石巻白梅ししの会便り

石巻のためにできることを一緒にしようね!!

湊の知人からのお便り

2018年03月25日 | お便り

  湊の知人からお便りが届きました。

 以下に紹介します。

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 七年の年月が経ち私は、人びとの心に灯火が点る出来事が沢山あればいいなぁと思います。

 たとえ幻想でもよいからと思うのですが、いかがでしょうか。現実は景色も心も寂しそうです。そこを湊の人びとは健気に生きています。 

  写真は震災前の湊の風景。遠くにガスタンクが見え、湊中、第二小学校(廃校決定)も見えます。手前は旧石巻漁港。湊の活力が感じられる写真。あの頃は確かな現実だった。今となっては幻想でしょうか?すべてが夢の中。懐かしいです。

  実はこの写真、大きなパネルになっていて、千葉県佐倉市にある国立歴史民族博物館に展示されているのです。震災まで中瀬公園にあった正ハリストス教会の洋風木造教会堂が明治13年に建てられて、現存する日本最古のものとして展示されています。この写真は教会模型のバックになっているのです。 

 物館でたまたま偶然これに出会い絶句しました。丁度、湊地区の復興記事について思案中でしたので、特別な思いを持って見入りました。このコーナーは写真撮影も大丈夫でした。 

 石巻ハリストス正教会は被災して取り壊されていますが、今後は再建が計画されているとのことです。

 湊の写真はいつまでもここに展示されていて欲しいです。ずっとここに残るように、館長様、どうぞ宜しくお願い致します。

 

  中瀬から内海橋を西に渡って行くと仲町。川沿いを右に行くと住吉公園。

 ちょっとオシャレなその公園で小学生の頃遊んでいたときに、行きずりのオンちゃんから聞いた話を近ごろ思い出したりします。

 川面に夕陽を浴びてキラキラ光る清らかな風景の記憶。

『石巻という地名はナ、昔、昔、川の底にあった大っきな石がナ、ぐるぐると巻いたから石巻という名前になったんだど』

 これを聞いて怖い幻想を描いて帰った子供の頃。なのに次の日は記憶にない。まさかそれが現実になるとは思いもしないで過ごしてきました。

  還暦を迎えてあの津波を目の当たりにするまで、すっかり忘れていました。 

 60年前に会ったあのオンちゃんは真剣な気持ちだったんだろうに。よい人たちに囲まれて過ごしていたのだと今になってアレコレと思い返しています。

 

 ところで昔、昔、ここ湊は、牡鹿ノ郡湊村という地名でした。大門崎(だいもんざき)の一皇子(いちおうじ)神社の石碑にその地名が刻まれています。 

 一皇子宮(いちおうじみや)は被災して無惨な姿でしたが、本殿と社務所はきれいに修復されています。ただ、白龍様の赤いお堂が取り壊されたまま、土台だけの状態です。 

  

 石碑に刻まれている700年前の国史は興味深いです。 

 大塔宮護良親王(おおとうのみやもりなが親王)は晩年を湊で暮らし此の地で薨去されたという内容の経緯が詳しく伝えられています。 

 明治天皇が大塔宮護良親王(後醍醐天皇の一皇子)を祀られた鎌倉宮があるというのに。ここ湊にも一皇子宮がある。どちらが正しいのか、本当のところはわかりませんが、湊の人びとにとっては、いえ、石巻にとっても心の灯火となる大切な歴史ロマンがここにあると思います。たとえ幻想であったとしても私は信じます。湊の人ですから。(ニコニコ)

   御所入(御所のいり)や大門崎(だいもんざき)という地名も所縁ある地名だということです。 

 昭和の時代に一皇子前(いちおうじまえ)という地名から吉野町に変更されました。これも又、南朝物語に由縁のある地名となっています。 

 

 湊地区は津波で流された空地にポツポツと新築が増えています。あと50年は来ないだろう。あと100年は来ないだろうと見越して暮らしている人は多いと思います。

 「防災意識を大切に過ごしましょう」

と思います。

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  東日本大震災7年後の湊の様子や思いが伝わってきます。

 写真の湊町の様子は、あの頃がまるで今もあるように感じられます。(私は、石巻を離れているからなおさらそう感じられるのかもしれません。)

 それにしても、「一皇子宮」等のことは私にとっては初耳でした。大門崎 という地名についても訳等考えたこともありませんでした。そんないわれがあったとは、地名が示すものって深いですね。

 支倉常長の遣欧使節といい、石巻は意外に歴史が豊富なのかもしれませんね。

 以前、用事があって石巻の神社を訪ねた時、その墓地にある墓石には隠れキリシタンの印が刻まれているものがあることを聞きました。

 様々な歴史が息づいていたのですね...。

 

 


あれから7年...

2018年03月14日 | 日記

 先日、いつものように近所の大型スーパーマーケット内を歩いている時、「〇〇さんではないですか?」と声をかけられ声の方を見ると、しっかりとした意志を感じさせる落ち着いた表情の女性が目に入りました。

 一瞬誰なのか分からなかったので、

「どちらでお会いしたでしょうか?」と尋ねると

「大須小学校の○○です。やっぱり○○さんなのですね。」

という返事が返ってきました。

 

 東日本大震災直後に私が支援のため行っていた大須小学校の当時の先生でした。

 当時の大須小学校は、避難の方々が体育館にいっぱいで、自衛隊が小学校の玄関のアプローの広場に大きなビニールプールのようなものに水を供給している最中だったりしており、連日のように訪れる日本各地の支援の方々による炊き出し等、いろいろな方々でごったがえしていました。

 そんな中でも学校教育は始まっており、子どもたちは元気に学校生活を送っていました。

 職員室で挨拶をした時、初めてお会いしました。

 毎日児童たちとの日々の仕事をきちんとこなしていましたが、実は、彼女も大変な被災者だったのです。

 雄勝の海沿いにある自宅と商店は津波で全壊どころか土台とポールの上の看板をのこして跡形もなく消えてしまっていました。

 大震災当日、電気も電話も止まってしまった学校で家族の安否も不明のまま、避難者のお世話に当たったのでした。

 数日後に連絡がとれ、家族全員の無事を確認したものの、住む家もなくすぐ石巻にアパートを見つけたそうです。

 彼女自身は学校周辺の教員宿舎に泊まることも多かったようです。その他、同じく北上町の自宅が流されてしまったという若い独身女性の○○先生も教員宿舎に住むことになりました。急に教員宿舎が満員になってしまったと校長先生が笑いながら話していました。

 なにしろ、大須に来るためには、大川小学校で有名になってしまった大川地域の崩れた土手の道路や壊れた道路の雄勝、その他満潮時には冠水してしまうあちこちの道路を通らなければならなかったのですから無理もないことです。

 児童の保護者のご遺体が見つかったとのことで弔問に訪れる際には、

「これ、みな友達から送ってもらったものなんですよ。」

と言って喪服や黒い靴を指していました。

 

 そんな中での当時の彼女の気持ちはどんなだったことでしょう。 今思えば、今回こちらでお会いした時の表情に比べれば、力が抜けて途方にくれていたようにも感じられます。

 

そして、そんなある日、

「お願いがあるんですけど..。」

と声をかけられました。

 彼女は、今回想像もしないような悲惨な状況に見舞われ、ショックを受けていました。そして、今後お嬢さんたちの教育のことも考えて今度は絶対に地震や津波の被害にあわない場所に住居を設けたいとのことでした。 それで、仙台方面で地盤のしっかりとした団地等を紹介していただけないかとのことでした。

 仙台にも地震の断層は走っており、1978年6月12日におきた宮城県沖地震の際には随分大きな被害を被った地域があります。

 特に当時私が住んでいた所の近くの長町、緑ヶ丘団地は1階が壊れ、2階が1階の壁に斜めにひっかかっていたり、幹線道路のアスファルトの道路の真ん中に大きな亀裂が続いていたり、道路沿いの立派な石塀が見事に崩れ落ちていたり、団地の盛り土部分が崩れたりとかし、それはひどい有様を目の当たりにしました。

 そんなわけで仙台の地盤の固い土地と言われ、それらしい新興住宅のパンフレット等を渡したりしていました。

 そして、たまたま当時私が住んでいた住宅地はとても地盤が固く、県内の地震情報の際にものらなかったりするほど揺れの少ない所だったので、隣の振興住宅地も紹介したのでした。

 そして、それから5年以上も経っていました。

 突然、目の前に現れた彼女の話によると、私の住んでいる団地の隣の新興住宅地に無事新居を建て、勤務先も転勤し、新任地に通っているとのことでした。(初めの写真はその新興住宅地の一部です。彼女のお宅ではありません。)

 あの震災津波当時中学生だったお嬢さん。ちょうど卒業式の日に起こった災害でしたが全員無事避難をして難を逃れたのでした。

 そのお嬢さんも、現在の自宅から元気に宮城教育大学に通学しているとのことでした。

 あの当時、仮住まいのアパートで様々な不便さや困難さもあったと思いますが、そこを潜り抜けて、母親と同じ道を志して学んでいるのでしょうか。

 もし、彼女が将来教壇にたつことになったら防災教育における彼女の話はどんなにか説得力があることでしょう!

 

 震災当時、小学生や中学生だった子どもたちが現在青年となり、それぞれ様々な思いを胸に自分の道を歩み始めています。自分が助けてもらったように人を助ける仕事に就きたいと等、自分のことだけではなく他の人たちのことを考える広い視野を持ち活動する様子が多くみられます。

 

 頼もしい思いがします。

 

 まだまだ、被災地には課題があります。

 先日は、石巻の「長寿味噌」の会社が奥松島に新たに再開し、順調に回復していたところ、次第に各地からの支援が少なくなり、たて直すために経営者が変わったとのニュースを聞きました。

 様々な場で支援の期限が終わり返済等が重くのしかかっているという話も聞きます。

 様々な状況がありますが、そんな中、小さな嬉しいことにも目を向けてその芽が少しでも大きく育てと祈る気持ちです。

 今年の彼女の年賀状には、

「今の場所は住み心地が良いです。」

と書いてありました。

 海の力強さや真っ青な海とは違う景色だけど、家族で安心して過ごすことができてなによりです。

 

 でも、その心は、きっともと暮らした海辺の地域の人々への応援の気持ちが息づいていることと思います。

 

  当時の雄勝の海辺の様子(写真上)

 今年も春がきました。自然は厳しいけれど美しいですね。(写真下)

 

 

 


鳴子こけし こけし雛

2018年03月01日 | 紹介

 間もなくお雛祭りですね。

 上のお雛様は知人のお宅のお部屋に飾られていたものです。

 このようなこけしのお雛様があることを初めて知りました。それにしてもなんともゆかしくも雅な華やかさのあふれる上品なお雛様でしょう!

 それもそのはず、このこけし雛は、各コンクールで70回以上の受賞を誇る伝統工芸士「柿澤是隆」氏の夫人で弟子でもある柿澤真理子氏が創作したものなのです。彼女もまた各コンクールで多数の受賞歴があります。

 知人の話によると、真理子夫人は出身は宮城県ではないのですが、こけし工人の是隆氏がその地を訪れた際に出会い結婚にいたったとのことです。そして是隆氏の弟子となりこけし工人としても腕を磨いたのでした。

 知人はその情熱的でロマンチックななエピソードとともに、このお雛様をとても気に入られてお嬢様と同居はしていませんが、季節がくると取り出して愛でているとのことです。

 是隆氏は28年に他界し、現在は、奥様の真理子氏と息子さんの是伸氏が工人として制作しておられるようです。お店の名前は「柿澤こけし店」です。

                                                        http://sky.geocities.jp/kakizawa_narugo/

 知人のお宅にはこの他に玄関にもお雛様が飾られていました。以前紹介した仙台の「堤焼」のお雛様です。(下の写真)

 

 壁にもありますね。

 お部屋の中には、初めのこけし雛の隣にまたまたお雛様たちが飾られていました。(下左の写真)そしてお手洗いにも。(下右の写真)

 

 日本の情緒をそこここに感じて心が温まるようなひと時でした。