Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

マーラー「交響曲第6番《悲劇的》」

2021年06月13日 22時46分17秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

   

 十年ぶりくらいにこの曲を聴いた。いつものとおり、エリアフ・インバル指揮、フランクフルト放送交響楽団の演奏で、1986年の演奏である。日本での発売は1987年なので、購入は1988年過ぎ。「昭和」の終わりころの購入で、社会全体が多分自粛ムードを強要されていた時期。国鉄分割民営化などを経て、総評が分裂・解散し、連合ができた頃でもある。私の取り巻く労働組合の状況も厳しく、某政党が主導する組織から「火付け盗賊・赤軍派の残党」などとわけのわからない思い込みと、いわれのない中傷ビラを組織内と関内駅頭でビラを撒かれた時期である。
 その後、組織の再建をめざして組織戦争が始まった。まさに「悲劇的」になるほど暗い世界で、土日も含めて毎日いくつもの会議、寝る暇もなく徹夜の資料作り・ビラ作り、そして職場をひたすら行き来していた頃である。マーラーのシンフォニーの第1番、第4番を主に、そして時々この第6番も聴いていた。題名に惹かれ、その出だしを、眠気覚ましに聴いていた。
 その後、組織再建=新組合立ち上げもひと段落してこれらのCDを聴く機会がなくなった。このころ聴いていた第1番、第4番、第6番は定年間際にたまたま一度だけ聴いた。そのときは懐かしさだけを感じた。
 不思議なもので、この第6番を久しぶりに聴いてみると、第1楽章の「死の行進曲」といわれる出だしはちゃんと記憶に残っていた。それにつられて第2楽章まで、すんなり違和感もなく聴いている。
 CDでは2枚目になる第3楽章とは続けて聴く機会が無かった。いつも1枚目の第1・第2楽章と、2枚目の第3・第4楽章は別の日に聴いていたと思う。
 全体として、どうしてこんなに複雑な構成が必要なのか、大規模な楽器編成が必要なのか、旋律が溢れすぎてはいないか、などなどの思いは相変わらず湧いてくるものの、いつの間にか引き込まれてしまい一つ一つの音を追っている自分に気が付く。
 解説を読むと、いつもながらよく理解できない文章が並ぶ中に、マーラー自身が饒舌に自作を語ろうといているのがわかる。「この第6番は私の最初の5曲を吸収し消化した世代のみが、敢えて解こうと企てうるような難題を出すことでしょう」。どうも大仰で、そんなに偉ぶらなくたっていいではないか、といつもこの解説を読むたびに感じる。そのことばが曲全体から私が受ける印象とまた違うのが、不思議だ。他の5曲と断絶しているとも思えない。
 私はこの曲が《悲劇的》とは思えない。この曲想は、私の思考回路に沈静化作業を及ぼし、私を内省的にしてくれる、と30年前に感じていたことを思い出した。
 同時に本日全曲を通して聴くと、第3楽章がとても美しく、落ち着いた雰囲気に響いてきた。新しい発見だと思った。同時に第4楽章が重すぎるとも思った。
 少しも素直に聴くことのできない何ものかがマーラーに対して私の心の中にあるようだ。その正体は未だにわからない。

   



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