旧幕府軍が集結した。新政府軍との戦闘が始まるのではー。港町は不穏な緊張感に包まれた。との文言で現在の日和山から望む中瀬あたりの風景の写真が掲載されています。

 ※  榎本武揚  1836年に幕臣の次男として誕生。62~67年オランダ留学。帰国後、幕府海軍副総裁。戊辰戦争では函館で新政権樹立を宣言するが、69年、五稜郭の戦いに敗れて降伏。72年特赦で出獄後、新政府に登用され、北海道開拓などに尽力し、諸大臣を歴任した。1908年死去。

 

 ※ 土方歳三  新選組副長。1835年現在の東京都日野市で富農の四男として誕生。剣術の出張稽古で訪れた局長の近藤勇と親交を深め、63年、近藤らと京都で新選組結成。草創期からの隊士として池田屋事件などに関わった。69年、函館五稜郭の戦いで戦死。

 

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 ということで、当時の日和山では大砲の音がとどろいたのですね。砲筒は海岸の方に向いていたのでしょうか?その頃の南浜町あたりはまだ家もなく野原が広がっていたのでしょうか?

 港町としての石巻の存在感が感じられる出来事です。

 時間軸の中で石巻にも様々な出来事が眠っているのですね。

「戊辰150年」の節目にまた、石巻の歴史の一部を知ることができました。