イヴァン・イリイチは、1926年オーストリア生まれで、ユダヤ人の思想家である。哲学や神学の他、化学も修めている。学歴を見る限りではなかなかの知識人である。一時は、神父になり南米で布教に従事するも、次第にローマカトリックに反対し、遂には鋭角的な対立をするようになった。自身がユダヤ人でありながら、カトリックに入り、またそこから自発的に出てきて批判するなど、思想的にはなかなか起伏の激しいひとだが、一貫して、自身は哲学者であった、と思われる。
さて、そのイリイチが書いた『生きる意味』(藤原書店)を暫く前に読んだのでその感想を述べたい。
1.生および性についての根源性の探求においては私と目指している方向性は同じ。神学よりは歴史に学ぶという姿勢(P.23)には共感した。ただ、彼の思考基盤がキリスト教(カトリック)に根を張っている(P.419)。(キリスト教というより教会を非難している 部分はあるが、それはあくまでもPolicyに関してである。)
2.彼の限界を感じる一つの点としては、問題に対する複数の視点を持つ意味で、12世紀のラテン語の著者達を取り上げているが、この視点にかなり固執しすぎている事が挙げられる。彼はギリシャ・ローマの古典時代を知らない。あるいは、キリスト教以前であるというただそれだけの理由で異教という観点でしか見ていない。古典ギリシャ語はあまり読めないのが西洋のインテリとしては、決定的な弱点であろうと感じる(P.364)。
やはり、東洋を知らないと人類学的な観点の発言をした場合、我々東洋人を納得させるだけのものは少ない。この点についてはいつもながら現在西洋の思想家に私が物足りなく感じる。西洋だけが世界で唯一の文明でないのだから、やはりもっと世界の思想に目を向けるべきであろう、と感じる。概して、西洋人は東洋を知らないし、東洋人の西洋と言えば、17世紀以降の市民革命以降しか理解していない人が多い。そして、西洋のことを研究している日本人はまともに漢文が読めないので東洋(日本・中国)のことの理解が不足している。
この点では以前、ブログに書いた『歴史の壮大な三角測量』にも述べたように、私は
* 生物の一構成員としての人間
* 人類の歴史では、古今4000年の東西の歴史的事実
から私個人、および現在の我々の生き方を考えるという点に私の関心がある。
3.生の意味を考える、と大見得を切っている割りに、いつもながらキリスト教徒、ユダヤ教徒の考える人間中心主義から一歩も出ていない。地球上の生物は何も人間だけでないのだから、もっと生物一般の生存意義から、考えてその一つの事例として人類の生存意義を考えるべきというのが私の基本的考え。
(想溢筆翔:(第17回目)『らせん状の思考階段』)
4.言語、読書の仕方などに関する彼の考察に関して言うと、彼は文献学者でないので、私が理解した範囲でも間違った意見がいくつも散見される。この本では、12世紀の出来事がよく議論されるが、注釈の話(P.345)、引用の話(P.343)、などは間違っていると断定できる。ギリシャ哲学などでは、すでに紀元前後から注釈や引用はおおいになされていた。例えば、ディオゲネスの『ギリシャ哲学者列伝』(岩波文庫・上中下)を読めばすぐに分かる。例えば、黙読の例は、すでに紀元前にシーザーにしていたこは以前このブログにも書いた。(想溢筆翔:(第30回目)『♪ロウ板に書いたラブレター♪』)
5.その他、感じたことと言えば、途上国への援助(P.140)の仕方や、先進国のデモ(P.424)のしかたについての批判はかなりの部分、私と意見が共通している。しかし、彼はコンピュータを毛嫌いしている(P.371)が、私はこの意見には完全に反対である。
さて、そのイリイチが書いた『生きる意味』(藤原書店)を暫く前に読んだのでその感想を述べたい。
1.生および性についての根源性の探求においては私と目指している方向性は同じ。神学よりは歴史に学ぶという姿勢(P.23)には共感した。ただ、彼の思考基盤がキリスト教(カトリック)に根を張っている(P.419)。(キリスト教というより教会を非難している 部分はあるが、それはあくまでもPolicyに関してである。)
2.彼の限界を感じる一つの点としては、問題に対する複数の視点を持つ意味で、12世紀のラテン語の著者達を取り上げているが、この視点にかなり固執しすぎている事が挙げられる。彼はギリシャ・ローマの古典時代を知らない。あるいは、キリスト教以前であるというただそれだけの理由で異教という観点でしか見ていない。古典ギリシャ語はあまり読めないのが西洋のインテリとしては、決定的な弱点であろうと感じる(P.364)。
やはり、東洋を知らないと人類学的な観点の発言をした場合、我々東洋人を納得させるだけのものは少ない。この点についてはいつもながら現在西洋の思想家に私が物足りなく感じる。西洋だけが世界で唯一の文明でないのだから、やはりもっと世界の思想に目を向けるべきであろう、と感じる。概して、西洋人は東洋を知らないし、東洋人の西洋と言えば、17世紀以降の市民革命以降しか理解していない人が多い。そして、西洋のことを研究している日本人はまともに漢文が読めないので東洋(日本・中国)のことの理解が不足している。
この点では以前、ブログに書いた『歴史の壮大な三角測量』にも述べたように、私は
* 生物の一構成員としての人間
* 人類の歴史では、古今4000年の東西の歴史的事実
から私個人、および現在の我々の生き方を考えるという点に私の関心がある。
3.生の意味を考える、と大見得を切っている割りに、いつもながらキリスト教徒、ユダヤ教徒の考える人間中心主義から一歩も出ていない。地球上の生物は何も人間だけでないのだから、もっと生物一般の生存意義から、考えてその一つの事例として人類の生存意義を考えるべきというのが私の基本的考え。
(想溢筆翔:(第17回目)『らせん状の思考階段』)
4.言語、読書の仕方などに関する彼の考察に関して言うと、彼は文献学者でないので、私が理解した範囲でも間違った意見がいくつも散見される。この本では、12世紀の出来事がよく議論されるが、注釈の話(P.345)、引用の話(P.343)、などは間違っていると断定できる。ギリシャ哲学などでは、すでに紀元前後から注釈や引用はおおいになされていた。例えば、ディオゲネスの『ギリシャ哲学者列伝』(岩波文庫・上中下)を読めばすぐに分かる。例えば、黙読の例は、すでに紀元前にシーザーにしていたこは以前このブログにも書いた。(想溢筆翔:(第30回目)『♪ロウ板に書いたラブレター♪』)
5.その他、感じたことと言えば、途上国への援助(P.140)の仕方や、先進国のデモ(P.424)のしかたについての批判はかなりの部分、私と意見が共通している。しかし、彼はコンピュータを毛嫌いしている(P.371)が、私はこの意見には完全に反対である。