syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

大船観音寺 白衣観音

2017-06-06 | syu散歩

「大船」は、鎌倉郡小坂村(柏尾川東側、ほぼ現在の大船地域)といい、1933年に大船町となってまもなく玉縄村(柏尾川西側)を合併した。
1948年に鎌倉市に編入。 もともと大船駅周辺は柏尾川の氾濫原であり、近世までこの地区の中心は玉縄地区側にあったが、1888年に大船駅が開業すると駅の東側が開発され商業地として発展。



「大船」の語源・大きな船が入ったため、また、丘の形が船のような形をしていたからといった説がある。
場所は、鎌倉市の北西部に位置し、北は横浜市栄区・戸塚区、西は藤沢市に隣接し、その名称は、鎌倉市の行政区分ではより広く、鎌倉市北西部の大船駅東側から北鎌倉駅周辺などを含めて大船地域と呼ぶこともあり、西に隣接する玉縄地区も含む旧大船町の範囲全体を大船と呼ぶこともある。
気候は温暖で、古くから集落があったと見うけられ、旧石器時代の刃器形石器が粟船山で発見されたり、縄文時代の遺跡が柏尾川流域から見つかっている。1936年には東京の蒲田から撮影所が移転、第二次世界大戦中には大船駅付近に東京から国鉄、電気機械、化学などの大型工場が相次いで進出、大船一帯は柏尾川下流の三角州平野が広がる米作地域でしたが、1888年に東海道本線の大船駅ができ、翌89年に横須賀線がここから分岐した後、近代化が始まる。駅の東側が開発され、商業地として発展していき、鉄道開業から戦後にかけ、三菱電機、資生堂、芝浦メカトロニクスなどの工場が造られ、工業地帯に、1948年には鎌倉市に編入され、幕府がおかれ、寺社の多い鎌倉地区に対して、大船地区は近代工業地区として栄えた。
大船駅周辺は柏尾川の氾濫に起源する湿地帯であり、近世までこの地区の中心は玉縄地区側にありましたが、戦後になると、1960年代頃から東京と横浜のベッドタウンとして、丘陵地帯にも住宅が開発され、人口が増加が。

                       JR大船駅前歩道橋


「曹洞宗」-道元1200-1253-南無釈迦牟尼仏。
鎌倉時代道元禅師によって開示・道元を通じて中国曹洞宗から受け継がれ、「座禅」を基本とし「永平寺」を如点に発展した。
道元は京都(1200年)で生まれ、父内大臣久我通親・母摂生藤原基親の三女、13歳で比叡山に入り、「仏法房道元」の法名が与えられている。
24歳で中国へ28歳で帰国・宇治「興聖寺」を建てる。-正法眼蔵ーを説く。
1243年越前「永平寺」建立弟子の育成し終生過ごしている。信徒数約158万人に発展した。

               小学生時代大船観音像は、立像と思っていた。


「大船観音寺(曹洞宗)」
1929年の昭和4年、に永遠平和のために地元有志が大船観音の建立に着手、
1934年に像の輪郭ができあがった。その後、戦争により未完のままになっていたのを、戦後、曹洞宗管長高階瓏仙禅師らが中心となり財団法人大船観音協会を設立し、
1961年に現在の像に完成。高台から大船のまちを見守る姿は電車からも見え、人々に親しまれている。
昭和56年、から大船観音寺となり伽藍が整備された。



「白衣観音」
志心帰命礼・ 観音菩薩・ 大慈願行応身・ 白衣・ 蓮華・ 浄水瓶・ 淳浄・ 慈祥・ 菩提心・ 無量慈願・ 広大霊感・ 庇佑群生・ 祈福有福
求子得子・ 消災延命保平安・ 安居楽業享太平・ 大慈与人楽・ 無不如所願・ 大悲大願・ 大聖大慈・ 白衣だいだい・ 白衣母・ 福佑大慈尊・・。

                         参拝


                    南無観世音菩薩(真言宗)


                    観音寺から大船駅方面を。


                       観音像内


                       鐘楼


「大船観音の東隣にある曹洞宗の 黙仙寺」

山の上に本堂があるので、かなり階段を登る。
途中のお地蔵様の石像は、立派。

大船観音よりも歴史が古く明治時代の創立という。二世住職が中断していた大船観音の建造・完成に尽力されたと云う。









富士急行 谷村町 谷村城跡 syu散歩

2017-06-04 | syu散歩

戦国時代の甲斐国では守護「武田信虎」と有力国人、他国勢力である駿河国の今川氏・相模国の後北条氏との抗争が行われており、都留郡では越中守信有が信虎や今川氏・後北条氏と抗争を繰り広げていた。
「勝山記」によれば、
永正15年の1518年、武田氏と小山田氏・今川氏の三者の間で和睦が成立する。越中守信有は信虎の妹を室に迎えて武田氏に対する従属を強め、
1521年、2月18日に武田信虎は船津(富士河口湖町船津)において小山田家臣・小林宮内丞の屋敷を訪問し、翌日には中津森館を訪れている。
信虎は、甲斐を統一した1519年、本拠を甲府(甲府市古府中町)に移転し、新たに城下町(武田城下町)を建設する。
信虎は、城下町に家臣団を集住させ、小山田氏も越中守信有夫人が甲府に居住している。
小山田氏は同時期に谷村への本拠移転を行って、1530年、には中津森館が焼失し、武田氏の支援を得て谷村に新たな居館が築造。
同年には越中守信有夫人が死去して、このことも居館築造の契機であるという。
1532年、谷村館が落成し、信虎をはじめ甲斐国人が参集したという。
以来、谷村館は越中守信有・弥三郎信有・信茂に至る小山田氏4代の居館として用いられている。
谷村城と桂川を挟んで対岸に位置する城山(都留市川棚)には勝山城が所在し、勝山城の築城期・築城主は不明で近世初頭の浅野氏時代には築城されているが、勝山城の前身は谷村城の詰城である城砦であったとする説がある。
近世の城下絵図では双方を繋ぐ二本の橋が描かれている。

「天正壬午の乱・徳川氏時代の谷村城」
天正10年の1582年、織田・徳川連合軍による武田領国侵攻により武田氏は滅亡し、小山田信茂は織田氏に出仕するが、処刑されたため小山田氏も滅亡する。郡内では小山田家臣や国衆の多くも撤退した。郡内を含む甲斐は織田家臣の河尻秀隆が領するが、同年6月の本能寺の変により発生した一揆のため秀隆は落命する。
本能寺の変により三河国の徳川家康、相模国の北条氏直、越後国の上杉景勝三者の間で武田遺領を争奪する天正壬午の乱が発生する。
天正壬午の乱では徳川家康が甲斐衆の多くを懐柔する一方で、後北条氏が郡内のほぼ全域と交通路を支配した。
後北条氏は北杜市須玉町若神子の若神子城に本陣を起き、八ヶ岳南麓・七里岩台上において徳川方と対峙するが、同年10月の徳川・北条同盟の成立により甲斐は徳川家康が領し、後北条氏は郡内からも撤兵した。
後北条氏は谷村城や勝山城の改修を行っている可能性が考えられているが、それを示す史料は発見されていない。
家康は都留郡支配のため家臣の鳥居元忠を配置しているが、元忠は当初支配拠点を岩殿城においている。

「豊臣大名・谷村藩時代の谷村館」
徳川氏は、豊臣政権下で1590年、関東へ移封されるが、「甲斐国志」によれば谷村城の改築はこの間に行われたという。
武田氏滅亡後も谷村は郡内地方の支配拠点として用いられ、豊臣系大名時代の加藤氏や浅野氏、徳川氏再領時代には鳥居氏が本拠とした。
江戸時代には秋元氏が入府し、谷村藩が成立すると谷村城を中心に城下町(谷村城下町)として発展する。
1704年、秋元喬知が川越藩に移封されると城は廃城となり、郡内領は代官支配となり谷村は町場へ移行する。

「谷村城下町」
小山田氏の滅亡後、浅野氏時代には文禄検地にが実施され、これにより城下が上谷村・下谷村に区分され、江戸時代には谷村藩主の秋元氏の治世下で家中川や谷村大堰などの用水堰が開削され、谷村城下町が完成。1704年、谷村城下町絵図によれば、谷村城南側には東西に上谷村・下谷村が町割されている。上谷村は上町・早馬町・新町、上町裏の裏町(天神町・袋町)、下谷村は中町・下町・横町で構成。
(城下には富士山を包囲軸とした南北往還が貫く。往還は城下両端で鈎状に折れ、富士道に接続された。)

                  富士急行「谷村町駅」-都留市ー


                     駅前の不動尊堂


        1685年松尾芭蕉が、  行く駒の麦に慰むやどりかな  記念碑




町を流れる「家中川」の総発電。
家中川小水力発電施設「元気くん」が発電した電気は、市役所の高圧受電設備に連系し、常時は都留市役所や都留市エコハウスの電力として使われ、
夜間や休日等の市役所が軽負荷のときは、固定価格買取制度により売電している。
平成24年度まではRPS法「電気事業者による新エネルギー等の利用に関する特別措置法」により売電し、
「元気くん」は、まちの中を流れる家中川に設置されており、家中川の水は農業用水としても活用され、水量の変化が激しく、雨量の多い日には、一度水を止めることもあると云う。
いつも最大の電力が発電できる訳ではないが、頑張って発電を続けていると云う。

                          家中川


1532年、中津森館の「小山田越中守信有」が居城を谷村に移しており、その所在地は明確ではないが、この谷村城の辺りと見られている。
1582年、小山田滅亡後、北条氏が郡内地方を制圧したが、徳川氏との争いの後、徳川家臣「鳥居元忠」が郡内領主と。
1590年、豊臣秀吉により小田原征伐で北条氏は滅亡し、徳川家康が関東に移封となると、鳥居元忠は下総国矢作に移った。

その後は、甲府城に入った豊臣秀吉の重臣の家臣が谷村に入り支配した。関ヶ原合戦後は再び鳥居氏が入部して谷村藩となったが、秋元氏の後に天領となり、谷村城は廃城となって谷村陣屋が設けられたと云う。

                        「谷村城跡」


                    勝山城は裏手の山山頂に




「長安寺」
                  浄土宗・智光院禅定山。


武田家滅亡後、徳川家康の重臣であった「鳥居元忠」が谷村城城主となり開基し、その後歴代領主の庇護を受けた寺。
観音堂には武田信玄の守り本尊といわれている聖観世音菩薩があり、1年に1度・毎年5月20日に御開帳され参拝することが。



観音堂に祀られている聖観世音菩薩は、武田信玄幼少期の子守役板垣信方が信玄の学問成就・健康祈願をした念持仏と言われている。
武田家の技術を重んじていた徳川家康が、郡内を巡視した際に寄進したといわれている常滑焼の茶壺が、寺宝に。

                        本堂ー県文化財


                 県指定文化財ー本堂・附板札・経石など


               祭礼行事ーお茶壺道中行列(10月最終日曜日)


「普門寺」
曹洞宗 山号 補陀山。         普門寺十一面千手観世音菩薩馬頭観世音菩薩


                   都留七福神ー毘沙門天


「都留七福神」
寿老尊ー本光寺・大黒天ー保寿院・布袋尊ー円通院・毘沙門天ー普門寺・福緑尊ー広教寺・恵比寿尊ー用津院・弁財尊天ー長生寺



「金山神社」
都留市上谷鎮座ー氏子400戸                鳥居


口伝によると千年以上の昔と伝へられ、古書に「往古建久年間右大将源頼朝公於富士之獵場有献千鍛百錬之矢根鋒者公利用而大有感賞即為希代名聞之験敷地得若干下給因基其由緒創立本社以傳事蹟永遠不朽焉然」とあり
「又往古源頼朝富士巻狩の當時本社金山大神之御厚徳之感シタルヤ氏子ノ内鍛冶工二命シテ矢ノ根ヲ作ラセタリ其ノ時鍛冶工二命シテ矢ノ根ヲ作ラセタリ其ノ時鍛冶工タル者ハ該社二参籠シ一心二奉祈則ノ根若干ヲ鍛へ揚テ完納セシヨリ應分之褒ヲ賜リ其書類ハ中古紛失亦矢之根ヲ打鍛ヘタル磐臺鉄鋪モ宮殿内陣二数十年間備ヘ置キタルモ明治之前紛失行衛相分ラズ」とある。

例祭 8月                        参道


                            社殿


「西願寺」
真宗大谷派の寺   都留文大通りに面している。


しだれサクラの巨木が。          堂宇


富士のみち 139号線沿いにある古い純喫茶店  「旅苑」 (テレビなどで取り上げられた喫茶店)


ウインナーコーヒーを注文(¥600)。
オーストリアの首都・ウィーンを由来とし、 「ウィーン風のコーヒー」という意味で使われると云う。
由来がウィーンであり、「ウィーン(Wien)」→「ウインナーコーヒー風の(Wiener)」という意味だが、日本でのみ通用する呼び名のため
ウィーンのカフェでウインナーコーヒーと注文しても通じない。
オーストリアでは地方によってコーヒーの呼び名が異なるが、全日本コーヒー協会によるとホイップクリームを入れて飲む「アインシュペンナー」が元になっている。
「アインシュペンナー」は「1頭立ての馬車をあやつる御者」という意味で、御者が主人を待つ間に飲まれていたことからこう呼ばれるようになった。


月江寺と新倉山(富士山と桜) syu散歩

2017-06-02 | syu散歩

1931年10月1日 富士山麓電気鉄道の駅として開業。 1960年5月30日 社名変更により富士急行の駅となる。


富士吉田市下吉田は
山梨県南部に位置し、市域を流れる宮川の北西岸に、甲斐国志によれば、かつては下宮浅間神社(現在の小室浅間神社)の祈祷所であった
月江寺で、天台宗寺院で、称光院と呼ばれており、後に廃絶したという。
称光院は臨済宗寺院として月江庵と改め、向嶽寺に属し富士北麓における拠点として富士道者に旅宿と神符を提供する御師的役割を果たしたと云う。
戦国期の享禄2年・1529年、月江寺住職が向嶽寺の輪番を務めた記録を記している。
1591年、加藤光吉から下吉田に2石を寄進した加藤氏判物状の写があると云う。
1649年、将軍家光から寺領16石を安堵する朱印状を得たという。
江戸期には、国学において廃仏論が主張され、月江寺では、1706年、正徳年間に鎮守社としていた下宮浅間神社との鎮守争論が発生し、江戸後期には収束するものの明治初期に再燃し、県内では類例の少な廃仏毀釈の事例となっている。
現在では境内が月江寺公園として整備され、一部は富士学苑高等学校の敷地に。

「月江寺と富士信仰」
富士山の御師町として発展した下吉田に所在する月江寺は富士信仰との関わりが強く、江戸時代には小室浅間神社の祈祷所として諸行事を取り仕切っている。寺には多くの什宝が伝来し、開祖の絶学祖能ほか法燈国師、三光国師、大円禅師(抜隊得勝)、峻翁令山ら5幅の祖師画像を伝えている。
近世期では谷村藩主秋元氏が寄進した絵画が多く残され、
秋山敬「月江寺過去帳とその成立の歴史的背景」「富士吉田市史研究 第11号』富士吉田市教育委員会、1996年
秋山敬「富士信仰の展開と文化」『富士吉田市史』中世2章3節、1999年
犬飼顕澄「近世中期市域諸寺院の動向」『富士吉田市史』
『開山580年遠忌 月江寺展 -富士北麓 禅の美術-』富士吉田市歴史民俗博物館、2009年等の資料が。

                 月江寺の乾杯通り


                 古い建築の角田医院


「月江寺」山梨県富士吉田市下吉田に所在する。

臨済宗妙心寺派の寺院で、山号は水上山・本尊は地蔵菩薩。

                      本堂


                    月江寺山門


                  木造聖観音菩薩坐像(市指定文化財)


                   月江寺から見た富士山


                   釈迦入滅終焉涅槃


                    火口石の池


                    月江寺の湧水


                    月江寺の池


                    月江寺の六道地蔵尊




「富士急行電鉄」
1926年、富士山麓電気鉄道株式会社創立。
1926年9月・富士の霊峰を中心に富士山麓一帯を世界的観光地として大規模に開発するという構想のもとに、まず第一歩として交通機関を整備。
富士山麓電気鉄道株式会社を設立し、翌年、御殿場~富士吉田~河口湖間及び大月~富士吉田間、富士吉田~河口湖~精進湖間の自動車営業を開始した。

     JR大月駅から河口湖まで 1時間以上の乗車(富士のみちに沿っている。国道139号線)


「新倉山浅間公園」
新倉富士浅間神社の境内地から忠霊塔まで一直線に伸びる398段の階段を。
階段愛称は、「咲くや姫階段」と云う。

忠霊塔までの道は、観光客で賑わっていた。夜間は、ライトアップされる。





                         社殿


                     富士吉田の町と富士山


                     398段の階段を登ると


                       忠霊塔


                      忠霊塔と富士山


                      残念ながら薄曇り




                        大鳥居の間から

江戸川向影の松 syu散歩

2017-05-31 | syu散歩

江戸川河畔に、「小岩関所」が、又北原白秋は、1年間江戸川河畔に居を構え、「柴畑草舎」と自ら名づけて、「白秋小品」短歌雑誌、
「煙草の花」など創刊している。

「市川橋」
川蒸気「通運丸」が通る頃は、「江戸川橋」と云い。「市川橋」の前身にあたる。
明治38の1905年、架設。現在の市川橋の少し北側、市川関所跡のあるあたりに「江戸川橋」が架かっていたと云う。
国府台に陸軍駐屯地がある関係で架けられ、木橋。江戸川橋が架かる前はに「市川の渡し」があった。
当時のデータで、橋長 100間・幅員 21尺・事業費 4万3,265円 とある。

                    現在の市川橋


                江戸川区小岩町の河川敷ー右側は東京湾


「善養寺」
                   真言宗豊山派 星住山地蔵院(小岩不動)


                  「影向の松」で知られている。


                影向の松は、樹齢600年と云われている。



















      


                 銅板ぶきの本堂は、1845年に再建


                   空海立石像


「柴又街道」
葛飾区の金町から柴又、江戸川区の小岩と縦断する柴又街道。葛飾区や江戸川区 を代表するスイーツの名店は柴又街道沿い。




ここは、都営地下鉄「柴崎」駅付近。
江戸川区は、街道の多い所
鹿骨街道・柴又街道・千葉街道・船堀街道・篠崎街道・今井街道・奥戸街道・佐倉街道がある。

              鹿骨街道(篠崎公園)


                  公園内

国府台と江戸川 syu散歩

2017-05-29 | syu散歩

市川の下総台地は、原始・古代の遺跡が多く、中でも縄文中期ー後期の姥山貝塚(史跡)は、我が国初の集落遺跡。また、堀之内貝塚・曽谷貝塚・
環状馬蹄形貝塚がある。
大化の改新により、「国府台周辺は、下総国の国府がおかれ、国分寺・国分尼寺が建立、市川は、下総地方の政治・文化・経済の中心に。
「姥山貝塚」ー文化財(国指定)・貝塚公園。
貝塚は、縄文時代中期から後期(今から約5000年前から3000年前)に形成された、東西約130メm、南北120mの馬蹄形貝塚。
堀之内貝塚と同様、ハマグリを主体としてアサリ、シオフキなど30種以上の貝が出土していると云う。
貝塚の調査は明治26年以降何度も行われ、重要なのは大正15年に東京人類学会が行った発掘遠足会で、調査で人骨や遺物とともに竪穴住居跡などが発見された。
竪穴住居跡の全容が平面的にとらえられたのは、わが国で初めて、人骨は一つの竪穴住居跡の床に、事故にあったとも思えるような折り重なった形状で、子供1体、成人女性2体、成人男性2体の計5体が発掘され、貴重な資料に。
「出土した中期の土器」
発掘調査が続き、土器については阿玉台式、加曽利EI式、堀之内I式、加曽利BI式など縄文時代中期から後期にかけてのものが数多く発見された。
共同墓地と思われる場所からは、多数の人骨とともに装身具や特殊器形の土器なども見つかり、注目、現在までに発見された竪穴住居跡は39か所、
人骨は143体。
「でえだらぼう」は、「ダイダラボッチ」「だいらんぼう」「だいらぼう」「だいだら坊」「デエダラボッチ」「でいらぼっち」等とも言われ、
奈良時代に編纂された「風土記」にも表されているように、古くから伝わる巨人伝説。
古代の人たちが、海から遠く離れた台地に残る貝塚などを見て、不思議に思いながら想像した巨人であると考えられ、市川にも姥山貝塚のある柏井周辺では、台地に湧水の池が多くあり、巨人の足跡ではないかと伝えられている。
県内・近県にも巨人が残した足跡の伝説が語り継がれる。
「日本民俗学の祖である柳田国男氏は、
「ダイダラ坊の足跡」という論考の中で、「大人」を意味する「大太郎」に法師を付けた「大太郎法師」であり、一寸法師と対をなすものと解釈」。

                奈良時代の国府台からは入江であった。


「安藤・歌川広重」 1797-1858 浮世絵師。
江戸末期の浮世絵師で、安藤重右衛門 江戸の定火消しの安藤家に生まれ家を継いでいる。その後浮世絵師にのる。
代表作 東海道五十三次・名所江戸百景・近江八景など。
影響を与えた 歌川豊広・葛飾北斎・ゴッホ・モネなどで世界的ね著名な画家として知られている。

             安藤(歌川)広重 名所江戸百景「鴻の台利根川風景」


市川市の「真間山 弘法寺」にある伏姫桜は、推定樹齢約400年の枝垂れ桜。

                正面27段を登ると伏姫桜が





      
               千葉商科大学校庭の桜








             千葉商科大学と隣接のスポーツ公園の桜並木






                     哲学の川・江戸川




                    「市川関所跡」


佐倉街道
水戸街道新宿分岐点にして、佐倉藩や成田新勝寺に向かう大事な街道で、庶民にとって成田山参詣道。
江戸幕府は、公道として定め新宿ー佐倉間を此処に関所を置いた。

                     常時4人の番士を配置。


             「元佐倉通り逆井道ー江戸両国橋え道法三里」


松戸関所・矢切の渡し・市川関所と

             江戸を守るため橋は、架けられなかった。


                     JR総武本線陸橋


(「千」ーたくさんの)・(「葉」ー草、花、樹木の葉)「千葉県」は、日本一の「緑」の「県」に、哲学の川・江戸川の市川市から。
昔、「市」で賑わった「市川市」、今は、ハゼの旨い「天ぷらの市川」はどうだろうか?。