石巻白梅ししの会便り

石巻のためにできることを一緒にしようね!!

東日本大震災津波体験3 

2015年03月10日 | 活動

 

                      

 

 明日で東日本大震災から4年。

今日の仙台ではあの日の夜のように季節外れの雪が降り出しています。

あの信じられない出来事に遭遇してしまった私達、とてつもない体験をしてしまった人々..。

あの後、どんな思いで日々をすごしてこられたでしょうか?

 今日は、その中の一人「うめもどきさん」の震災体験を紹介します。(この原稿は昨年7月にいただいたものです。原稿を書き始めたのは2013年のことです。)

 

                                      ………………………………………・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 東日本大震災津波経験を経て    

                                                                                  H.14.7月

  

 あの日地震が起きた時、今までに経験したことのない激しい揺れに驚いていると、近くの市会議員の方が何度も「石巻工業高に避難してくだあーい。」と知らせまわっている声に気付き、工業高校の方に急いだ。

 しかし、高校に着く前に校舎に水が流れてきているのが見えた。

「ああ、ここはダメだ。」と思い家に戻った。今度は警察署に避難するようにという指示で山のふもとにある警察署に避難することになった。雪が降っていた。私は、とっさに傘を持って家を出た。車には毛布を用意したが。

 道路沿いにある山下の警察署に避難をした。人がどんどん増えここでしばらく過ごしていたが、夕方になって道路向かいにある「ウジエスーパー」に水が迫ってきており、ここも危ないということで外に出ないようにと伝えられた。

 次の日の朝、もっと上にある山下小学校に行くことになった。 

 山下小学校の体育館に入った。初めはストーブのそばにいたが、だんだん人が増えてきて濡れている人をストーブのそばに入れたりしている内に、さらにどんどん避難してきた人達で混雑してきた。 

 夜になる頃には、人でいっぱいになり、身体を横にするスペースもなくなり、私は椅子に腰かけたまま夜を明かすしかなくなった。その夜はとても寒く冷え込んだ。ほとんど眠らず座ったまま寒さに耐えて過ごした。後から考えると毛布を持ってくれば良かったと思った。用意していたのに、まさかもどれないとは思わず...。 

 後で聞いた話によると、その夜、妊婦さんがいて彼女を搬送しようとヘリコプターが来ていて、何度も何度も着陸を試みていたが、天候のせいか校庭が狭いせいか、なかなか乗せることができずにいたとのことだった。みな、何とかならないものかと思いながらも、どうすることもできずに見ているしかなかった….。ということだった。 

 そうしている内に夜が明けた。避難してから何一つ口にしておらず空腹を感じていたところ、近くの「ウジエスーパー」で何品かずつ販売するということを聞いたので、何か食べるものを買おうと考え体育館を出た。(津波はスーパーの手前で止まっていた。) 

 しかし、前日昼に避難して以来飲まず食わずで一睡もしない上に、寒さの中で一晩すごしたせいか、坂道を下っている途中で具合が悪くなり、ふらふらしてきたので近くの建物に入った。するとそこは「斉藤病院」だった。看護婦さんが来て診てくれ衰弱しているということで点滴をしていただいた。そこで休ませてもらえないかと頼んだが、できないということだったのでまた外に出た。 

 自宅に行ってみようと思ったが、水が「ウジエスーパー」の手前まできており、歩こうと思っても膝の上まで水が上がっていたためその日は諦めた。

 翌日、また行ってみると昨日よりは水が引いていて膝下になっていた。弟が自宅に行ってみると、奇跡的に床すれすれで水は止まっていて床下浸水で済んでおり、部屋のものは濡れていなかったとのこと。石油ストーブも使えるし、米も無事でなんとか暮らせそうだったとのことなので、家に戻ることにした。 

 万が一また津波が来ないとも限らないが、あの小学校の避難所にいたら身体を壊しそうだったのでそうすることに決めた。ビニールのごみ袋を靴の上から履いて自宅まで歩いて行った。  

 周りの家は床上浸水している家が多かったが、自宅が床上浸水を免れていたのが幸いだった。

 少ししてから、勤めていた職場から連絡があり、湊にある職場に自転車で向かった。湊の辺りに着くと全ての家は傾き、どこもかしこも破壊されていた。その光景に驚き「えー!」とショックを受けた。

 その周辺に住んでいる知人に後日聞いたところによると、自分の親戚?の家に行きたかったがなかなか水が引かないので、少し引いた時、「今しかない!」と思い、水の中を移動して親戚?の家に向かい、時には胸のあたりまで水に浸かりながら歩いたとのことだった。移動することが本当に命がけのことだったのだ。   

 あれから3年半以上経ったけど、私はまだ海に行くことができない。

 

小さい時から何度となく遊びに行った海。「海はひろいな、大きいなー」とか「松原とおくー」と歌いながら灯台の方までしょっちゅう行っていたのに。今はまだテトラポットのある辺りまで行けない。

 

  でも、この震災を経て思うことは、人間は自然と共に生きてきたのだということ。このようなことを何度となく経験してきたのだということ。打ちのめされても、いつかまた元の生活を取り戻し今に至ってきているのだということ。自然は破壊と創造を繰り返してきた。「人は強い。」と思う。「今、私たちは打ちのめされているけれど、私たちは日々の生活を続けながら、いつかまた豊かな営みを取り戻すだろう。創造を続けていくだろう。

 「私たちは負けない。今まで先人が自然と共に生きてきたように。」と思う。

 「人間は強い。素晴らしい。すごいな。この破壊の中にあって多くの人が手を取りあって、みんなで助け合っている。」私たちはこの震災の後、「絆」を取り戻している。

 そう思って前を向いて歩いている。

………………………………………・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 起きてしまったこと、遭遇してしまったこと、その事実をどう受け入れどう立ち向かっていくかということが問われた出来事でした。

 実際に大きな被害を被らなかった人々は、その出来事を忘れるてしまうことも可能で、最近は震災の記憶の風化が進んでいるのでは..とも言われていました。

 でも、「天災は忘れた頃にやってくる」の諺があるように、忘れることによって被害が大きくなるのかもしれません。

 「忘れずに伝えること」を続けたいものです。

 

 余談ですが、東日本大 震災が起こる前に、テレビの番組で、鎌倉の大仏のことを取り上げていました。それによると、鎌倉の大仏様は、元々は建物の中にあったと思われること。それが津波によって建物が破壊され大仏様だけが残ったのではないかというものでした。そして、そこまで津波が押し寄せるということは当時の我々には常識的には思いもよらないことだが、そのように考えられるというものでした。

 その時は何気なく聞いていたことでしたが、3.11の体験により、それが意外な発想ではなかったことに気付かせられました。

 そして、先人達の残したものや。声を聴くことの大切さを痛感させられました。

 うめもどきさん、ありがとうございました。

 

 


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
4回目の3・11 (どんぐり)
2015-03-14 00:07:10
4年目の3.11、私は自宅でいろいろなテレビの報道を見て過ごしました。意外に石巻の情報が少なく、駅ができた女川と、かさ上げが進んでいる南三陸町からの中継が多かったですね。テレビで絵になる場面が石巻にはなかったからでしょう。それだけ復興が進んでいないというわけですね。一番深刻なのは避難している福島の方々の現状でしょうが……。
「うめもどき」さん、体験を寄せてくださってありがとうございます。やはり何もしなくてもしても、一日一日過ぎていくものです。そんなら前を向いて、ゆっくりでも進むしかないですね。
市立病院も造られているようだし、電車の線路もだいぶできているようだし。少しずつ新しい石巻になってきていますね。同じように町と一緒に人も再生していかないと……。
また次の災害にも備えなければいけないというのが、ありんこのように小さい人間界の宿命ですね。
コメントありがとう! (まつぼっくり)
2015-04-04 14:14:37
 最近は鉄道等の復活のニュースが続いています多くの方々の支援により、少しづつ平和な日常を取り戻しつつあります。インフラの復興は目に見える形で分かりますが、現在のこちらの状況は、今度は心の復興が課題のようにも思われます。家を流されなかった方も、「大きな被害を被った方たちを思いやり楽しむことを少し控えていたけど、今はやっと少しづつ楽しんでも良いのでは...という気持ちになってきた。」という話も聞きました心の復興のため何かができると良いと思いますが、あまり構えないで一緒に何かを楽しむことも良いことなのではないかと思ったりするこの頃です

コメントを投稿