Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「夢」を語る

2020年08月03日 21時08分55秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 昨日は「夢とは、夢をいくつも捨て続けて一つの夢だけを抱いて、この世にさよならをいうまでの時間」と記述した。もう少し書いてみたい。

 まずは、この世にさよならするときに抱いている「夢の形」とは私は何をさして言っているのだろうか。「抱いている夢」だから達成はしていないものである。
 どだい、夢はかなえられてしまえば夢ではない。夢はかなえられないから夢である、ということに気がついたのは20代後半になってからであった。
  私は、最後の眠りにつく前に、自分がこだわってきたことは何なのだったのだろう、という内省の時間が欲しいと思う。このこだわってきたことが「夢」なのだと私は思う。何事につけきちんとこなしたい、どんな短い文章でも自分の思うとおりに読む人に不快な念を持たれないように、誤解を生まないように綴りたい、そんなこだわりを持ち続け来たことが「夢」なのかもしれない。
 北斎が、「せめてもう10年、いや、あと5年でもいい、生きることができたら、わたしは本当の絵を描くことができるのだが」という言葉を残したそうだが、「本当の絵を描く」ことにこだわってきた画家の生涯をとおした強い思いが詰まっていると私は感じた。
 あのような優れた画家にして「本当の絵」への強い思い、そのような技量とは無縁の私にもどこかで解るような気分になる言葉である。
 一生涯、何かを求め続ける思い、これが欲しいと私は思う。それはどのようなものでもいい。自分の生涯を振り返ったとき、「俺はこれにこだわって来たんだ」というものがあることは幸せだと思う。

 もうひとつ。小学生の内に、一生涯追い求めたい夢を一つ持て、と教えるのだと聞いた。私はそれを聞いて愕然とした。どうして10歳前後の子どもに一つの夢だけを持てと、強制するのだろうか。そんな夢のない人生を教えてはならない。今の教育制度を支える人たちはどんな不幸な人生を送ってきたのだろうか。
 10代の頃は夢はとりとめもなくたくさんあって当たり前である。むろん一つの夢を追うのを否定はしない。しかし一つの夢に絞らななくてはいけない理由などどこにもない。一つに絞られてしまったら、それは夢ではなく義務でしかない。夢を悪夢に転化させてはならない。
 年齢を重ねとともに夢は変わっていく。それが成長というものである。変わっていくもの、それが夢である、という地点に立てないならば、子どもを教えてはならない。子どもに夢を押し付ける大人になってほしくない、と心から願っている。
 そして同時に、「夢はなくともいい」といってもいい。人生の最後にたとえば「人に誠実であり続けた」と思えるならば、それもまたいい「夢」を実現したといえる。夢は具体的なものである必要などどこにもない。

 「夢は心に抱く儚いもの」ではない。「達成できなくともこだわっていけるもの、こだわり続けてたいもの」が夢であり、これはそう簡単に毀れるものでも忘れ去るものでもない。

 別の言い方をすれば、「誰の心にも残るもの、誰もがこだわっているもの」それが「夢」であるともいえる。
 



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