先日、いつものように近所の大型スーパーマーケット内を歩いている時、「〇〇さんではないですか?」と声をかけられ声の方を見ると、しっかりとした意志を感じさせる落ち着いた表情の女性が目に入りました。
一瞬誰なのか分からなかったので、
「どちらでお会いしたでしょうか?」と尋ねると
「大須小学校の○○です。やっぱり○○さんなのですね。」
という返事が返ってきました。
東日本大震災直後に私が支援のため行っていた大須小学校の当時の先生でした。
当時の大須小学校は、避難の方々が体育館にいっぱいで、自衛隊が小学校の玄関のアプローの広場に大きなビニールプールのようなものに水を供給している最中だったりしており、連日のように訪れる日本各地の支援の方々による炊き出し等、いろいろな方々でごったがえしていました。
そんな中でも学校教育は始まっており、子どもたちは元気に学校生活を送っていました。
職員室で挨拶をした時、初めてお会いしました。
毎日児童たちとの日々の仕事をきちんとこなしていましたが、実は、彼女も大変な被災者だったのです。
雄勝の海沿いにある自宅と商店は津波で全壊どころか土台とポールの上の看板をのこして跡形もなく消えてしまっていました。
大震災当日、電気も電話も止まってしまった学校で家族の安否も不明のまま、避難者のお世話に当たったのでした。
数日後に連絡がとれ、家族全員の無事を確認したものの、住む家もなくすぐ石巻にアパートを見つけたそうです。
彼女自身は学校周辺の教員宿舎に泊まることも多かったようです。その他、同じく北上町の自宅が流されてしまったという若い独身女性の○○先生も教員宿舎に住むことになりました。急に教員宿舎が満員になってしまったと校長先生が笑いながら話していました。
なにしろ、大須に来るためには、大川小学校で有名になってしまった大川地域の崩れた土手の道路や壊れた道路の雄勝、その他満潮時には冠水してしまうあちこちの道路を通らなければならなかったのですから無理もないことです。
児童の保護者のご遺体が見つかったとのことで弔問に訪れる際には、
「これ、みな友達から送ってもらったものなんですよ。」
と言って喪服や黒い靴を指していました。
そんな中での当時の彼女の気持ちはどんなだったことでしょう。 今思えば、今回こちらでお会いした時の表情に比べれば、力が抜けて途方にくれていたようにも感じられます。
そして、そんなある日、
「お願いがあるんですけど..。」
と声をかけられました。
彼女は、今回想像もしないような悲惨な状況に見舞われ、ショックを受けていました。そして、今後お嬢さんたちの教育のことも考えて今度は絶対に地震や津波の被害にあわない場所に住居を設けたいとのことでした。 それで、仙台方面で地盤のしっかりとした団地等を紹介していただけないかとのことでした。
仙台にも地震の断層は走っており、1978年6月12日におきた宮城県沖地震の際には随分大きな被害を被った地域があります。
特に当時私が住んでいた所の近くの長町、緑ヶ丘団地は1階が壊れ、2階が1階の壁に斜めにひっかかっていたり、幹線道路のアスファルトの道路の真ん中に大きな亀裂が続いていたり、道路沿いの立派な石塀が見事に崩れ落ちていたり、団地の盛り土部分が崩れたりとかし、それはひどい有様を目の当たりにしました。
そんなわけで仙台の地盤の固い土地と言われ、それらしい新興住宅のパンフレット等を渡したりしていました。
そして、たまたま当時私が住んでいた住宅地はとても地盤が固く、県内の地震情報の際にものらなかったりするほど揺れの少ない所だったので、隣の振興住宅地も紹介したのでした。
そして、それから5年以上も経っていました。
突然、目の前に現れた彼女の話によると、私の住んでいる団地の隣の新興住宅地に無事新居を建て、勤務先も転勤し、新任地に通っているとのことでした。(初めの写真はその新興住宅地の一部です。彼女のお宅ではありません。)
あの震災津波当時中学生だったお嬢さん。ちょうど卒業式の日に起こった災害でしたが全員無事避難をして難を逃れたのでした。
そのお嬢さんも、現在の自宅から元気に宮城教育大学に通学しているとのことでした。
あの当時、仮住まいのアパートで様々な不便さや困難さもあったと思いますが、そこを潜り抜けて、母親と同じ道を志して学んでいるのでしょうか。
もし、彼女が将来教壇にたつことになったら防災教育における彼女の話はどんなにか説得力があることでしょう!
震災当時、小学生や中学生だった子どもたちが現在青年となり、それぞれ様々な思いを胸に自分の道を歩み始めています。自分が助けてもらったように人を助ける仕事に就きたいと等、自分のことだけではなく他の人たちのことを考える広い視野を持ち活動する様子が多くみられます。
頼もしい思いがします。
まだまだ、被災地には課題があります。
先日は、石巻の「長寿味噌」の会社が奥松島に新たに再開し、順調に回復していたところ、次第に各地からの支援が少なくなり、たて直すために経営者が変わったとのニュースを聞きました。
様々な場で支援の期限が終わり返済等が重くのしかかっているという話も聞きます。
様々な状況がありますが、そんな中、小さな嬉しいことにも目を向けてその芽が少しでも大きく育てと祈る気持ちです。
今年の彼女の年賀状には、
「今の場所は住み心地が良いです。」
と書いてありました。
海の力強さや真っ青な海とは違う景色だけど、家族で安心して過ごすことができてなによりです。
でも、その心は、きっともと暮らした海辺の地域の人々への応援の気持ちが息づいていることと思います。
当時の雄勝の海辺の様子(写真上)
今年も春がきました。自然は厳しいけれど美しいですね。(写真下)
なんといっても時は動いているのですから、前に進んでいるのですよね。子どもたちはどんどん新しい道を歩いていき、大人も普通の生活を淡々と歩んでいる時期。
高砂長寿味噌も生協で買っていたんだけど……。はやばやと東松島に工場建てたのに、どうしてかねえ。
「高砂長寿味噌」について、住吉の知人から聞いたエピソードがあります。
なんでも、戦争中戦地に食料を届ける際に大分日数がかかり着いた時に痛んでなかったのがこの味噌だったとのこと
そんな優れた石巻が誇るものなのですから何とかアピールしたいものですね