藁屋根へ月光とどき鹿がくる
ぶどう掌に余り一雷後の青空
くらがりを金の鹿くる春怒濤
みひらける誰のまなこか曼珠沙華
桜吹雪虚空を顔が過ぎてゆき
まなこふたつ牛が近づきくる寒さ
木の毛虫憎めば止まりまたうごく
陽へ伸びてこころのきまる松の芯
一月の思いみなぎり遠き帆よ
地吹雪す陽は谷を越えかるがると
雲の上は常に快晴ピラカンサス
山に雪降りいちにち飴のように寝る
尾がたえず牛を打ち人炎天に
猿の檻うしろに寒きにんげんも
紅梅の仔細にみればちらちらと
あまた光るなかの一粒山ぶどう
ひとつ蹴りひとつは拾い雪の玉
思惑はいろいろ雪の野に仏
震えいる蝿一匹の後始末
出る杭のひとつにとまり夕蜉蝣
土曜日や髭を剃り萩の赤を賞め
柿に没陽谷乱心し紅潮し
北風が吹きぬけてゆき檻の軍鶏
人声す霧の中何か始まりて
作者は現代俳句協会の副会長。「北斗」は1987(昭和62)年に発刊した第3句集に当たる。
私はこの作者の言葉の感覚は独特だと感じた。個性的な言葉遣い、というよりも何か他を寄せ付けない独特な感性に裏打ちされているということだ。
たとえば二番目の句「ぶどう掌に余り一雷後の青空」、通常の語感からすれば、「雷鳴やぶどうのひかり青空に」あたりになるのであろう。それが8-6-4の語調に「押し込め」られている。そう思うのは私だけだろうか。ぶどう、掌、余り、一雷、青空とおよそ俳句にするには多すぎる素材が文字通り「押し込め」られている。
初心者が俳句を教わるに当たり、「要素が多すぎる」とよく指摘され、焦点を絞るように云われる。しかしながらこの句集にちりばめられた句はこれとはまったく逆の句ばかりといっていい。
この句もどこに焦点があたっているのかといわれれば、たじろいでしまう。しかし掌からこぼれるぶどうのひかりの一粒と、一雷後の青空の透き通るような空の美しさとの対比は、何とも美しい。ひとつの対比の妙を見せてくれる。
他にも同じような対比の妙を示した美しい句がある。最初の「藁屋根へ月光とどき鹿がくる」「くらがりを金の鹿くる春怒濤」「みひらける誰のまなこか曼珠沙華」「陽へ伸びてこころのきまる松の芯」などなど。
そして、だからこそ、なかなか理解できない句もたくさんある。独特の語感を持つと同時にそこには独特の美意識がはりついている。このことを前もって覚悟してからでないと、なかなか理解できない句が多いのではないだろうか。現代俳句を読むことの難しさもここにある。
今回は私が理解できたと思った句を中心に掲載してみた。
ぶどう掌に余り一雷後の青空
くらがりを金の鹿くる春怒濤
みひらける誰のまなこか曼珠沙華
桜吹雪虚空を顔が過ぎてゆき
まなこふたつ牛が近づきくる寒さ
木の毛虫憎めば止まりまたうごく
陽へ伸びてこころのきまる松の芯
一月の思いみなぎり遠き帆よ
地吹雪す陽は谷を越えかるがると
雲の上は常に快晴ピラカンサス
山に雪降りいちにち飴のように寝る
尾がたえず牛を打ち人炎天に
猿の檻うしろに寒きにんげんも
紅梅の仔細にみればちらちらと
あまた光るなかの一粒山ぶどう
ひとつ蹴りひとつは拾い雪の玉
思惑はいろいろ雪の野に仏
震えいる蝿一匹の後始末
出る杭のひとつにとまり夕蜉蝣
土曜日や髭を剃り萩の赤を賞め
柿に没陽谷乱心し紅潮し
北風が吹きぬけてゆき檻の軍鶏
人声す霧の中何か始まりて
作者は現代俳句協会の副会長。「北斗」は1987(昭和62)年に発刊した第3句集に当たる。
私はこの作者の言葉の感覚は独特だと感じた。個性的な言葉遣い、というよりも何か他を寄せ付けない独特な感性に裏打ちされているということだ。
たとえば二番目の句「ぶどう掌に余り一雷後の青空」、通常の語感からすれば、「雷鳴やぶどうのひかり青空に」あたりになるのであろう。それが8-6-4の語調に「押し込め」られている。そう思うのは私だけだろうか。ぶどう、掌、余り、一雷、青空とおよそ俳句にするには多すぎる素材が文字通り「押し込め」られている。
初心者が俳句を教わるに当たり、「要素が多すぎる」とよく指摘され、焦点を絞るように云われる。しかしながらこの句集にちりばめられた句はこれとはまったく逆の句ばかりといっていい。
この句もどこに焦点があたっているのかといわれれば、たじろいでしまう。しかし掌からこぼれるぶどうのひかりの一粒と、一雷後の青空の透き通るような空の美しさとの対比は、何とも美しい。ひとつの対比の妙を見せてくれる。
他にも同じような対比の妙を示した美しい句がある。最初の「藁屋根へ月光とどき鹿がくる」「くらがりを金の鹿くる春怒濤」「みひらける誰のまなこか曼珠沙華」「陽へ伸びてこころのきまる松の芯」などなど。
そして、だからこそ、なかなか理解できない句もたくさんある。独特の語感を持つと同時にそこには独特の美意識がはりついている。このことを前もって覚悟してからでないと、なかなか理解できない句が多いのではないだろうか。現代俳句を読むことの難しさもここにある。
今回は私が理解できたと思った句を中心に掲載してみた。
しかし「しんがりに始祖鳥のいる」が具体的に私にはイメージとして像を結びません。私の想像力・理解力がいたらないのだとは思いますが‥。
「その中ほどはとにもかくにも」なんておちょくっては怒られそうですが(苦笑)。
こういう世界なら、俳句も面白そうな…笑。
始祖鳥・恐竜に作者はどんな冬をイメージしたのでしょうか。疑問が続いてしまいます。
鑑賞を文章化するのを拒絶した作品かもしれませんね。
ハクチョウやツルなどと一緒に始祖鳥が群れていたら、さぞかし…と思ったのは、私が鳥類の生態を知らないせいでしょうね(笑)。