Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「グエルチーノ展」(東京国立博物館)

2015年03月25日 12時09分01秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
         

 グエルチーノという画家の名前は初めて知った。バロック絵画という歴史的な括りについてはイタリアのカラヴァッジョ、フランドルのルーベンス、ブリューゲル、オランダのレンブラント、フェルメール、スペインのベラスケス、フランスのラ・トゥールなどは作品をいくつも見ている。教科書というか絵画の解説書に名が出ていたことも記憶にない。今回展示されている絵も見た記憶はない。
 私はバロックと云うと若い頃はバロック音楽しか思い浮かばなくて、音楽のイメージと絵画のイメージが同じ像をなかなか結ばないでいた。バロック音楽はバッハのように「華麗でかつ荘厳」であることと「敬虔な祈り」とが共存するようなイメージが強い。イメージとして一括りすることが難しいと感じている。
 バロック絵画も幾人かの作品を見るたびにルーベンスやレンブラントのイメージと、ラ・トゥールやフェルメールなどを一括りとしてしまうのが難しいように思えてきた。 最近は、音楽と絵画がともにこのように相反するような傾向を一括りにしてしまうところが「バロック」なのか、と理解するようにしている。要するに今でも「バロック」という言葉の指し示す傾向が理解できていないのだと思う。
 ヨーロッパでは王権の拡大と宗教改革が絡んで動乱と陰謀の渦巻く世界であり、南米アメリカなどの新世界の略奪と市民階級の勃興の時代でもある。これが多分バロックという時代の社会的な背景なのだろう。

 チラシによればグエルチーノ(1591-1666)はイタリア・バロック美術を代表する画家で、アカデミックな画法の基礎を築いたとされている。
 時代的には日本では豊臣政権から徳川政権に移行した時期で、日本の朝鮮半島蹂躙が始まった時期から、島原の乱を経て鎖国体制が確立する時期に相当する。伊達家の支倉常長がローマを訪れた1619年頃にはまだグエルチーノはローマに赴いて画家ととしての地位を確立はしていない。
 グエルチーノのローマ滞在(1621-23)以前はドラマチックな明暗と色彩でキリスト教絵画を描いているとのこと。ローマ滞在以後は落ち着きのある構図と理想的で明快な形態を持つようになるとのことである。
 確かに描かれた人物が全体的に明確で浮かび上がるように強調されている。登場人物は多くなく、描く場面が明確にどのような場面なのかわかりやすくできている。ある意味では教科書的な場面設定である。人物も人物の着ている服も、持ち物も背景も教義を逸脱していることはないのであろう。
 背景の空に多用されている青、着物の質感と配色、全体の構図、多分どれをとっても隙の無いがっちりした構図だと感じた。たぶん教会という権威にとってはとてもありがたい存在の画家だったように思う。
 どの絵も大きな絵で、教会の壁面・裁断を飾るにふさわしい迫力は感じた。そしてチラシの一面をある「聖母被昇天」(1622)を見た時はエル・グレコを思い浮かべて比較してしまった。

 しかし私は大きさと云い、隙の無い構図や出来上がりに圧倒されつつも何か物足りないものを感じた。あまりに隙が無く、決まりからのズレや画家らしい主張が見当たらない。たぶん技法上の個性はあるのだろうが、構図上の冒険や教会権威との緊張感が今ひとつ私には伝わってこなかった。
 ルネサンス期以降、画家の個性や自己主張が時の権威と微妙にズレを生じ、そこに緊張感が漂ってくる。その緊張感が現在の私たちにどことなく伝わってくる。たとえばミケランジェロの天地創造など、神の手の先の指とアダムの指先が触れあっていない微妙な距離というのが見る人を強く引き付ける。おそらくその指と指との微妙な距離の間合いというのは、ミケランジェロと教皇との間の信頼と緊張の関係から生まれたものであることがさまざまなエピソードから感じることが出来る。
 素人の生意気であるのは重々承知をしているつもりだが、40点もの大作を見た割には、そんな画家の個性が何処となく感じられない。これは展示の仕方、あるいは素人の私たちに対する解説のあり方の問題、私の知識の欠如ではなく、画家のあり方なのだろうと解釈した。忘れられた時期があるというのはそのことに原因がありそうだ。不勉強なので詳しくはわからないがそんな印象を絵から受け取った。

 人々が教会という権威の中に安らぎと敬虔な祈りの場を求めたとすれば、このように教会を装飾し、布教のための絵画としての存在は大きかったと思われる。しかし私のようなものにはそこには残念ながらとどまることがどうしても出来ない。わがままな人間のわがままな感想である。

「インドの仏」展(東京国立博物館) その3

2015年03月25日 07時41分55秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 最後の方で展示されているのは、南伝仏教の地ミャンマーの仏像。インドから西方に伝来したガンダーラの仏像、ガンジス川流域の仏像とはまったく異質な印象である。
 時代が17世紀以降に下るが、なぜかホッとするものがある。インドの仏像が当初は静かな瞑想とはいえ対する相手を硬質な言葉と表情で説き伏せるエネルギーを感ずる。あるいは大乗仏教・密教となると表情が躍動的で憤怒の相も現われ、ある種猥雑で雑踏の中の人間の博物館のような表情である。これらとも大きく違っている。
 おなじ静かな瞑想であっても柔らかな柔軟さを感じる。ひょっとしたら円空仏の微笑みともどこかで通じるような笑みである。人間の存在そのものに対して肯定的な印象を受ける。



 特に82番の19世紀のミャンマーの仏像に親近感を抱いた。



 84番は17世紀。前作より2世紀前の作品である。前作より表情は硬いが、口の端の微笑みは人びとに寄り添うような微笑みに見えないだろうか。木製だからそのように感ずるのだろうか。



 85番の作品は18世紀にミャンマーに併合された地域の弥勒菩薩像である。きれは少し厳しい表情である。つりあがった眼が意志の強さと不退転な芯の強さを感じた。真鍮製である。これまでが石像だから金属に特有の肌合いから怜悧な感じがするのかもしれない。表情の違いは材質なのか、地域差なのか、まだ私には判断できない。

「インドの仏」展(東京国立博物館) その2

2015年03月24日 21時38分01秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 35番目の展示は、10世紀パーラ朝の頃ガンジス川下流のナーランダーのもの。般若波羅蜜多菩薩というのは私にはなじみがないのだが、大乗仏教の基本となる般若経の本尊で知恵を象徴する、と解説にある。密教の発展に伴い観音菩薩が変化した准胝(じゅんてい)菩薩かもしれない、とのこと。どちらにしろなじみがない。
 腕が4本の憤怒の顔をしているような女性の菩薩であるようだ。
 女性の菩薩というのが私にはとても奇異であるが、観音菩薩に女性性を見たりすることもあり、インドという地で女性が菩薩という人を救うものとして信仰されていたことに何故かホッとする気持ちとなった。



 展示番号52番目のターラー菩薩立像も10世紀パーラ朝やはりガンジス川下流域のもの。やはり女性の姿をしている。
 「密教の展開」のコーナーで展示されている。ターラー菩薩というのもなじみがないが、観音菩薩の瞳(ターラー)から生まれ、眉の皺から生まれたブリクティーとともに観音の脇侍として成立した菩薩という。
 ヒンドゥー教の影響を受けた密教で、多数の仏、菩薩その他が生じ、同時に世俗的にもなり、そして次第に多頭・多臂・獣面などの異様・異形の仏像が多数つくられるようになる。
 仏教というものが大乗仏教からさらに密教というものに大きく変容していく姿がこれらの仏像に反映していると私には思える。

   

 展示番号の55の摩利支天立像もそのひとつ。やはりパーラ朝の11世紀のビハール州のもの。摩利支天というのは、マーリーチーといい、陽炎が神格化した女尊とのこと。太陽の前に存在し、姿を見ることができないことをもって敵の前から姿を隠せる力があるとされ武人の信仰を集めたという。多面・多臂の像として作られるという。
 この像も4面8臂で、他の3面は人の顔だが、向かって左の顔が猪であり、後ろにも顔(人面)がある。背面を見せて展示してある。背面にある人面は見えた。しかし前から見て透けて見える部分だけで全体の背面は見ることはできなかった。目についたのは玄武岩を削った鑿の跡。日本の木像には鉈目があり、それがまた紋様として意味があるようなのだが、ここにも同じように鑿の跡がある。何かの意味があるのか、紋様なのか、あるいは背面は装飾する必要が無かっただけなのかわからない。ただ背面を向いた面があり、正面からも背面がのぞけるということは何らかの意味があると考えた方が良さそうである。解説ではそこには触れていない。



 56番目の展示の仏頂尊勝坐像で55と同じ時期のもの。これも女性像である。3面6臂でこれも背面が透けて見える。背面に顔はないが、55と同じように鑿の跡が整然とある。頭頂の仏は阿閦仏という。阿閦仏を表現したものが多く、阿弥陀が西方浄土なら阿閦は東方の浄土ということになるが、インドと違い日本ではあまり信仰されていない。
 ヒンドゥーの影響を受けた密教の世界は私にはとても多様で異形の世界に見える。魅力もある反面、その世界に入り込むにはなかなか勇気がいりそうである。

「インドの仏」展(東京国立博物館) その1

2015年03月24日 15時41分50秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 仏像と云うと私たちの住むこの国に広がっている仏像の世界だけしか知らない。それでも実に多様な仏像を私たちは目にしている。中国・朝鮮半島経由でもたらされた7世紀の頃の仏像から江戸時代初期まで様々な仏教の新しい教義とともに新しい仏具・仏像がもたらされたと思う。いづれも受容にあたって私たちの歴史の中で培われた日本的な変容を経てきている。また日本独自の教義や発展や、新規の解釈がもたらされてもいる。
 仏教の経典を昔、岩波文庫でいくつも出されている中村元氏の訳で読んだことがある。原始仏典を見る限る、そして私のわかったつもりになった読解力では、日本の仏教がインドで生まれた当時の仏教と随分と違うものらしいと感じた。日本の仏教とはまったく違うものとして解釈しないとこれはいけないと感じた。
 さて、今回の展示はインドで仏像が作られるようになってからのものが展示されているが、仏像の発祥の地インダス川流域のクシャーン朝の頃のガンダーラ地方の2世紀頃の仏像から、仏教の発祥の地ガンジス川中下流域ビハール州のパーラ朝の仏像、密教の成立を受けたさまざまな仏像、ミャンマーの仏像などが展示されている。
 興味を惹かれた仏像をいくつか取り上げてみた。



 展示番号11番の仏坐像は2世紀クシャーン朝の頃のもの。ギリシャ・ローマの彫刻を思わせる顔立ちは有名だが、ウェーブのかかった髪は日本に伝わっていないと思う。衣紋はほとんどそのまま日本に伝えらたれような感じもする。すぐにでも哲学問答を始めそうな面立ちに見える。



 19番も同じ頃クシャーン朝の作品だが、北部中部インドの地マトゥラーで発見されたもの。11のものより若々しい顔立ちでやせ気味で精悍な顔つきである。私たちの見慣れた仏像の表情とは大きく違う。今にも語りだしそうでもある一方、11番よりも様式化されている感じもする。

   

 30番も同じくクシャーン朝時代のやはりガンダーラ地方の弥勒菩薩坐像。31番も同じだが立像。31番は端正とはいい難い短い体躯で足も腕も太く、全体としてずんぐりしている。19番や30番とは違った意味で精悍な顔つきである。しかし今にも歩き出しそうな気配に満ちている。私にはとても親近感のわく像である。

「名画を見る眼」(高階秀彌)

2015年03月22日 23時20分52秒 | 読書
   

 本日読み終わったのは「名画を見る眼」(高階秀彌、岩波新書)。昔のように電車の中で一定期間読むという習慣が無くなって、なかなか読書タイムが取れない。時間があっても眼が疲れ易くなってすぐに目を閉じてしまうようになったことも読書が続かない要因となっている。特に揺れる電車の中や、外の太陽の光のもとではいっそう厳しい。読みたいという熱意と気力が衰えていることも大きな要因であることは否定できないが。
 この書も結構時間がかかった。しかし多くの美術の啓蒙書の中で書かれていることの原点のようなことが書かれている。いくつかはすでに聞いたり、教わったことがあり、その出展や根拠、ネタはこの書なのか、と合点した個所がいくつもある。
 それほどまでにこの書の影響は大きかったのだろう。私ももっと以前に眼をとおせばよかったと反省している。
 全15画家の15作品が取り上げられている。西洋の油彩画の創始者でもある15世紀前半のファン・アイクの作品「アルノルフィニ夫妻の肖像」(1434)からはじまり、19世紀後半の近代絵画の革新者エドゥワール・マネの「オランピア」(1863)までを取り上げている。
 本日は電車の中で最後の3作品(ターナー「国会議事堂の火災」(1835)、クールベ「アトリエ」(1855)、マネ「オランピア」(1863))を読んだ。
 ターナーについて「印象派の先駆者であり、近代への扉を開いた重要な芸術家であるが、他面、ロマン派的心情を多分に備えた伝統主義者でもあった」「印象派の先駆と云われるのは、風景を見事な色彩によって抒情的に描き出したからであるが、色彩そのものから言えば、マネやピサロの四季サイトは本質的に違っている。印象派のように科学的な光学理論に基づいたものではなく、特異な映像世界から生まれたものであるからだ」と評している。
 クールベについては「市民社会を告発する社会主義的作品のために19世紀における最初の反逆者のひとりに数えられているが、表現技法上から言えば、まだまだ伝統的であって、反逆者でも革新者でもない。従来の表現をすっかり変えてしまう近代絵画の革命は、マネによって幕を開ける。クールベは思想的には急進派であったが、画家としてはルネサンス以来の絵画の表現技法を集大成してそれを徹底的に応用した伝統派であった」としている。
 マネについて「19世紀の絵画を近代絵画の方向に大きく推し進めた革新者であった。自ら革命家であろうとしたクールベよりも、市民社会のなかで自己の地位を保とうとしたマネの方が結果としていっそう革命的であったのは皮肉な話である。マネ以降近代絵画が三次元的表現の否定と平面性の強調という方向に進む」と記載してある。
 ターナーとクールベとマネの評として、とても魅力的な指摘だと感じた。この指摘を反芻しながら絵画の歴史を辿ってみたいと思った。
 「続 名画を見る眼」を引き続き読むが、この本はモネの「パラソルをさす女」(1886)からモンドリアン「ブロードウェイ・ブギウギ」(1943)までの14人の画家の14作品を取り上げている。

グエルチーノ展&インドの仏展、その外

2015年03月22日 21時07分10秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 本日はとても欲張った1日となった。まずはいつものとおり午前中はボランティアでの事務所当番、とはいえ20か所ほど地域を巡った。昼食後に上野東京ラインに初めて乗車して上野駅までおもむき、国立西洋美術館で「グエルチーノ」展、東京国立博物館の表慶館で「インドの仏」展を見てきた。
 電車の中では「名画を見る眼」(高階秀彌著)を読了。夕食直前に帰宅して昨日原稿が出来上がった房総半島の散策の報告書の印刷を始めたらインク切れ。あわてて夕食後に家電量販店でインクを購入してきた。慌ただしい時に限っていろいろと支障が生ずる。
 グエルチーノ展とインドの仏展の感想はしばらく頭の整理をしてからでないと文章はまとまらない。来週中にでもアップしたい。

 上野東京ラインは春休み前だが、開通後の二回目の終末ということで、小学生・中学生とその家族、大人の鉄道マニアでホームは混んでいた。私も先頭車両に乗ったものの景色が見える最前列はこども達に譲ってボーっと外を眺めていた。上野駅では5番線に到着、帰途は7番線と公園口には近いので利用するには便利であった。

   

 上野公園の東京国立博物館の前のあたりでは寒緋桜が見事な赤い花を見せてくれていた。



 グエルチーノ展は思ったよりは人はいたが、日曜の割にゆったり見ることが出来た。バロック絵画というジャンルをじっくりと見たのは今回が初めて。名前は初めて聞く画家であったが、なかなか見ごたえのある絵である。
 チェント市立美術館の震災復興事業ということもあり、関心は高いようだ。
 随分と悩んだが、結局2400円の図録は購入しなかった。



 インドの仏展は思った以上に人が大勢であった。最初の仏教誕生から2世紀頃に初期の仏像が作られるまでかなりの時間が経過しているのだが、私はこの初期の仏像や南伝の仏教の仏像には興味が以前からあった。体系的に見ることのできる好い機会だったと思う。彫の深い顔、若い精悍な顔‥、日本に伝わった仏像と違う意味で親しみがある表情である。あの表情を念頭に仏典を紐解くとまた違った世界が現れるはずだといつも思っている。財布には厳しかったが思い切って2500円の図録を購入してみた。これらかじっくりと見てみたい。

横浜駅で友人と‥

2015年03月21日 22時53分52秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は12時から14時半までお仕事。15時から友人となかよく横浜駅の傍で懇談というよりは焼酎を飲んだ。2人で焼酎を1本。私のつまみは例によって野菜から。友人は烏賊から。時間的には随分長い間店にいたようだ。自宅に戻ったのは19時半。
 少し飲んだ量が多かったかな、と反省。明日は休肝日としよう。

 帰宅してから2月末の房総半島のバス旅行の参加者に配布する報告文を作成。明日にでも他の方に点検を頼んでから50部印刷することにした。

 明日も朝から出かけなくてはいけないようなので、本日は早寝。

3.21世界平和アピール七人委員会アピール

2015年03月21日 20時32分41秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 世界平和アピール七人委員会(武者小路公秀 土山秀夫 大石芳野 小沼通二 池内了 池辺晋一郎 高村薫)が本日付で以下のアピールを公表した。
 多くの方に目をとおしてもらいたいと考えるので、再掲してみる。多くの意見を寄せてもらいたいと思っている。

★「イスラム国」と有志連合の武力対決の中で日本が目指すべき道

 イラク・シリア領内に支配地域を持つ「イスラム国」(IS、ISIS, ISIL)と、米国を中心にした有志連合との武力対決が深まっている。2014年6月の「イスラム国」樹立宣言は、イラク第2の都市モスルの制圧に続くものだった。これに対して米国は8月からイラク領内の「イスラム国」支配地域を空爆、9月には「イスラム国」の壊滅を目指す有志連合を組織し、シリア領内の支配地域に空爆を拡大し、今や地上での攻勢も開始させている。有志連合メンバーは、直接の戦闘には参加しない日本なども含む約60か国・地域に達している。
 一方 「イスラム国」による拘束者の殺害が相次いでいる。私たちは「イスラム国」による拘束者の殺害とその場面の映像公開をとうてい受け入れることはできない。それとともに私たちは 有志連合による空爆拡大は、一般市民の安全を犠牲にし、破壊するものであって、国際人道法に反しているので支持できない。しかも空爆では相手を壊滅させることはできず、力によって拠点都市の奪還を目指す計画は、市民の安全を根本的に破壊し、社会の不安定性と危険性を拡散させるものだと考える。  振り返ってみれば、「イスラム国」も有志連合も、自らが是とする秩序を力によって他に押し広げようとしており、対立の裏で、相手に武器補給がおこなわれるといった醜い行動も見え始めている。さらに、アルカイダの原点は、アフガニスタンの親ソ連政府に対してパキスタンと米国が生み出したものであったし、「イスラム国」の原点は、シリアの現政権に反対する米欧が育成してきた勢力と対イラク戦争から出現したものだったことも忘れてはいけない。

 今年1月20日には、「イスラム国」によって日本人2人の拘束と身代金要求、殺害予告が公開されたが、これは、日本が軍事協力を強めてきたイスラエルとその周辺国を訪問中の安倍首相が、カイロで「ISILがもたらす脅威を少しでも食い止めるため・・・ISIL と闘う周辺各国に」人道支援を行うとスピーチを行った3日後のことだった。対立する一方のみの支援は、他方から見れば敵対行為であり、人道的支援ではない。首相は、中東諸国と激しく対立し、ガザで非人道的破壊をくりかえしているイスラエルの国旗を背にして「テロには屈しない」と繰り返したが、2人を救出するために何をしたのだろうか。日本政府は2人が拘束されていることを前年から把握していたのだし、2004年以来人質を次々に拘束・殺害して映像を公開してきたアルカイダが、2004年に拘束中の日本人の殺害予告と共にイラクからの自衛隊撤退を要求した時に、小泉首相が要求を拒否した後で、殺害される動画が公開されたことを政府が忘れていたはずはない。
 首相は第2の人質殺害の報を受けて2月1日に開催した関係閣僚会議において「テロリストたちを決して許さない。その罪を償わせるために国際社会と連携していく」との決意を表明したが、具体的に何をしたいのかが全く見えない。
 今月末に開催を予定されている政府対応についての検証委員会と有識者の合同会議が、あいまいさなく徹底的に検証を進め、国民に理解できる形で結果を発表することを期待する。

 この一連の事態から学ぶべき最大の課題は、今後このような不幸な事件がおこらず、この地域の市民も含めて、安全で安心して生きていける世界をつくるために行動し、貢献することであろう。第2次世界大戦後の世界は、「国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、・・・慎まなければならない」と決意して出発したのであったし、日本も、世界に敵をつくらず、武力行使をしない日本国憲法の下で歩んできたはずだった。日本は、有志連合に組みするのではなく、距離を置いた上で、武力対決の連鎖を断ち切らせるためのあらゆる手段の外交に積極的に貢献し、尽力すべきなのである。
 まして日本の政府が日本国憲法を無視し、軽視して、自衛隊の邦人保護拡大や人質の武力奪還を口実にした機能拡大への動きや情報開示の抑制、軍事力増強を狙うのは本末転倒である。私たちは、外交軽視、武力強化の日本と世界を望まない。

http://worldpeace7.jp/

花粉症

2015年03月20日 22時31分03秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は結局「春霞」ということはあまり気にならなかったが、いかにも春の彼岸の頃の陽気という感じの日となった。寒いと言う方もいたが、私はそれほど寒いとは感じなかった。朝の内風が強かったこともあり、ただ花粉がかなり猛威を振るっていたようだ。

 私はさいわいなことに花粉症の症状は出たことはない。以前梅雨時に布団の上げ下ろしで押し入れに顔を突っ込むとクシャミが止まらなくなることがあり、多分カビの胞子には過剰に反応したのだと思う。クシャミが呼吸する間もなく30回以上も続く時の苦しさは、今でも忘れられない。室内を改装して畳の部屋を無くし、ベッドにしたらそのような症状はまったく出なくなった。
 それでも春先に時々はなみずが止まらなくなることがたびたびある。そんな時は「とうとう私も花粉症か」とびくっとすることがある。しかしそれは軽い風邪の症状のようで、大体2~3日でおさまる。

 明日は昼から3時間ほどボランティア的な仕事をこなしてから、夕方に友人と横浜駅で落ち合うことにしている。どんな会話で話が弾むのだろうか。楽しみである。明後日は朝からその仕事の延長をこなさなくてはならない。

追悼!今江祥智氏

2015年03月20日 21時42分27秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 児童文学者といっていいのだろうか、今江祥智氏が亡くなった。83歳だったという。
 私はあまりいい読者ではなかったが、娘のために随分と購入した。娘が小さい頃に膝の上に娘を載せて読んで聞かせた絵本の中には今江祥智の本はなかったと思う。もう膝の上に載せて読んでやる時期を過ぎた頃、幼稚園に入学してから買って与えたと記憶している。1980年代半ば以降のことであるから、今江氏50歳くらいの頃であろうか。当時の著作は理論社から出版されていたと記憶している。先ほど天袋の中を探したが、一番奥の方にあるらしく、本は視界に入らなかった。題名も出版社も確認はできなかった。
 娘はよく読んでいたようだ。どの部分が、どのように気に入ったのか、娘に聞こうとして30年近く経った今も、娘には未だに聴いていないが、何かしらの影響は受けていたのだろう。それらの本を大切にしていた。


明日は春霞か?

2015年03月19日 22時33分28秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日横浜は、午前中に20℃を越えたようだが、みなとみらい地区で12時に講座が終了して外に出たときは少し寒く感じた。15時には13℃となっているから7℃位も一気に気温が下がったことになる。
 次の講座の行われる本郷台駅の構内の通路は湿っていてまるで梅雨時のようであった。15時半に講座が終わった時は予報どおり雨となった。薄着をして出たためもう一枚欲しいと思ったが、我慢せざるを得なかった。

 天気予報によれば、明日は春霞がかかる、とのこと。花粉症の方にはつらい季節だが、そうでない私にはなかなかいい季節でもある。明日はどんな富士山や丹沢を見ることができるか楽しみである。
 濃霧注意報が20時50分ころに発令されていた。すでにわが団地から横浜駅方面は靄っている。ランドマークタワーの天辺が見えなくなっている。

 本日東海道線・上野東京ラインの横浜発の時刻表を駅でもらってきた。気がついたのは、
1)22時台、23時台を除いて東京どまりが無くなったこと、
2)朝のラッシュ時である7時台、8時台は上野止まりと、その先まで行く列車が交互にくること、
3)常磐線乗り入れはすべて品川発なので、常磐線に乗り換えるのは横浜から行く場合は品川乗り換えとなること、
などがわかった。
 ちなみにネットで調べると、横浜-上野間は32分となっており、乗り換えていたこれまでと、時間的には変わらない。多分上野より遠くに行く場合にはかなり時間の短縮にはなると思われる。上野の場合時間は変わらずとも乗り換えなしというのが大きなメリットである。


「古代の日本貨幣史」

2015年03月19日 21時14分48秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 本日の午後は、古代史セミナーの最終回「古代の日本貨幣史」(講師:国立歴史民俗博物館准教授三上喜孝氏)の講座。
 私の中学生・高校生のころの日本史では「皇朝十二銭」などという言葉は教わったものの、いづれもほとんど流通しないままであったと教わったと思う。
 中国の殷の時代の宝貝、戦国時代の金属貨幣の登場により、倭では弥生時代から五銖銭が伝来していたこと、古墳時代には鏡の紋様に五銖銭が取り入れられたいたが、流通銭としてではなく呪術的な用途で使われたらしいことが推測されるとのこと。
 和同開珎以前に富本銭の存在が天武朝に知られ、形が歪であるものの重量がほぼ一定であり、円形有孔で銭の形体をもっていることから、流通していたという見解と、地鎮に使われていることから呪術的な使われ方が主であるとの見解があるらしい。この富本銭というものの存在を恥ずかしながら私は知らなかった。
 和同開珎については710年の平城京への遷都にともなう財源づくりから畿内を中心にただちに流通したらしいとのことを教えられた。しかし諸国の財政は穎稲で記されており、地方には銭は浸透しなかったらしい。
 その後銭による出挙が発達していること、藤原仲麻呂による奥州産の金の利権問題、インフレ対策としての新銭発行などは新しい知見であった。
 中でも日本霊異記に寺による私出挙の例がみられるとのことで、あらためて以前に眼をとおした日本霊異記を読みなおしてみたいと思った。日本霊異記の世界がもっと面白く読めるようだ。
 その後皇朝十二銭の粗悪化に伴い流通は衰退したいったが、平安末期から宋銭の大量流入によって銭が列島全体に流通するようになった。この下りは時間切れでレジュメだけの提起であったのが残念であった。

 しかしこと銭の流通については、50年前に教わったこととは随分と違う様相であった。なかなか興味の尽きない課題でもあるようだった。

「くらべて楽しむ美術鑑賞」

2015年03月19日 19時52分07秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 本日の午前中の講座は「比べて楽しむ美術鑑賞」(講師:中村宏美氏)の最終回。

 午前中の「比べて楽しむ美術鑑賞」という講座、は社会的には「いくさの世」から「平和の世」となったヨーロッパの18世紀、日本の18世紀から19世紀までの時代を扱った。西洋のロココ美術と江戸中期以降の錦絵・浮世絵の世界。
 取り上げた画家は、ヨーロッパではフランスのアントワーヌ・ワトー、ブーシェ、フラゴナール、イギリスのゲインズバラ。日本の鈴木晴信、喜多川歌麿、葛飾北斎。
 いづれもバロックのような劇的な場面、歴史・神話の世界を描くことから、現実の男女の相愛や日常の風景等に素材や題材が移行している点が共通の特徴となっている。日常の風景やごくありふれた生活の場面に美を見出すという点では近代への大きな一歩を踏み出したことになる。
 ルネサンスと狩野派、バロックと桃山文化に続く3回目だが、社会的な背景や工房・徒弟制といった絵画の外在的な共通性から、ようやく描く対象に対する共通性などに行きついたような気がする。対象把握や技法上の類似性・共通性の抽出と云ったものは可能なのか、などの疑問があるが、それは自分で探るしかないようだ。
 そういった意味ではとても刺激的な講座であったと思う。


明日の講座

2015年03月18日 23時09分35秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨日の20℃を越えた横浜の暖かさは異様だと感じた。昨晩の予報では本日の方が少し気温は低くなるとのことであったが、実際は本日は昨日よりも高くなり20.9℃となったそうだ。4月下旬の暖かさと言っていた。
 本日は彼岸の入りということだが、体の感覚は彼岸をとっくに過ぎたような陽気に感じた。明日は雨の予報で最高気温は20℃を下回りそうだが、湿度は90%前後で蒸し暑く感じるようだ。

 明日は「比べて楽しむ美術鑑賞」(講師:中村宏美氏)の最終回の講座と、古代史セミナーの2回目「古代の日本貨幣史」(講師:国立歴史民俗博物館准教授三上喜孝氏)の講座。ともに2時間の講義である。

 本日の疲れが出て、居眠りをしないように、ということで本日は早目に就寝予定。

今日の仕事はつらかった

2015年03月18日 21時53分39秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 岡林信康の山谷ブルースは「あとは焼酎をあおるだけ」と続く。学生時代アルバイトで土方をやったりあるいは建材などの荷揚げ・荷卸しという力仕事にありついて、終わると夕方立ち飲みで焼酎と焼き鳥を口にしながら、ブツブツと一人で口ずさんでいた歌である。ほとんど仙台でのアルバイトだったので、山谷を訪れることはなかった。しかしたまに横浜に帰省しているときにありついたアルパイトでは、一緒に仕事をした年上の人によく桜木町の駅の傍の立ち飲み屋に連れられて行った。
 2回も同じところに連れられて行くと、ひとりでも行くようになった。そのような店が今も桜木町駅の傍の大きなビルの地下にある。横浜市に採用されてから、組合の事務所が桜木町にあったので会議があった時は帰りに必ずそこに寄った。学生時代に通ったことのある飲み屋に勤めてからも通うことになるとは夢にも思わなかった。当時は横浜市の職員も現業の人を中心にこのような店に多く出入りしていた。
 今ではその当時の組合事務所への「出入り禁止」という無期限のふざけた「処分」を受けて以降、別の組合の会館を寿町に建設したこともあり、桜木町のそこの店に行くことも無くなってしまった。

 さて本日の事務所当番は、力仕事が続いてさすがに夕方19時ころにはくたびれた。帰りにコンビニでビールとウーロンハイのレギュラー缶を1缶ずつ購入して、それを歩きながら飲んだ。30分ほど歩いて賑やかな繁華街に出てから電車に乗って帰宅したが、歩いている途中でふとこの歌を思い出した。
 学生時代は、日雇い仕事で生計をたてなければならない状態ではなかったが、自分の進路をどのように定めるか暗中模索の中で、このような仕事をこなしながら何かをつかもうと必死だった。いろいろ紆余曲折があってたまたま横浜市に採用されたが、そうでなかったら自分はどんな職業についていたのであろうか。不思議なものである。

 労働運動に携わってみたいという気持ちは、本気ではなかったが頭の片隅にはあった。たまたま1973年、74年のころ春闘はなやかな頃にテレビで東京都だったかどこかの自治体の現業職場の職場集会の模様が映し出されていた、そしてそこの不揃いで頼りない「団結ガンバロー」の締め括りを見て、「情けない」と感じた。当時華やかな公労協などの整然としたデモや集会からは想像もできないものであった。
 理科系を卒業したが、もう2度と数式を見たくなかったし、大学で一応勉強したことを一生続けなくてはいけない理由もないし、そんなことはしたくなかった。他にできる仕事と云っても思い浮かばなかった。メシの食うためなら何でもしなくてはいけないとだけは思っていた。
 しかも残念ながら現業職場は大卒では採用しないようなので、理科系の私ながら事務職で受験してみることにした。そのかわり行政法や憲法や労働法について半年必死で勉強した。どういうわけか受験したら採用されてしまった。試験官も人を見る眼が無かったのだろうと思う。
 採用された1975年以来社会運動としての労働運動ではなく、あくまでも労働組合運動に40年近く関わり、この歳になってしまった。