石巻白梅ししの会便り

石巻のためにできることを一緒にしようね!!

3.16 また、地震が.....!!

2022年03月18日 | 日記

写真は地震直後の近所のスーパーマーケットの様子です。2階は閉鎖され、1階の食糧品売り場等は開けられたようです。

 

 夜も更けて寝る時間が近づいた頃、ゆらゆらゆらという揺れを感じて「あっ!地震!」と思いましたが、家族の「大丈夫じゃない?!」という声で安心したところ、少し経ってから今度はいきなりガタガタガタ..........と大きな音と揺れが起こり、驚いているうちにもギシギシギシ..........ギュッギュッ................ガタガタガタ............と激しい揺れで身体も家も左右に揺さぶられ「あっ!!  これはあの時(東日本大震災)の揺れだ!!」という思いがよぎり思わず玄関を開けなければと走っていった。電気が一瞬で消えた。テレビによると震度は6強。

 揺れが少しおさまって懐中電灯を持って他の懐中電灯を取りに行くうちに電灯がついた。ほっとすると同時にすぐ防災リュックをと思い置き場所を確かめたが、その直後は東日本大震災の時のような連続した大揺れはなかった。

棚から落ちたものを片付けてから、どちらにしても、明日仕事がある家族もいるので少しでも寝なければと床に就きました。

幸い、その後は初めのような大きな揺れはなく、(石巻の方はもっと頻繁だったようです)少し眠れました。

 翌日仙台中心部のデパートには用事があって電話をしても通じず、本屋さんに電話をしても通じず.....  でした。

ニュースによるとかなりのお店や施設は休みになったようでした。コンビニでは様々なものが床に散乱している様子がテレビに映っていました。

そして、思った以上の被害が報道されていました。

東北新幹線が脱線して不通になっていること、断水や停電の地域があること、そして道路に30㎝~50㎝の亀裂ができて通行止めになっている所があること、

旧い家がつぶれていること...等々。

 

家の近所でも屋根瓦が落ちたり、部屋の壁に亀裂ができていました。

我が家でも、いつもは(東日本大震災の時でさえ)あまり被害を受けないのですが、今回は物が動いたり棚のものが落ちました。揺れの方向によるものなのでしょうか?激しさによるのでしょうか?

 

あるカレンダーに、次のように書いてありました。

「今年はこんな年になる」というところに

「令和4年は壬寅・五黄土星の年です。五黄土星は「腐敗・災難・破壊」等の意味があり、大地震や噴火、戦争、災害が起こることが懸念されます。過去には第一次世界大戦や関東大震災、伊勢湾台風などが五黄土星の年におきています。  ~中略~  日本は地震大国ですから、「いつ何が起きても不思議」ではない」ことを意識して、防災グッズの備えや、避難場所等、あらかじめ確認をしておくのが良いでしょう。~略~」

でも、悪いことばかりではなく次のようなことも書いてありました。

「一方で五黄土星には、毒薬が良薬にもなるように、挽回運という運勢を持っています。~略~『前進する気持ち』や『我慢強さ』を心掛けた行動ができた人は、今後の飛躍が期待できるでしょう。

壬寅の『壬』は生命の誕生を宿す意味、十二支の『寅』は植物が成長する状態を表します。~略~」

これは昨年購入したカレンダーですが、新年から1~2か月ですでにその兆候が驚くほど出ているようで驚きます。

 

先日の地震はあの何分かの出来事で、これほど生活が壊されるのかと思わずにはいられません。

つい何日か前に東日本大震災の11年目を迎えたばかりのことでした。忘れてはいけないと警告しているのでしょうか?

 

新型コロナのオミクロン株の収束する前にロシアのウクライナ侵攻が起こり、不穏な空気の中で大きな地震があり、危険がいっぱいの世の中になってしまいました。

でも、その中でも誰でもができることは助け合いなのかもしれません。

少しでも明るい未来を目指して過ごしていきたいものです。

 

 

 


旧・門脇小学校解体工事始まる!

2019年12月04日 | 日記

 

 ここ1ヶ月ほどの間に、何度かMさんが夢にでてきました。何故そんな夢を見るのだろう?Mさんに何かあったんだろうか?等と思っていました。

 Mさんは小学校時代の友達です。1・2年と5・6年生で同じクラスで、特に高学年になってからはよく一緒に行動したものです。

 東日本大震災後に、40年ぶりくらいに顔を合わせました。すぐタイムスリップしたように当時の気持ちになれましたが、話してみて40年の間の様々な経験を経て、自分の知っている無邪気だった彼女がとても大人になっていることを感じました。

 でも、やっぱり彼女らしさは変わらず、懐かしいものでした。

 「その彼女が何故?」

と思っていたのですが、一昨日はハッと思いあたりました。

 ちょうど2日前に旧・門脇小学校の校舎の一部解体が始まったというニュースがあったのでした。

「そうか?無意識のうちにそんな思いが影響していたのだ。」と気づきました。

 

 先月半ば頃から、一部保存に向けて、校舎を覆っていたカバーが外されていたのです。その間に一度見にいけたらと思っていましたが、行けないうちに解体工事が始まったのです。

 

 東日本大震災直後に同級生同士で集まった時、高学年の時、やはりよく一緒に様々な遊びや仲良し喧嘩をしたHさんが、

「あそこが私たちの原点だから...。」

と言っていました。

 そうそう、あの頃は、まだ大きなことは分からず日々のことが最大の関心事でした。

 グループで友達の家に遊びに行って、一体何をしていたのか今はすぐには思い出せませんが、友達の家の様子などははっきり覚えています。Mさん曰く

「廊下が長かったから喜んで走った!」

とか、そんなものだったのですが、毎日がワクワク、ドキドキで目を輝かせていました。

 

 あと覚えているのは、当時新校舎の3階が教室だった私たちは屋上でよく遊びました。(現在の学校はおそらく屋上は通常は出入り禁止になっているのではないでしょうか。)

 屋上の一角が他の部分より高くなっていました。音楽室の上の部分です。

 そこが鬼ごっこの格好の場所となりました。高い部分から手すりを使ってひらりと低い部分に飛び降りて逃げたり、また、低い部分から飛び上がって高い部分に逃げたりと、それはもうキャーキャー言いながらはしゃいだ休み時間でした。

 時には膝小僧がコンクリートの端にぶつかり一直線の傷がついたこともありました。そんなことはものともせず学校生活でのルーティンの一つとなっていたりしたのでした。

 

 あそこの屋上部分は取り壊されます。中央部分67mの範囲を保存し、両端20mほどは解体されるのですから..。

 

 夢に出てくる学校だったり建物だったりは何故かいつも建物正面に向かって左側が入り口です。

それもわけが分かりました。

小学校の左が昇降口だったのです。

あの、日和山(ひよりやま)に続く丘?の道路から学校に続く獣道のような細い道を降りて毎日校舎左の昇降口から入ったのです。

 途中、太い木の根の半分がむき出しになって、ちょうど雨宿りができるくらい下にスペースがあり、その下に入ったりしていましたが、ある時先生に「崩れたりしたら危険なので入らないようにしましょう。」と注意をされたことがありました。

 また、あの道はお墓があった場所だとも言われ、ある時は骨があったとかなんとか..。本当かどうか分かりませんが、半分本気にする雰囲気の所でした。

 現在はきちんと階段になっていました。当たり前ですよね。昭和じゃないんですから。

 確かに、潜在意識の中に刻み込まれたたくさんのことを体験した場所であり、いろいろな意味で自分という人間の原点になっているようです。

 

 そんな大切な場所が、テレビの何分かの映像の中とはいえ崩されていく様を見るのは、分かっていたことであってもなんとも言えないものです。心の中に懐かしい様々な出来事等が浮かんできます。

 そして「ありがとう!門脇小学校!」という感謝の思いがわいてきます。

 

 本間さんたちは一部保存では、その津波の恐ろしさを伝えきることはできないと全体保存を要求しましたが、結局は最初の案の通りに計画は実施が始まりました。耐震工事や維持に費用が掛かりすぎるということです。

 津波の他に火災にもあったということで、より費用がかかるのでしょうか?本当の恐ろしさを伝えることはなかなか難しいことなのかもしれません。

 でも、3ディーで当時の様子を見られるようにするとか言っていたような気がします。

 旧・門脇小学校の整備は来年度中に完成する予定だそうです。

 

 昨日、この記事を書き始めましたが翌日(つまり今日)とても良い天気だったので、ドライブがてら直接行って見届けようと思い出かけてきました。

 

 やはり道路がまた工事中のところが多く、砂山と呼ばれていた場所はショベルカーで崩されている最中でした。

 

 復興住宅らしい建物には、多分「避難ビル」の表示と思われるマークのついている建物が2か所ほどありました。

 それから、網地島行きの船着き場?の表示が随分先の方にありました。

堤防が高くて見つけにくくなったからでしょうか?

 門小の近くの海側の道路脇に、小高い山のように土を盛り上げた場所がありました。小さい公園なのかな?

 

 

 門脇から川沿いに曲がるあたりに「新しい堤防を造っています」というような表示がありました。その部分の堤防が次の写真です。

 この堤防の裏側が川なのですが、全く見えません。見えないのも不安な気がしますが..。

 以前、新聞に東日本大震災後に各地に造られた様々な堤防の形が紹介されていたことがありましたが、その中に堤防の壁の中に海が見えるような窓のような部分がつけられているものがあり、面白いと思いました。これなら海の色も見えます。

 海の色は、その部分の深さだったりその他様々な情報を与えてくれるものだったような記憶がありますが..、それこそ津波が来る前の引き波が見えないのでは...?と思ってしまったり...。

 

 それから、「女川原発稼働反対」という表示もどこかにありました。

 先日、原子力規制委員会が女川原発に事実上の「合格」を示す審査書案を取りまとめました。これにより、今後パブリックコメント等を経て正式に審査に合格する可能性(or恐れ?)が出てきたのです。

 でも、今日も日本では地震が起きました。いくら安全と言っても「想定外が起こること」を想定すれば、絶対安全はあり得ないように思い不安になります。

 

 その他、街で見かけた風景は次のようなものがあります。

 石巻小学校から立町通りに向かう道路沿いにこのような漫画のキャラクターが立っていました。

 その近くにはカラフルなフルーツの模様の建物があり、よく見ると果物店「もりや」でした。

 ちょとステキです。街が明るくなります。

 

 

 

 

 


あれから7年...

2018年03月14日 | 日記

 先日、いつものように近所の大型スーパーマーケット内を歩いている時、「〇〇さんではないですか?」と声をかけられ声の方を見ると、しっかりとした意志を感じさせる落ち着いた表情の女性が目に入りました。

 一瞬誰なのか分からなかったので、

「どちらでお会いしたでしょうか?」と尋ねると

「大須小学校の○○です。やっぱり○○さんなのですね。」

という返事が返ってきました。

 

 東日本大震災直後に私が支援のため行っていた大須小学校の当時の先生でした。

 当時の大須小学校は、避難の方々が体育館にいっぱいで、自衛隊が小学校の玄関のアプローの広場に大きなビニールプールのようなものに水を供給している最中だったりしており、連日のように訪れる日本各地の支援の方々による炊き出し等、いろいろな方々でごったがえしていました。

 そんな中でも学校教育は始まっており、子どもたちは元気に学校生活を送っていました。

 職員室で挨拶をした時、初めてお会いしました。

 毎日児童たちとの日々の仕事をきちんとこなしていましたが、実は、彼女も大変な被災者だったのです。

 雄勝の海沿いにある自宅と商店は津波で全壊どころか土台とポールの上の看板をのこして跡形もなく消えてしまっていました。

 大震災当日、電気も電話も止まってしまった学校で家族の安否も不明のまま、避難者のお世話に当たったのでした。

 数日後に連絡がとれ、家族全員の無事を確認したものの、住む家もなくすぐ石巻にアパートを見つけたそうです。

 彼女自身は学校周辺の教員宿舎に泊まることも多かったようです。その他、同じく北上町の自宅が流されてしまったという若い独身女性の○○先生も教員宿舎に住むことになりました。急に教員宿舎が満員になってしまったと校長先生が笑いながら話していました。

 なにしろ、大須に来るためには、大川小学校で有名になってしまった大川地域の崩れた土手の道路や壊れた道路の雄勝、その他満潮時には冠水してしまうあちこちの道路を通らなければならなかったのですから無理もないことです。

 児童の保護者のご遺体が見つかったとのことで弔問に訪れる際には、

「これ、みな友達から送ってもらったものなんですよ。」

と言って喪服や黒い靴を指していました。

 

 そんな中での当時の彼女の気持ちはどんなだったことでしょう。 今思えば、今回こちらでお会いした時の表情に比べれば、力が抜けて途方にくれていたようにも感じられます。

 

そして、そんなある日、

「お願いがあるんですけど..。」

と声をかけられました。

 彼女は、今回想像もしないような悲惨な状況に見舞われ、ショックを受けていました。そして、今後お嬢さんたちの教育のことも考えて今度は絶対に地震や津波の被害にあわない場所に住居を設けたいとのことでした。 それで、仙台方面で地盤のしっかりとした団地等を紹介していただけないかとのことでした。

 仙台にも地震の断層は走っており、1978年6月12日におきた宮城県沖地震の際には随分大きな被害を被った地域があります。

 特に当時私が住んでいた所の近くの長町、緑ヶ丘団地は1階が壊れ、2階が1階の壁に斜めにひっかかっていたり、幹線道路のアスファルトの道路の真ん中に大きな亀裂が続いていたり、道路沿いの立派な石塀が見事に崩れ落ちていたり、団地の盛り土部分が崩れたりとかし、それはひどい有様を目の当たりにしました。

 そんなわけで仙台の地盤の固い土地と言われ、それらしい新興住宅のパンフレット等を渡したりしていました。

 そして、たまたま当時私が住んでいた住宅地はとても地盤が固く、県内の地震情報の際にものらなかったりするほど揺れの少ない所だったので、隣の振興住宅地も紹介したのでした。

 そして、それから5年以上も経っていました。

 突然、目の前に現れた彼女の話によると、私の住んでいる団地の隣の新興住宅地に無事新居を建て、勤務先も転勤し、新任地に通っているとのことでした。(初めの写真はその新興住宅地の一部です。彼女のお宅ではありません。)

 あの震災津波当時中学生だったお嬢さん。ちょうど卒業式の日に起こった災害でしたが全員無事避難をして難を逃れたのでした。

 そのお嬢さんも、現在の自宅から元気に宮城教育大学に通学しているとのことでした。

 あの当時、仮住まいのアパートで様々な不便さや困難さもあったと思いますが、そこを潜り抜けて、母親と同じ道を志して学んでいるのでしょうか。

 もし、彼女が将来教壇にたつことになったら防災教育における彼女の話はどんなにか説得力があることでしょう!

 

 震災当時、小学生や中学生だった子どもたちが現在青年となり、それぞれ様々な思いを胸に自分の道を歩み始めています。自分が助けてもらったように人を助ける仕事に就きたいと等、自分のことだけではなく他の人たちのことを考える広い視野を持ち活動する様子が多くみられます。

 

 頼もしい思いがします。

 

 まだまだ、被災地には課題があります。

 先日は、石巻の「長寿味噌」の会社が奥松島に新たに再開し、順調に回復していたところ、次第に各地からの支援が少なくなり、たて直すために経営者が変わったとのニュースを聞きました。

 様々な場で支援の期限が終わり返済等が重くのしかかっているという話も聞きます。

 様々な状況がありますが、そんな中、小さな嬉しいことにも目を向けてその芽が少しでも大きく育てと祈る気持ちです。

 今年の彼女の年賀状には、

「今の場所は住み心地が良いです。」

と書いてありました。

 海の力強さや真っ青な海とは違う景色だけど、家族で安心して過ごすことができてなによりです。

 

 でも、その心は、きっともと暮らした海辺の地域の人々への応援の気持ちが息づいていることと思います。

 

  当時の雄勝の海辺の様子(写真上)

 今年も春がきました。自然は厳しいけれど美しいですね。(写真下)

 

 

 


「初めて せかいいっしゅうした日本人・・・若宮丸にのっていた人たち」  石巻の子どもたちによる紙芝居

2016年10月24日 | 日記

 

 10月23日(日)、仙台の江陽グランドホテルにおいて開催された「宮城県石巻好文館高等学校同窓会仙台支部」仙台白梅 平成28年度総会 に出席しました。

 幹事は44年卒業の中の数名の方々で忙しそうではあるけれど連携プレーできびきびと楽しそうに運営していました。(感謝・・です。)

 仕事で忙しかった私はそのような支部があることも知らずに過ごしていましたが、東日本大震災の年に退職してから同級生に再開する機会を得て、かつての友達が頑張って仙台支部の仕事をしていることを知りました。なんでも一昨年ごろに役員の代替わりが行われたそうで44年卒業の私たち同級生の方々が会長等の役員になったのだそうです。 

 会長さんは、私が住んでいる町(10月10日から市になりましたが)の町長選に数年前に立候補したKさんです。

 総会次第の中のアトラクションとして、石巻の子どもたちによる紙芝居「初めてせかいいっしゅうした日本人は~若宮丸に乗っていた人たち」と書いてあったので、ぜひ見たいと思っていました。

 その時間になんとか間に合い初めから見ることができました。

 紙芝居の絵はこどもたちの手によるものです。読み手も小学校3年生~5年生の4~5人の子どもたちでした。

 お世話をしてくださる方も県立i石巻女子高(現「宮城県石巻好文館高等学校」男女共学になっています。)出身の若い方(もちろん女性)です。「一般社団法人 キッズ・メディア・ステーション」の代表理事をなさっています。名刺に「石巻日日こども新聞」とも記入されているのでそちらの仕事をなさっているのでしょうか?    http://kodomokisha.net/kms/index.html

 「石巻日日こども新聞」は、こどもたちの取材活動により、石巻の今を伝える新聞です。石巻日日新聞社の協力により本物の新聞と同じ仕様で制作。東日本大震災から1年後の2012年3月11日創刊。季刊発行継続中。発行部数は3万部。こども記者サポーターの皆さまにお届けしているとのことです。

 会場で配布されていた新聞2016年9月11日号の第1面には、サッカーの本田圭祐選手への手紙を通じての取材が掲載されていました。石巻の子どもたちに「ホンダファミリアフットサルコート石巻」をプレゼントしてくれた本田選手にどうしてこのフットサルコートを作ってくれたのか知りたくて手紙を書いて取材をしたのです。(毎週このコートでサッカーの練習をしている石巻小学校4年生の男の子です。)

 そして本田選手からの手紙を紹介しています。子どもらしい質問に丁寧に答えてくれる本田選手の人柄や夢に向かって進む気持ちが伝わってくる内容となっており、被災地に暮らす子どもたちにも希望を与える内容になっています。                     http://kodomokisha.net/

 その他、「石巻川開き祭り」において行った「川開き石巻日日子ども商店」の記事、「こども病院」の記事等もあり、そして、「未来の金華山」という連載小説もあります。文、絵ともに中学生によるものです。なんだか楽しそうです。

 作る方も読む方も視野が広がるきっかけになるような身近な出来事から海外のことなど、子どもたちの目から見たり感じたりしている「今」を知らせる記事がたくさん掲載されています。紙面には「風の子応援プロジェクト(NPO日本希望工程基金)」に多くの企業等が参加し、応援してくれていることも紹介されています。 

 「石巻こども日々新聞」の紹介が長くなりましたが、このような日々の活動のなかから生まれたものが、初めの写真の絵にあるような「初めてせかいいっしゅうした日本人は~若宮丸にのっていた人たち」の紙芝居なのです。10枚ほどで構成されています。絵はこどもたちの描いたもので子どもらしい面白いものになっています。分かりやすいです。

  紙芝居を絵葉書にしたものを販売していたので購入してきました。(効果的な試みですよね。)何かのイベントでも紙芝居を上演?することも可能とのことでした。

  「若宮丸」のことは、「石巻学」の中でも紹介されていましたが、子どもの手による紙芝居は分かりやすく楽しいものでした。

 「若宮丸」は、江戸時代に石巻から江戸へ木やお米を運んでいた船でしたが、ある時途中嵐にあって江戸とは反対の方角に流されアリョーシャンの島に流れ着き、その後ロシアの皇帝に謁見するなどしながら、あるものはロシアに住むことにして残り、あるものは最後まで日本を目ざし、ロシアの船に乗り途中デンマーク、イギリス、カナリア諸島、ブラジル、マルケサス諸島に立ち寄り、ついには日本に戻ってきたということです。その当時のロシアや日本の国の情勢なども感じられる内容になっています。戻ってくるまでに13年が経過していたとのことです。

 このことは、当時日本が外国と交流がなかったために、多くの人には知られることはなかったそうです。

 それにしても、「若宮丸」のことといい「支倉常長」出帆の謎?といい、石巻には、埋もれている?歴史的事実が案外豊富なのかもしれません。

 港町として伊達藩の交易港や農村漁村として栄えた中には、当時の石巻の人々はさほど関心を示さなかったけれど様々な庶民の歴史が隠れているのかもしれません。

 この子どもらしい絵の紙芝居の絵葉書、販売はしないのでしょうか?実用的だし、夢があると思うのですが...。

  アリョーシャンの小さな島に流れ着いた人たちが島の暮らしに触れる場面  (上)

 若宮丸漂流民の足跡 (下)  なぜか絵の下の方が切れてしまいます。

 

 

 


震災5年後の春

2016年03月21日 | 日記

 

         これは、我が家の水仙です。春になったら自然に芽を出し花を咲かせてくれました。

 宮城県でも東日本大震災から5年目の春を迎えています。

 11日には、国を始めとして石巻でも、河北町のビッグバンで石巻市の追悼式も行われました。

 5年の間に何が変わったのかと考えてみました。

 仙石線は前線開通し、復興住宅入居も始まっています。仙石線沿いの蛇田には新しい駅の開設が予定されています。東松島市の高台造成も進んでおり、新しい場所での野蒜駅もできました。石巻魚市場も新しい施設で再開されています。宮城県の漁獲高も大分回復してきているようです。防潮堤は完成したところもありますが、いまだに高さ等議論されているところもあります。

 白梅のオリーブさんのお宅でも、住居を新築され新居での生活を始めているとのことで、おめでたいことと思っています。

 メロリンさんのお知り合いの方々もこの5年間の間になんとか生業を復活させたりすることができ、震災直後の心配から解放されたとのことです。

 被災地の人々の必死の頑張りによって、ここまでこぎつけることができたのだと改めてその努力や気力の力強さを感じさせられます。

 インフラは、資金の確保によって実現できるので、ここまで復旧することができたのだと思いますが、精神的な面の課題は、今も深く残されているように思います。(宮城県で不登校の人数が多いとか、運動能力の平均値がかなり低いとか。)

 今も震災被害を背負いながら生活している方々がほとんどではないかと思います。

 

 そんな中で、良いニュースを目にしたので皆さんにお知らせしたいと思います。

 それは、石巻の「子ども食堂」についてです。

 (現在、首都圏で「子ども食堂」の開設が増えていることをご存じでしょうか?テレビ等で時々放映されていますよね。「たった一人で栄養の足りない食事をとらざるをえないような子どもたちのために、ボランティアの方々によって支えられている食堂」です。)

 石巻の貞山小学校の校舎の一部を借りて「子ども食堂」が開かれており、子どもだけではなく親も一緒に安い料金で食事ができます。

 子どもの場合はお手伝いをすると食事が無料になったり、地域の方がボランティアをしながら交流をする場ともなっているとのことです。

 この主催者の代表の方は、湊出身の29歳の男性です。NPO法人TEDIC       

        ホームページ    http://www.tedic.jp     (活動等が書かれています。)

   子ども食堂等 応援費として寄付を募っています。

 ◎  マンスリーサポーター(継続会員 ・クレジット決済)

     月 500円   1000円   3000円    5000円 

 ◎  単発寄付(今回限りの寄付・クレジット決済)

     300円      5000円    10000円

   振り込みも可能だそうです。

    振込先 ① 七十七銀行 石巻支店  普通 5903378  特定非営利法人  TEDIC 代表理事  門馬 優

        ② ゆうちょ銀行  二二九支店   当座  0138514   NPO法人TEDIC  

        ③ 振り込み用紙  記号番号  02210-8-138614  NPO法人TEDIC (エヌピーオーホウジン テディック)

    単発でも月々でも、少しでもお手伝いできたら嬉しいことですね。

 若い人が頑張ってくれるのは頼もしいことです。ありがとう!!門馬さん!

 

   入居が進んでいる蛇田の復興住宅。以前と違って駐車場には車、そしてベランダには洗濯物が干してあります。

  

  市立病院の完成はもう少し先のようです。前回見た時はまだクレーンで骨組みを造っているところでした。

  春が芽吹めぶいています。自然は逞しいですね。私も見習います。

 


石巻川開き・仙台七夕

2015年08月27日 | 日記

 上の写真は、再開通したばかりの仙石線の車内にあった広告です。

 東日本大震災から4年を経過した今年の川開き   私は今年は行くことができませんでした。ので、報道記事により想像していました。

 こんな記事見出しがありました。

 {川開きの「華」5年ぶり  石巻・手作り七夕}

 今年七夕飾りが5年ぶりに復活したということです。新聞の写真には、華やかな色彩のくす玉の下にひらひらと風になびく吹き流し。そしてその下に上を見上げながらあるいている人達の涼しげな様子が写し出されていました。飾りは丈が高く見えました。

 場所は、石巻中央と書いてありました。

 今年私は、たまたま仙台七夕の当日一番町から中央通りの七夕飾りを見て歩く機会に恵まれたのですが、その飾りに比べてとてものびやかな印象を受けました。多分、仙台と違ってアーケードのない所だからでしょうか?なにしろ七夕飾りの隙間には青空が見えるのですから!

 地域のまちづくり「ISINOMAKI(石巻)2.0」が商店街主体から市民参加型にしてよみがえらせたそうです。

 市中心街のアイトピア通り(約250㍍)沿道に高さ10㍍の竹が24本設置され、和紙等で作られた色とりどりの飾りがつるされ、行き交う人が足を止めて見上げていたとのことです。

 70年以上の歴史がある七夕飾りについては、石巻2.0が川開き祭りに合わせてまちづくりを考えるイベントを開催し、飾りを造るワークショップは、東京と石巻で計13回開催し、のべ500人以上が参加したそうです。

 アイトピア通りで商店を営む方が「七夕飾りのない祭りは寂しかった。商店主だけでは再会できず、ありがたい。若者たちに伝統を引き継げたらいい。」

と語ったということです。

 小さい頃、花火を見に家から歩いていく時に、商店街に入ると飾りの中を歩くようになり、ワクワクしてきたものです。

 今年も、きっとだんだん気持ちが盛り上がっていく通りになったことでしょう。本当に良かったと思います。石巻2.0の方々に感謝!です。

 また、昨年から復活した「孫兵衛船競漕」も行われました。

 レースは、石巻大橋ー内海橋間の400㍍で実施され孫兵衛船(全長10㍍、12人乗り)45チームと女性向けのミニ孫兵衛船(7,5㍍、8人乗り)に13チームがエントリーし、震災前の規模に戻ったそうです。

 毎年参加している男性職員(北上川の管理の仕事)に触発され参加を決めたという女性職員もおり、「川が市民生活に根差していることをあらためて感じた。」等の感想を話していたとのことです。

  「川」と「海」とは切っても切れない石巻ですね。そして山もあり本当に自然に恵まれた土地ですね。

 もう一つ、川開き祭りでは、東日本大震災の犠牲者を悼み、鎮魂と復興を祈る灯篭約5000個が旧北上川に浮かべられました。

 少しずつ、回復してきている「川開き祭り」が感じられます。これも多くの心ある方々の支援によるものと思います。支援の思いの結晶の一つの「石巻川開き祭り」行くことはできませんでしたが、嬉しいニュースでした。

 石巻の七夕飾りの写真は撮れませんでしたが、仙台七夕の飾りをたくさん写したので紹介します。

 仙台七夕飾りも時代とともに工夫され変化してきているようです。昔の飾りをご覧になった方、いかがですか?今年の飾りつけは。

 

 

 

 

 


コメントありがとう

2013年07月07日 | 日記


 オリーブさん、さっそくコメントありがとう!
写真は家の春の頃の白梅です。まるで○十年前の私たちみたいです。
ちなみに、今は実を付けています。(まるで、今の私たちみたい!)と言えるようだと良いですね。(まだ、梅干にはなっていません。)
 先日の「白梅」Tさんのの記事のように、3.11の後、懐かしい友達に本当にたくさん再会することができました。そこで弾けた笑顔が私たちの宝物とも言えますよね。